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2017年8月16日水曜日

●水曜日の一句〔黒澤麻生子〕関悦史


関悦史









弟は寮より寮へつばくらめ  黒澤麻生子


学生寮から社員寮へといったことなのか、寮を出た弟は実家へ帰っては来ない。

「兄弟は他人の始まり」という、その他人化が少し進んだ局面といえる。

当たり前のように一緒にいた家族も緩やかに拡散し、別居し、やがて不在の方が当然になって、あとは法事や介護問題でもなければ顔を合わせることもなくなってゆく。この弟も順調に行けばやがて結婚し、別に一家を構えることになるのかもしれない。

「つばくらめ」のイメージをその身に反映させつつ、「弟」は身軽にしなやかに飛ぶように寮から寮へ移ってゆく。この、一度実家に戻るという過程を経ない連続した転居は、地から足が離れたまま遠ざかっていくさまを思わせ、そこがなおさら「兄弟は他人の始まり」といった格言的な一般論になめされていく前の個別の「弟」の生身と、それにまつわる生々しいもの淋しさを感じさせる。

やがてそのもの淋しさも、毎年巣をかけに帰ってくる「つばくらめ」に寄せるのと大差ない、あたたかくも、遠い関心へと移り変わってゆく。

その変移のなかで、句中の「弟」は、あたかも「つばくらめ」に変身していくようでもある。

不吉なことではあるが、死者の魂が鳥の姿で帰るという神話的な想像のパターンを考えれば、この「弟」は「つばくらめ」の面影を帯びさせられることで、句の語り手の心中に、生身を超えた、別種の存在感を持つに至る、その過程にあるといえる。別れとはそうした変移を強いるものではある。


句集『金魚玉』(2017.8 ふらんす堂)所収。

2017年8月9日水曜日

●水曜日の一句〔樫本由貴〕関悦史


関悦史









原爆ドームの奥を撮る子や苔の花  樫本由貴


報道写真などで目にすることが多いのは原爆ドームの外観、ことにその通称の由来となったドーム部分ばかりで、遺構のなかやその奥の光景というのは、現地に行かない限りなかなかはっきり見る機会はない。

この「子」も滅多に見る機会のない物件に近づき、位置を変えつつ、写真になりにくい構図のものまで何枚も撮ったのではないか。そのようにして、建物の、歴史の、災禍の奥へ奥へと引き込まれる子を、柔らかく、地表と肉体の次元に結びつけておく「苔の花」の慎ましい優しさが素晴らしい。

奥があれば覗き込みたくなる。この子の行動は、おそらくそれだけのありふれたアフォーダンスに則ったものでしかなく、それ以上の目的はない。現在残されている建築の奥をいくら覗き、撮ったところで、原爆炸裂時の模様がわかるわけではない。この子はべつに原爆という未曽有の大規模な蛮行の表象不可能性に迫るべく、カメラを奥に向けているわけではないのだ。そもそも奥には何もない。後でネットに上げるネタとしか思っていないかもしれない。だがそこに厳然と残る現物、建築物件の力は、たしかに何十年か前、ここを原爆の爆風が吹き抜けたのだということを想像させずにはおかない。

そうしたこの子の意識、無意識に起こっているさまざまな波立ちを、句の語り手は後ろから眺め、ともに感じ取っている。この子を、安全な現在の地表という場に引きとめる静かな「苔の花」は、この語り手の化身のようでもある。


「週刊俳句」第537号(2017年8月6日)掲載。

2017年8月2日水曜日

●水曜日の一句〔金子敦〕関悦史


関悦史









色白の子が日焼子に言ひ返す  金子敦


子供同士の言い争いというそれ自体としては珍しくもない光景が、どこかしら地上の世俗性を離れたそれに見える。

句の見どころとしては、ふだん野外で活発に遊んでいるらしい「日焼子」を、文弱そうな「色白の子」が押し返し、対等にやりあいだした瞬間の意外性がまず考えられているはずだ。

しかしそれが場面の意外性だけで終わっているわけではなく、「色白の子」じつは強気という転換が、瞬時に変身でも遂げたかのように鮮やかで、しかも両者が肌の焼け具合のみによって区別され、張り合っている分、皮膚(ヴァレリーはそれを最も深いものと呼んだという)の輝かしさに、両者の人格的内実とでもいうべきものが一体化して輝きあっている風情となるからである。「色白」とはいえど青白い不健康なうらなりではない。

言い返している場面の緊張、張り、照りが、そのまま皮膚と声という形で現れた官能と生命感そのものとして句に漲り、単に「日焼け」が夏の季語だからというだけではない、夏のまぶしさが一句を満たしている。


句集『音符』(2017.5 ふらんす堂)所収。

2017年7月26日水曜日

●水曜日の一句〔折勝家鴨〕関悦史


関悦史









梅白し死者のログインパスワード  折勝家鴨


ネットでときどきネタになっているのを見かけるが、自分の死後、パソコンの中味を見られたくないという人はかなりの割合いるはずで、その場合、パソコンの中身は自分の嗜好や性癖にまつわる恥ずかしいあれやこれやということになるはずなのだが、この句の場合、「梅白し」と、死者を悼むにふさわしい季語が合わせられていて、そういった軽躁感にはつながらない。

それ以前にこれがパソコンのログインパスワードであるとは限らない。iPadや、ネット銀行の類である可能性もある。

さらに「死者」という漠然とした語彙があえて選ばれていて、「亡母」「亡父」「亡き子」「亡き友」といった語り手との関係を窺わせる要素がここにはない。

関係が明示されない漠然とした「死者」、その「死者」に合わせるに「梅白し」という過不足のなさ。最大公約数的な語彙ばかりが選ばれ、一種の抽象化を被った句である。

そして当のログインパスワード自体も、どういう性質の言葉が選ばれていたのかは全く明かされない。好きな人や好きな作品の類であったのか、それともどこから拾ってきたのか故人とのつながりが見当もつかない謎の単語であったのか。その上に、そのログインパスワードが明かされて目の前にあるのか、それとも判明せず遺族はログインできないままになっているのかも定かでない。

それら全ての違いを無化してしまい、その上に、人の生死とログインパスワードが直結する現在の世界、及びそのなかでの「ログインパスワード」だけを抽出したのが、この句なのである。抽象化し、脱色の限りを尽くしているので、「白し」は動かしがたいだろうし、「梅」でも咲いていなければひどく無機的な抽象となっていただろう。写実における手抜きや、通俗的感傷への埋没と紙一重の抽象ぶりで描かれた句を、最終的に梅の白さが覆いつくす。この抽象と植物的生命感との茫漠たる融合はオキーフの絵画に一脈通じる。


句集『ログインパスワード』(2017.4 ふらんす堂)所収。

2017年7月19日水曜日

●水曜日の一句〔横沢哲彦〕関悦史


関悦史









クリスマスカクタス次女はフリーター  横沢哲彦


「クリスマスカクタス」は「蝦蛄葉仙人掌(しゃこばさぼてん)」と物としては同じらしい冬の季語だが、単語としての印象はかなり違う。

一方「フリーター」という語も喧伝され始めた当初と今とではその含意がかなり違っている。「フリーター」の語が、拘束されない自由な新しい生き方という肯定的な意味合いで使われた時代もあったが、今は不安定な身分というややマイナスの意味に取る方が一般的だろう。次女がフリーターとなれば、親としては先行きが心配かもしれない。

ところが句の雰囲気は妙に明るい。しばしば俳句に不向きともいわれるカタカナ言葉同士が一句のなかでからみあうことで「フリーター」が詩的に昇華されているからである。「蝦蛄葉仙人掌」が硬く軽快な響きの「クリスマスカクタス」にならなければならなかった理由がここにある。「次女」によって若い女性のイメージを帯びた「フリーター」の語までが「クリスマスカクタス」と同様に、何やら明快で華やかなものに変わってしまうのだ。

もう一つのポイントは「は」によって、句の語り手がモチーフ「次女」から一度距離を取ってしまっていることである。これは使いようによっては、見得を切って名乗りをあげているような馬鹿馬鹿しさや、あるいは高みの見物じみた鈍感なもっともらしさにも通じてしまうのだが、この句においてはそれが「次女」と「クリスマスカクタス」の相関が想起させる愛情のようなものによって相殺されている。

そこが、親がどうにか出来ることでもないと思いつつ、温かく見守っているという心理的距離や心情を窺わせる。そしてその心情が当然まとうべきべたつきを、カタカナ言葉のからみあいが灰汁抜きしているのである。

結果としては、フリーターである次女がその辺のサボテンと同列に扱われて軽んじられているようにも見えるのだが、そこが無神経さや適当な無関心といった家族間の微細な行き違いを漂わせつつも、フリーターである次女を句中において花へと変容させることにもなっている。


句集『五郎助』(2017.6 邑書林)所収。

2017年7月12日水曜日

●水曜日の一句〔松井眞資〕関悦史


関悦史









ゴミ屋敷のゴミがうれしい穴まどい  松井眞資


秋の彼岸を過ぎても冬眠せずにうろうろしている蛇が「穴まどい」だが、この句の「穴まどい」は、心細さがないわけではないのだろうが、夜更かしか何かを楽しんでいるようにも見える。

「うれしい」とはっきり書かれてしまっているからではあるが、これは擬人法というよりは共感を示していて、句の語り手当人もゴミ屋敷のゴミをうれしがっているようだ。

ゴミ屋敷など隣近所にあったらはた迷惑以外の何ものでもないが、今の日本の都市住民にとって、どこへ行っても規格通りで何の変化もない景観ばかりのなか、混沌を際立たせて目を引く物件は、もはやこれくらいしかないのかもしれない。

蛇にとっても、これは適度に身を隠しつつ、積み重なった廃物の隙間を、前後左右上下に自在に通り抜けることのできる迷路的な空間である。ゴミ屋敷の混沌を本当に楽しめるのはむしろ蛇なのではないか。

ゴミの隙間を通れる小さい生物ならば何でもいいというわけではない。蛇の体の形態は、紐を引き摺るようにその行程の全てを逐一可視化しながら複雑にうねって進んでゆく。

「ゴミ屋敷のゴミ」と「穴まどい」とは、互いの形態的特徴を生かし合い、開花させあう関係といえる。ごく小汚い、詩情に乏しい空間と、冬眠もせずに徘徊する蛇との関係から、童心とも無心ともつかない心弾みを引き出しているのが「うれしい」なのである。

平穏にさびれきった廃墟とは違い、居住者の孤立や荒廃した心情が生臭く溢れ出ているゴミ屋敷という物件を、穴まどいが慰撫し、景物に転じている。


句集『カラスの放心』(2017.6 文學の森)所収。

2017年7月5日水曜日

●水曜日の一句〔横山康夫〕関悦史


関悦史









山国の深雪にゆらぐ御燈明  横山康夫


見えているのは仏壇か神棚の「御燈明」だけだろう。そのゆらぎの周りは暗く、さらに家の外には「深雪」の「山国」が広がる。そちらは気配として、あるいは認識としてあるだけだが、それら全てを集約するものとして「御燈明」はゆらいでいる。

「山国」の「山」といい、「深雪」の「深」といい、自然の闇への畏怖を強調する言葉で、ほとんど芝居がかりなまでに、一句が絵として出来過ぎている気がしなくもない。ことに「山国」は、そうでない地域との差を知っていることを窺わせるので、句の語り手が必ずしもそこでの暮らしに埋没しきっているわけではないという醒めた距離感を併せ持っているようにも感じられる。

しかし、これはその土地の歴史、風土と精神性を負って、そこで暮らす者の目か、それとも外部からたまたま訪れた者の観光客的に物珍しがる目かということになると、後者にしては、この御燈明は少々板につきすぎているようだ。山と雪の大質量のなかに暮らしてきた代々の先祖たちの営みそのもののようにして御燈明はゆらぐ。ゆらぐだけであり、それは何も語らない。それが死者の在り方であり、その御燈明に見入る者も、その時、醒めたままでありながら、代々の霊のひとつとなっている。

「山国」や「深雪」といった知覚による把握が、「御燈明」の想像力に浸透されて深化するあたり、バシュラールの『蠟燭の焔』の俳句版のようでもある。


句集『往還』(2017.7 書肆麒麟)所収。

2017年6月28日水曜日

●水曜日の一句〔若林波留美〕関悦史


関悦史









光速を超えしさびしさ月夜茸  若林波留美


光速を超える物質は存在しないということに、今のところなっているらしい。数年前に光速を超えるニュートリノが観測されたとの実験結果が報じられたことがあったが誤りだった。

なのでこの句の「光速を超えしさびしさ」は、字義通りに取れば、現実を超えたところで初めて味わい得る感情ということになる。

いや、常識的に取れば《月夜茸には光速を超えたようなさびしさが感じられる》といった句意となるのだろう。発光する毒茸に対し、「光速」と「さびしさ」はそれぞれ《光》と《人への拒絶》という共通性を通じて連想が及び、しかしイメージとしては詩的な飛躍をもたらしている。月夜茸が宇宙を越えて飛来した生物のようにも見えてくるのだ。

だがそれにしても、「光速を超えしさびしさ」とは、孤立しているには違いないとしても、それは陶然たる自足に近い。その自足が発光をもたらすのだろうか。

あえて比喩的にではなく取った場合、光速を超えたのは「月夜茸」か、それともそれを見ている語り手かといった設問はおそらく無意味で、「光速を超えしさびしさ」はその両者が一瞬のうちに果たした邂逅と理解のうちに共有されている。地球の生命の起源は宇宙からの飛来物という説もあることを思いあわせれば、「月夜茸」とわれわれの間に大差はなく、別々の姿を取るにいたっているとはいえ、どちらも同根の、宇宙のなかの一現象と見えてくる。「光速を超えしさびしさ」とは、全ての生命を産み出すマトリックスなのだろう。


句集『霜柱』(2017.5 東京四季出版)所収。

2017年6月21日水曜日

●水曜日の一句〔長谷川晃〕関悦史


関悦史









オフェーリアの眼に笑ひあり万愚節  長谷川晃


オフェーリアはシェイクスピアの「ハムレット」で恋人ハムレットに捨てられ、父を殺され、身を投げて死ぬ悲運の女性。絵画の題材としてもよく取り上げられているが、最もよく知られているのはジョン・エヴァレット・ミレー(バルビゾン派のミレーとは別人)による水死体の油彩画ではないか。

特にその絵に限定して鑑賞しなければならない句ではないので、ひとまずそのイメージは振り払うとしても、生前の「笑ひ」ではなく、身投げした水死体と取らなければこの「笑ひ」の戦慄は生きてこない。

シェイクスピアの四大悲劇はみなそうだが、「ハムレット」そのものが、さして長い話ではないにもかかわらず混沌を含んでいて、先王の幽霊の登場する序盤から、ドミノ倒し的に登場人物がバタバタ死んでいく終盤まで、人のなかにありながら人のスケールを超えた力といったものが横溢している。

この「笑ひ」はその渦中で身を滅ぼしたオフェーリアの恐怖や諦念、侮蔑など、さまざまな感情が凍りついたような笑いである。

そこに季語「万愚節」が取り合わせられると、この悲劇をすべて嘘だといってほしいといった情緒纏綿たる悲しい「笑ひ」にも見えるが、一方、オフェーリアの人生そのものが一場の嘘という扱いにされてしまっているようにも見える。

いやしかし、そもそもオフェーリアは虚構の登場人物なので、本当の意味での人生というものはない。

「オフェーリアの眼に笑ひあり」という断定自体が嘘なのではないかということも考えられるが、これは真偽が確定できる命題ではない(虚構の話だからというのもさておき、劇中ではオフェーリアの死は「死んだ」という報せだけで済まされてしまい、直接描かれてはいなかったのではなかったか)。

一見、空想と理屈で付けられただけに見える「万愚節」だが、この句の、若い悲運の女性の水死体のイメージは、嘘-本当、虚構-現実という軸を混乱させ、いかなる物語に収まればよいのかを曖昧にたゆたわせたまま、「万愚節」という碇によって一句につなぎとめられている。その曖昧なたゆたいを体現しているのが「笑ひ」なのだ。


句集『蝶を追ふ』(2017.5 邑書林)所収。

2017年6月14日水曜日

●水曜日の一句〔北大路翼〕関悦史


関悦史









柿ピーのわづかなる差異明易し  北大路翼


普段気にもとめない柿ピーの形状のわずかな違いに目が止まること、そしてそれをわざわざ客観写生風に五七五にしてみせることが持つ俳諧味が、さしあたりこの句の特徴のように見えるが、それだけではない。すぐに食われてしまうこともなく、その外観に目を止められた柿ピーは、実用性を離れた美術物件のような存在感をあらわにしつつ、その表面に「明易」の微光をまとい始めるのである。

これが早朝から柿ピーで朝食を済ませてしまっている景のはずもなく、朝の支度の気忙しさが微塵も見当たらない、放心を思わせる視線を受ける柿ピーは、前夜からの酒のつまみとしてその辺にあったものとでも見たほうがよい。柿ピーを目で彫り出すようなナンセンスに近い凝視は、暮らしのなかの倦怠の一場面をもその背後に浮き立たせることになるのだ。

すぐにはものを食う気にもならぬ二日酔いじみた消尽ぶりによって、いささか殺伐たる生活空間を思わせる句ではあるが、さしたる値段でもない柿ピーを、朝の微光のなかのオブジェに変容させてしまう「差異」という把握にユーモアがある。

そして、そのユーモアや倦怠が持つ灰汁すらも「明易し」がきれいに拭い去り、生活実感、というよりも、荒みに近い身の重みを殺さぬまま、一句を清浄なものへとまとめ上げるのである。安手な句材が静物画に化けた違和感の味わいは、同時代日本の、ある種の具象画表現に通じるところもある。


句集『時の瘡蓋』(2017.5 ふらんす堂)所収。

2017年6月7日水曜日

●水曜日の一句〔高石直幸〕関悦史


関悦史









無量大数越えて矜羯羅去年今年  高石直幸


「無量大数」まではまだ耳に馴染みがあるが、「矜羯羅(こんがら)」もここでは不動明王の従者の矜羯羅童子ではなく、数の単位を指すらしい。「越えて」の一語があるおかげで、知らなくともこれが数にかかわるらしいと見当はつく。ネットで何ヶ所か検索してみると華厳経が出典で、正確な数値にはさほどの意味もないだろうが、10の112乗になるという。人のとうてい把握しきれない数であり、カントのいう数学的無限による「崇高」に達している。

「去年今年」と抽象的巨大さとの句といえば高浜虚子の《去年今年貫く棒の如きもの》が浮かぶ。この「矜羯羅」の句もそのヴァリエーションと取れるが、虚子の句においては抽象的な巨大さを持つ流れが人に接し、人が触知できる一部分のみに限定されて捉えられ、その前後は茫々たる遠さのなかに霞んでいるのにくらべ、「矜羯羅」の方は相当な遠距離まで認識だけはされている。虚子の句が、果てのしれない長さをもつ大蛇の胴体に不意に触れたかのような感触を帯びているのに対し、こちらは星空を見上げつつ、自分の存在の微小さを開放感とともに味わっているような趣きがあるのだ。

ただしその数量的無限も「矜羯羅」なる宗教味を帯びた語が用いられると、ただの抽象ではなく、あるキャラクター性を帯びてくる。この言葉は元のサンスクリット語では召使、奴僕を意味するらしいので、そこまで読み込んでしまった場合、この句の語り手にも、法理にしたがう順良さがまつわることにもなってくる。

しかしそこまではあえて踏み込まず、国宝級の伽藍の類を一観光客の目で見て悠久の時の流れに思いをはせているといったようなごく卑近な感懐を、年の変わり目と巨大な数の単位から引き出したというくらいの軽い受け止め方にとどめたほうが、「無量大数」も「矜羯羅」もかえって利く気がする。


句集『素数』(2017.5 文學の森)所収。

2017年5月31日水曜日

●水曜日の一句〔安井浩司〕関悦史


関悦史









燃え果てるまで藁人形に籠るひと  安井浩司


藁人形といえば丑の刻参りに用いられる、他人を呪殺するためのそれがまず思い浮かぶが、副葬品や厄除けとして使われるものもある。

ちなみに作者、安井浩司が住む秋田には「鹿島様」と呼ばれる巨大な藁人形があり、これは村の中の悪疫を負わせて河や海に流したり、地域によっては燃やすところもあるらしい。この句のように、中に人が籠れるとなればかなりの大きさで、五寸釘を打ちつける呪具としての藁人形よりは、「鹿島様」のようなものを思い浮かべたほうが適当か。

しかしこの句はもちろん実際の行事をそのまま詠んだものではないのだし、発想のもとにそうした風習があったということを確認することさえ不要とも考えられる。この句で藁人形に籠っている人は、民俗的慣習として、共同体の了解のもとに籠っているというよりは、荒々しいまでに静謐で孤独な単独者ぶりをあらわにして、燃え盛る藁人形に自発的に籠っているように見えるからだ。

ただの人ではなく、燃やされ、追い払われる悪疫そのものを「ひと」と感じたとも取れる。その「ひと」の存在を感じとってしまった語り手も、やや追い払われる側に引き寄せられ気味のようだ。語り手は火を止めるでもなく、あるいは逆に積極的に火の手をかきたてて「ひと」を追い払うでもなく、ただ凝然とその焼失に立ち合うのみである。感情としては、悲しみとも満足ともつかないものが一句を満たす。

おそらくその感情は、句を構成する言葉を手探りで探りあて、組み上げていった結果としてあらわれたものであり、初めからそういうものを描き出すべく書かれた句では、これはない。燃え果てるまで藁人形に籠るひととは、そのようにして句の成立とともに見出された「ひと」であり、その「ひと」は藁人形のなかだけではなく、句を作っては送り出す工程そのもののなかにも籠っている。その意味でこの句は、句作という行為自体を詠んだパフォーマティヴな句でもあり、批評性に富んだ句といえるのだが、それにしてもそうしてここに現れた自己犠牲じみた「ひと」の形象の、なんと深く情動的であることか。


句集『烏律律』(2017.6 沖積舎)所収。

2017年5月24日水曜日

●水曜日の一句〔山口昭男〕関悦史


関悦史









一本の線より破れゆく熟柿  山口昭男


エロティックなようでもあり、不穏なようでもあり、何かが開示される啓示的瞬間のようでもある。

熟柿といえば〈いちまいの皮の包める熟柿かな 野見山朱鳥〉のように、破れやすさをはらみつつも、全き姿のままに描かれる句が多い気がする。食べられたり鳥につつかれたりしている場面を詠んだ句をべつにすれば、みずから破れていく局面を掬った熟柿の句というのは、案外少ないのではないか。

その破れも、この句では一本の「罅」や「裂け目」ではなく、一本の「線」からはじまり、広がってゆく。三次元の具体物に走る裂け目というよりは、それを絵に描くときの二次元的に抽象化の度合いを上げた認識法が、具体物たる熟柿にじかに貼りついているのである。その抽象化がはさまっているからこそ、逆に「熟柿」の物体としての存在感が際立ってくる。

物と認識のはざまを高速で揺れ動きながら、熟れきったゆえに自壊してゆく熟柿は、現前と絵画的な再表象の境目で引き裂かれてゆきながら、そのこと自体を深く愉しんでいるようで、在ること自体の恐怖と快楽が、あまり観念化されることなく、静かに、しかし激しく句に書きとめられている。


句集『木簡』(2017.5 青磁社)所収。

2017年5月10日水曜日

●水曜日の一句〔山中正巳〕関悦史


関悦史









夢精てふ言葉は美しき桃の花  山中正巳


夢精という現象が、ではない。言葉「は」である。

この語が何を指すかを知らなかったとして、その内容を想像し、夢の精と取った場合、たしかにファンタジー的な美しさを持った言葉と捉え得るだろう。

ただしこの句は、ひるがえってその実態の汚さを皮肉に笑うことが主眼といった作りにはなっていない。「桃の花」が情調を決めており、その桃色が句の方向を夢精自体から逸らし、くつろげさせ、夢精ひいては生そのものまでをも桃源郷的な華やかな明るさに染め上げていくからである。

実態としての夢精の情けなさ、汚さも、そのなかに巻き込まれ、肯定されていく。遠く離れて見れば、すべてが美しく見える。その遠さを組織しているのが季語の「桃の花」と「言葉は」という迂回路なのであり、この句は言葉と実態のずれに興じて事足れりとしている句ではないのだ。

かくして軽い皮肉さや余裕の向こうに、若い身体が桃の花そのもののように浮かび上がる。修辞や詩形式を扱うとはそもそも間接的なわざで、その間接性、倒錯性を介してこそ浮かび上がってくる穏やかな肯定が一句を満たしている。


句集『静かな時間』(2017.4 ふらんす堂)所収。

2017年5月3日水曜日

●水曜日の一句〔古田嘉彦〕関悦史


関悦史









三角部屋を寒いと言うのは誰か  古田嘉彦


「言った」ではなく「言う」なので、いま現在「寒い」と言う者は同室しているらしい。いや、ひょっとしたらこれから「言う」という未来の事象なのかもしれず、その場合、誰かが「寒いと言う」ことは、まだ起こっていないにもかかわらず確定していることのようなのだが、いずれと取っても奇異な閉塞感が漂う。

原因の一つは言うまでもなく「三角部屋」という奇態な空間であり、しかもそこは寒いらしいということだが、さらに奇妙なのは、そこに誰が誰か互いにわからなくなる程の人数が一緒にいるらしいことである。彼らの関係や、なぜそこにいるのかといった事情は一切わからない。いや、これにも全員がなかに閉じこもっているわけではなく、戸を開けて入った瞬間に「寒い」という言葉を発したと取れないこともない。

だが一句を読み下してみたときの印象として、彼らはずっと三角部屋に閉じこもっているように思える。寒いならば出てゆくか煖房をかけるかすればいいのだが、ここにはそういう選択肢はない。あるならば誰の発言かを詮索している間に然るべき行動を取るだろう。ここには行動の自由はない。さらに、厳密には、発言者が誰かを本当に詮索しているのかどうかも怪しい。この「寒いと言うのは誰か」はそんなことを言ってはならないという禁圧とも取れる。

心象を象徴的に詠んだ句というのが、一応の理解の仕方となるだろうが、「三角部屋」自体にイメージ・シンボル事典の類に載ることができそうな、積み重ねられてきた象徴の歴史といったものがあるとも思えない。ここにあるのは、或る偏波さ、尖鋭さを帯びつつ建築の隅に追いやられた部屋の形象と、そのなかで黙っていつまでとも知れぬ時間をおのおの耐え続ける複数の人たちという状況だけである。この遭難者の群れのような人影に、「三角部屋」という空間が具体性を与える。「三角部屋」から解放された時、彼ら自身もまた雲散霧消してしまうのかもしれない。ここでは拘束、膠着こそが存在に基盤を与えているのである。


句集『展翅板』(2017.3 邑書林)所収。

2017年4月19日水曜日

●水曜日の一句〔関根千方〕関悦史


関悦史









けさ秋や塵取にとる金亀子  関根千方


季重なりの句だが「今朝の秋」が主、「金亀子」が従とはっきり序列がある。単にピントをぼけさせないよう整理がゆきとどいているというよりは、夏のものであるコガネムシが立秋の朝を引き立てるためのダシとして利いているというべきだろう。上五に季語を置いて「や」で切り、下五を五音の名詞で止めるという有季定型句のお手本のような作りも内容に合っている。塵取に落とされた瞬間、コガネムシのかたさが立てる軽い音が、夏から秋へと移行する朝の空気の質感を際立たせ、感覚的な清新さをもたらす。

そうしたことどもの四角四面さが自足に直結し、却って狭苦しさや苛立たしさを引き起こしてもおかしくはないはずなのだが、この句にはどこかいい意味での隙間があり、季語の美しさばかりで一句が満たされきっているというわけではなさそうだ。

音や質感がもたらす即物性が、CGじみた美しい季語の世界の完結感を、外の実在物の世界へと開かせているということもあろうが、「金亀子」が虚子の《金亀子擲つ闇の深さかな》を思い起こさせ、秋朝の空気のなか、塵取に落ちる「金亀子」の体内に「闇の深さ」への通路を感じさせているということもある。しかしそうした間テクスト性による膨らみもまた、日本の古典文学における模範のような四角四面さへと繋がってしまうものではある。

この何から何まで模範的でしかないような作りの句が、それでも成り立っているのは、結局作者の受動性、あるいは出来事と感動の時差によるものなのではないか。塵取にとられた金亀子が立てるかすかな物音は、重く鬱陶しい感動を引き起こしたりすることなく、作者が何を物語るひまもないうちに、俳句の技法が自走するようにして一句に仕上がってしまうのである。この句に描かれた全ては、作者や読者の人格的統合性を斬るように瞬時にとおり過ぎる。そここそが快感なのだ。手練れの俳人であれば、その快感を過不足ない五七五に反射的にまとめ得る。この句の模範ぶりはその結果としてあらわれたものなのだ。


句集『白桃』(2017.3 ふらんす堂)所収。

2017年4月12日水曜日

●水曜日の一句〔岡田耕治〕関悦史


関悦史









初時雨倉庫の中に椅子を置き  岡田耕治


この句、「倉庫の中に椅子を入れ」ではない。「~置き」である。椅子をしまって去ってしまったわけではない。置いた椅子には自然と腰をおろすことになるだろう。自室や勤務先の椅子ではない、普段はそこでくつろぐことはおそらくないであろう倉庫でのひと時である。

子供のときには家のなかのあちこちに、こうした普段とは違う使い道を発見し、狭いところにも猫のように入り込んでゆくものだ。そこには狭いところに身を隠す安心感と、見慣れたところから不意に引きだされる意外な視野の新鮮さの両方がある。

しかしながら、この句中の人物はおそらくもう子供ではない。季語は「初時雨」である。その年最初の時雨であり、季節は冬に入っている。ここからおのずと、ある程度年齢のいった人物像の落ち着きも浮かんでくる。

倉庫から眺める時雨は、幼時のような心の弾みの影を引きながらも、安息感をもって人を憩わせる。さしあたり、椅子と屋根さえあれば、世界はどこであれ母胎としての貌を見せるのかもしれない。そしてそうした変容の可能性は、何の変哲もない倉庫にもひそんでいるのである。


句集『日脚』(2017.3 邑書林)所収。

2017年3月29日水曜日

●水曜日の一句〔増田まさみ〕関悦史


関悦史









ことだまを二階へはこぶ蝸牛  増田まさみ


「二階」は客間、居間、台所のような、人の出入りや生活の喧噪からは切り離された場所である。そこへ「ことだま」を運ぶ「蝸牛」という奇妙なものが向かってゆく。こうなると家の中のつねのこととは思えなくなる。

ひらがな書きされた「ことだま」は言霊であると同時に、コトリと音を立てて置かれることもできそうな、石の玉のような実体感をかすかに帯びたものともなり、それが蝸牛に運ばれるのである。

蝸牛ははたして自分がそんなものを運んでいることを知っているのか。それとも実体と非実体のはざまにあるのをいいことに、「ことだま」は蝸牛にそれと知られることもないまま、憑りついて運んでもらっているのか。あるいは蝸牛にとってこの「ことだま」は自なのか他なのか。この実体と非実体のはざまならではの曖昧さは、渦巻き状の殻の軽い硬さと、中味の不定形にも近い重い柔らかさとが綯い交ぜになった、蝸牛の形状に見合っている。

蝸牛の遅々とした歩みに分子ひとつひとつが確認され味わわれるようにして、家は二階へいたる一筋の道を分泌していく。進めば進むほどに、上れば上るほどに無限感が湧いて出てくるようでもあり、この句は不思議な明るみを形成している。この「ことだま」が担った霊力に、悪しきものという感じはない。このような微小でひそかな霊的交通の場ともなりうるものとして、家はわれわれを住まわせる。


句集『遊絲』(2017.2 霧工房)所収。

2017年3月22日水曜日

●水曜日の一句〔堀田季何〕関悦史


関悦史









階段の裏側のぼる夢はじめ  堀田季何


夢にあらわれる建築はいま現在住んでいるところよりも、幼時になじんだところのほうが多いらしい。場所の記憶も、自己そのものの一部ということか。

なかでも階段は途中性と幻惑感の強い場だが、この句ではそのさらに「裏側」をのぼっている。遠近法を欠いた夢のなかの空間ならではの魅惑を引きだす混沌ぶりといえる(それにしても「のぼる」とはこの場合、通常な上下軸からみて上にあたるのか、下にあたるのか)。

「夢はじめ」は初夢のことだが、句中に置いたときの効果が「初夢」とはまるでちがう。「初夢」では動きが止まり、ほとんど報告句と化してしまうのである。「夢はじめ」という始動をあらわす単語なればこその湧出感や流動性のようなものがこの句にはある。そしてそのゆるやかな動きは夢のなかにはとどまらない。新年に発し、そのまま現実の一年をも規定してしまうのだ。

階段の裏側をのぼりはじめてしまう新年とは、このとき、夢と現実の関係自体が入り乱れはじめる新年にほかならない。「階段の裏側」という場は夢と現実とが融通無碍に入れ替わる事態そのものである。そこを「のぼる」とは、記憶、無意識、自己の暗部を撹拌し、汲みあげつつの詩的昇華がこれから果たされるということにもつながってゆくのだろう。性的放縦の気配もひそんでいる。


「GANYMEDE」vol.69(2017年4月)掲載。

2017年3月15日水曜日

●水曜日の一句〔武藤紀子〕関悦史


関悦史









密に描けば抽象となる蝸牛  武藤紀子


ある物を見つめつづけているだけでも、次第にゲシュタルト崩壊が起こり、何を見ているのやら判然としなくなるということはある。「密に描く」とはその過程を眼だけではなく、手の運動の軌跡へと変換しつづけていくことで、変換の過程自体を物件化していく作業にほかならない。

密に描かれた対象物は、じかに接するのと違い、全域に均等な圧力を持ったイメージとして見る者の前に立ちはだかる。いわば見る者は、ここでは描く手の動きの痕跡をひとつのこらずたどりかえすことを強いられ、ひとつひとつの線やタッチを対象物の形態と照らしあわせて読むことを強いられるのだ。

そのような分解と再統合への圧力をふくんだ画面は、対象物にもともと潜在していた「抽象」性を展開して見せただけとも考えられるが、しかしいくら細密に描かれたところで、それがそのまま抽象と化すということは、大概の動植物では無理である。まず形態的なまとまりとして認知されてしまうはずだ。

その点、もともとが幾何学的な形態と複雑微妙な色調変化の細部を持つ巻貝ならばたしかに抽象となりおおせることは簡単ではある。しかし螺旋形の貝殻がそのまま「抽象」となったところで、そこにはさしたる飛躍は生じない。貝殻だけではなく、不定形にちかい蝸牛の軟体が必要とされるのだ。

貝殻から軟体が出てきて歩きだすように、蝸牛はつねになまなましい具体から、いつの間にか抽象へと変じることができる潜勢力を持っている。この句はそのようなものとして蝸牛を異化し、捉えている。そしてそのことは蝸牛を、その形態への考察を梃子にリアルに感じさせるというだけにはとどまらない。具体即抽象という大きな変容の、蝶番の位置を蝸牛が占めることになるのだ。この世のすべての具体物が抽象に化しおおせる特異点として、蝸牛が緻密にうごめきつづけることになるのである。

博物学的図像に見入る行為にひそむ羽化登仙にも似た愉楽、それ自体を抽出した一句といえようか。


句集『冬干潟』(2017.2 角川書店)所収。