2024年4月27日土曜日

■竹岡一郎 敬虔の鎧 42句

竹岡一郎 敬虔の鎧 42句




画像をクリックすると大きくなります


建国日山雨に燃ゆる眼はをろち

父たちの離ればなれに征く焼野

天譴偽り黙契照らし野火は里へ

憑依の誤差とは薔薇の芽か童貞か

咲ひ閉ぢバレンタインの日の鋏

白魚の煮え閨怨を煽るらし

殴打の継承断つに霞の心身を

母たちは崖に泣き合ふ凧は沖

娘遍路の眺め殺すは自瀆漢

涅槃絵に骨とどめ置く外道かな

渦潮の巫山雲雨のうなさかへ

水憑く白さ雛の夜の仰臥とは

銀鉱の露頭に蒔きて毛深き種

囀りの昏きに母ら喰らひ合ふ

打ち揚がる手が摑みをり流し雛

春眠のたび霊となり月の裏へ

わらび湧くひそかな殉死さらすべく

貝のうち裂ける莟や卒業式

心中ごつこ蝶のつがひの出づるまで

雪のはて笛臥すのみの柩担ぐ

蘖を総身に生やし不死の志士

心拍を凧の糸から天へ拡ぐ

春を似て鏡のシケとわが鏡像

己が尾を欲り花衣まくるのか

電子にも香を聴く霊の春愁

花吐けり翼重くてならずもの

春の瀧無念の巨き顔降りつぐ

落人の杓文字鳴らすが花ざかり

鳥の巣の要とならむ透る髪

夢の老ゆるに耐へず落花は顔覆ふ

遍路ふたり蛹どろりと曳き摺つて

百千鳥忘られし忌が森に染む

頂点に蝶あまた噴く観覧車

花守の悔悟に猛る篝百

譜の孔うごめく招魂祭の自鳴琴

隕石は礫と散りて花うながす

雲雀野を火の粉散るごと逃げよ追ふよ

乳房へと海胆もどかしく匍匐せり

心音を海女に褒められ覚めやらぬ

土蜘蛛の網いちめんの桜の香

鉄鉢へ降り積む花の阿鼻を聴け

敬虔の鎧を組み直す遍路


2024年4月26日金曜日

●金曜日の川柳〔渡辺和尾〕樋口由紀子



樋口由紀子





僕のてのひらでひとのてのひらかな

渡辺和尾(わたなべ・かずお)1940~2021

自分のてのひらを見て、このてのひらは自分のためのてのひらであり、ひととつながり、ひとのためにも使う、やわらかいてのひらであるとつぶやいているのだろうか。

「僕」だけが漢字であとはすべてひらがな表記である。<僕の掌で人の掌かな>とは別の様相を呈する。ひらがなの並びには表情がある。ただ、てのひらをみつめているだけで、そこに理由や理屈を嵌め込む必要ないのかもしれない。ひらがながころころところがりながらひろがり、ひらがなでかたちづくられた世界が顔を出す。その素直さを感受する。『回歸』(2003年刊 川柳みどり会)所収。

2024年4月25日木曜日

【新刊】『全国・俳枕の旅62選』広渡敬雄

【新刊】
『全国・俳枕の旅62選』広渡敬雄




2024年4月22日月曜日

●月曜日の一句〔坪内稔典〕相子智恵



相子智恵






今午前十時三分チューリップ  坪内稔典

句集『リスボンの窓』(2024.3 ふらんす堂)所収

時間とチューリップだけが置かれた句。〈今午前十時三分〉という時間設定がなかなかである。まず、午前午後も含めてきっかりと今の時刻を描きこんだことで、時間に敏感になる平日を想像する。チューリップが咲く、年度初めの忙しい頃だ。

そして、〈午前十時三分〉というオンタイムに、たぶん晴れていて、チューリップがよく見える場所。例えば公園の花壇など……で、チューリップを眺めていられる人というのは、ビルの中で働く人や学業にいそしむ人などは、自然と想像から省かれるわけで、それだけで不思議とのんびりした気分が出てくる。リタイアして時間に余裕のある人か、あるいはちょっと「さぼり」の気分がある感じ。

さらに掲句の音、「ジュージサンプン/チューリップ」あたりの口が喜ぶ語呂のよさは、無造作なようで実はよく練られたものである。

偶然性を喜び、技巧を凝らさないようでいて、読者に与える印象は作者としてしっかり構築している。こういう「抜け感」(ファッション誌でいうところの、気取らずにリラックスした雰囲気を感じさせる、余裕のある洋服の着こなしのこと)のつくり方が、いつも見事な作者だと思う。

 

2024年4月21日日曜日

●川柳関連記事リンク集 その2 『週刊俳句』誌上における

川柳関連記事リンク集 その2
『週刊俳句』誌上における


飯島章友 川柳はストリートファイトである 第412号2015年3月15日

飯島章友 何度も反す八月の砂時計 1 第488号 2016年8月28日

飯島章友 何度も反す八月の砂時計2 第489号 2016年9月4日

小池正博に出逢うセーレン・オービエ・キルケゴール、あるいは二人(+1+1+1+n+…)でする草刈り 柳本々々 第403号 2015年1月11日

俳句/川柳を足から読む ホモ・サピエンスのための四つん這い入門(或いはカーニバルとしてのバレンタイン・メリイ・クリスマス) 柳本々々 第408号 2015年2月15日


恋するわかめ、或いはわかめの不可能性について 川柳はときどき恋をしている 柳本々々 第451号 2015年12月13日

あとがきの冒険 第17回 会える・ときに・会える 時実新子『新子流川柳入門』のあとがき 柳本々々 第503号 2016年12月11日

あとがきの冒険 第20回 斡旋・素手・黒板 樋口由紀子『川柳×薔薇』のあとがき 柳本々々 第509号 2017年1月22日

あとがきの冒険 第23回 って・途中・そ なかはられいこ『大人になるまでに読みたい15歳の短歌・俳句・川柳 ③なやみと力』のあとがき 柳本々々 第512号 2017年2月12日
ことばの原型を思い出す午後 飯島章友の川柳における〈生命の風景〉について 小津夜景 第510号 2017年1月29日

八上桐子『hibi』を読む 三島ゆかり 第828号 2023年3月5日

川合大祐川柳句集『スロー・リバー』を読む 三島ゆかり 第832号 2023年4月2日

【柳誌を読む】『川柳ねじまき』第2号(2015年12月20日) 西原天気 第455号 2016年1月10日

非-意味とテクスチャー 八上桐子の川柳 西原天気 第828号 2023年3月5日

特集 柳×俳 第383号 2014年8月24日

柳俳合同誌上句会2020 

柳俳合同誌上句会2022

2024年4月20日土曜日

●川柳関連記事リンク集 その1 『週刊俳句』誌上における

川柳関連記事リンク集 その1
『週刊俳句』誌上における


柳×俳 7×7 樋口由紀子×齋藤朝比古 第6号 2007年6月3日

「水」のあと 齋藤朝比古×樋口由紀子 第7号 2007年6月10日

柳×俳 7×7 「水に浮く」「水すべて」を読む 上田信治×西原天気 第7号 2007年6月10日

────────────────────────────

柳×俳 7×7 小池正博×仲寒蝉 第8号 2007年6月17日

「悪」のあと 仲 寒蝉×小池正博 第9号 2007年6月24日

柳×俳 7×7 「金曜の悪」「絢爛の悪」を読む 島田牙城×上田信治 第9号 2007年6月24日

────────────────────────────

柳×俳 7×7 なかはられいこ×大石雄鬼 第16号 2007年8月12日

 「愛」のあと 大石雄鬼×なかはられいこ 第17号 2007年8月19日
https://weekly-haiku.blogspot.com/2007/08/blog-post_19.html

 第16号・柳×俳 7×7 「二秒後の空と犬」「裸で寝る」を読む(上)遠藤治・西原天気 第17号 2007年8月19日

同(下)遠藤治・西原天気 第 18号 2007年8月26日

────────────────────────────

川柳 「バックストローク」まるごとプロデュース号 第150号 2010年3月7日


〔週俳3月の俳句・川柳を読む〕穴について 斉藤齋藤 第156号 2010年4月18日

────────────────────────────

爽快、「理解不能で面白い」という感じ方。樋口由紀子『川柳×薔薇』を読む 山田耕司 第213号 2011年5月22日

親切で誠実な批評 樋口由紀子『川柳×薔薇』を読む 西原天気 第251号 2012年2月12日

川柳という対岸 『バックストローク』最終号を読む 西原天気 第242号 2011年12月11日

川柳大会の選句をしました 西原天気 第399号 2014年12月14日

2024年4月19日金曜日

●金曜日の川柳〔竹井紫乙〕樋口由紀子



樋口由紀子





両足がつった場合のセロテープ

竹井紫乙(たけい・しおと)

同じテープだけれど「テーピングテープ」では?とまず思ってしまった。川柳は事実を書くものだけではないから、もちろんかまわないけれど、軽く心地よく裏切られる。「セロテープ」を入れることのよって、「テーピングテープ」が飛んでいく。「テーピングテープ」が抜けることによって、「セロテープ」が浮き上がってくる。

「セロテープ」のどことない寄る辺なさが意外なほどの存在感を発揮する。なぜ、「両足がつった場合」なのかは謎だが、言葉の綾を活用して、言葉を動かすおもしろさがある。文脈の中で生じる意味を楽しみたい。

2024年4月17日水曜日

●西鶴ざんまい 番外篇21 浅沼璞



西鶴ざんまい 番外篇20
 
浅沼璞
 
 
開催前から話題の「大吉原展」(3/26~5/19 東京藝大美術館)を観てきました。

 
三都の遊里(嶋原・新町・吉原)のうち、西鶴と最も縁のうすい吉原とはいえ、17世紀後半の展示作品には、浮世草子を彷彿とさせるものが多く、興味が尽きませんでした。以下、大判300頁超えの大部な図録を参照しつつ綴ります。


まず目をひいたのが菱川師宣。『好色一代男』江戸・海賊版の挿絵を描いた師宣ですが、その『江戸雀』(1677年)は江戸で刊行された最古の地誌との由。見開きの挿絵「よしはら」では、あの「見返り美人図」の原型の如き太夫の道中姿(ほぼ四頭身)が、俯瞰的な構図で描かれていました。

 
つぎに目をひいたのが衣裳人形の「遊里通い」(大尽・中居・奴)です。衣裳人形とは、〈木彫胡粉仕上げの体躯に人間の着物と同様の布帛(ふはく)で衣服をつくって着せた人形で、なかでも同時代の遊里や芝居を主題としたものは「浮世人形」と称されて天和・貞享の頃(十七世紀後期)から技巧化がすすみ、大人が鑑賞愛玩する人形として発展した〉ものだそうです。

とりわけ大尽の若侍は、一代男・世之介を思わせる粋な優男の風情でした。

 
そして英一蝶「吉原風俗図巻」(1703年頃)。一蝶は江戸蕉門の俳諧師にして吉原の幇間でもあった浮世絵師。遊里でのトラブルから三宅島配流の刑に処せられ、その配流時代にかつての遊興を思い出して描いた肉筆画がこれで、師宣作品や「浮世人形」と同じく、17世紀後期の遊里のフレバーが漂います。

そんな一蝶(俳号は曉雲)の花の句を一句あげましょう。

 花に来てあはせはをりの盛かな   『其袋』(1690年)

さてラスト、時代は下りますが、花つながりで喜多川歌麿「吉原の花」(1793年頃)。「深川の雪」「品川の月」とあわせ、最大級の肉筆画として知られる三部作で、海外からの里帰り作品。思えば七年ほど前、箱根・岡田美術館で「深川の雪」「吉原の花」が138年ぶりに再会(?)という企画展があり、長蛇の列。数メートル離れた位置から時間制限内での鑑賞を経験した身としては、(一作のみとはいえ)至近距離で時間制限なく鑑賞でき、感無量という外ありませんでした。

2024年4月14日日曜日

◆週刊俳句の記事募集

週刊俳句の記事募集


小誌『週刊俳句』がみなさまの執筆・投稿によって成り立っているのは周知の事実ですが、あらためてお願いいたします。

長短ご随意、硬軟ご随意。※俳句作品を除く

お問い合わせ・寄稿はこちらまで。

【転載に関して】 

同人誌・結社誌からの転載

刊行後2~3か月を経て以降の転載を原則としています。 ※俳句作品を除く

【記事例】 

俳誌を読む ≫過去記事

俳句総合誌、結社誌から小さな同人誌まで。かならずしも号の内容を網羅的に紹介していただく必要はありません。

句集を読む ≫過去記事

最新刊はもちろん、ある程度時間の経った句集も。

時評的な話題

イベントのレポート

これはガッツリ書くのはなかなか大変です。それでもいいのですが、寸感程度でも、読者には嬉しく有益です。



そのほか、どんな企画でも、ご連絡いただければ幸いです。

2024年4月12日金曜日

●金曜日の川柳〔まつりぺきん〕樋口由紀子



樋口由紀子





三億円事件みたいに咲く桜

まつりぺきん

まだかまだかと待っていた桜がやっと咲いた。桜は待っていればいずれは咲く。つぼみが膨らみはじめたり、ピンクになったりと、徐々に咲く準備に向かっていることはわかっていた。

しかし、「三億円事件」は違う。1968年に約三億円の現金が白バイ警官に扮した男に奪われた窃盗事件である。突然で、度肝を抜かれたことを思い出す。では、どこが「みたい」なのだろうか。咲くことは予想していても、満開の桜は美しく、この世のものとはおもえない。つまりはとてつもなく心が騒ぐからなのだろうか。はじめて浮かび上がった関係性である。「三億円」というモノではなく、「三億円事件」というコトを使ったのがいかにも川柳っぽい。

2024年4月8日月曜日

●月曜日の一句〔高橋睦郎〕相子智恵



相子智恵






花や鳥この世はものの美しく  高橋睦郎

句集『花や鳥』(2023.2 ふらんす堂)所収

句集の「序句」として置かれた一句である。ふと奥付を見れば、発行日は2024年2月4日となっていて、〈小鳥來よ伸びしろのある晩年に〉の句を同書に収める、七十余年俳句と付き合ってきた晩年の、その新しい春の始まりにこの句集を誕生させたのだな、と思った。もちろん偶然かもしれないが。

跋文に、〈芭蕉は敢へて俳諧の定義も、發句の定義も積極的にはしなかつたやうに思ふ。(中略)「物の見えたる光、いまだ心に消えざる中【うち】にいひとむべし」も、用であつて體ではない〉と書く。掲句の「もの」は芭蕉の言葉を踏まえていよう。定義で固めて殺してしまわない、連続する「今の揺らぎ」の美しさ。そうすると、〈この世は〉の「は」もまた、この世に固めることはできないのではないか、と思われてきて、異界のこともまた、思われてくるのである。

花も鳥の声も、春爛漫の今日この日の現実であり、「花鳥」という詩歌や絵画の美意識の積み重ねられた物語でもあって、この世もあの世も、今も昔も、虚実も超えて俳句が存在することを寿ぐような一句である。

今、このパソコンを打っている私の耳には窓の外から、東京の鳥たちの声が聴こえていて、ぼんやりと遠くに花の雲が見えていて、ああこの一瞬も、「ものの美しく」なのだな、それは心の中でいくらでも自由に、虚実を超えて広がっていくのだな、と思った。

 

2024年4月5日金曜日

●金曜日の川柳〔瀧村小奈生〕西原天気



西原天気

※樋口由紀子さんオヤスミにつき代打。



むかし、ビジネスマナーの実用書に「ふだんより1オクターヴ高い声で挨拶しましょう」とあって、そうすると元気に聞こえるというのだが、ちょっと、待て、1オクターヴがどれくらい高いか、わかってゆってるか? 声は確実に裏返るし、場合によっては、気がふれたと思われてしまうだろう。ま、ものの喩えなんでしょうけれど。 

わたしより半音高い雨の音  瀧村小奈生

これくらいがいいと思います。微妙に高いくらいが。

半音の聴き分けは、難しいには難しいですけどね。

掲句は、瀧村小奈生『留守にしております。』(2024年2月/左右社)より。

2024年4月3日水曜日

西鶴ざんまい #58 浅沼璞


西鶴ざんまい #58
 
浅沼璞
 
 
 末摘花をうばふ無理酒   打越
和七賢仲間あそびの豊也
   前句
 銅樋の軒わらひ捨て
    付句(通算40句目)
『西鶴独吟百韻自註絵巻』(1692年頃)
 
【付句】二ノ折、裏四句目。雑。
銅樋(あかがねどひ)=竹や槙の樋より高価で、富裕層の住居で使われた。

【句意】ぜいたくな銅樋(を設える上層階級)を一笑に付して。

【付け・転じ】打越・前句=「無理酒」から「無理」に賢人を真似た和製七賢への付け。前句・付句=和賢人の目線(無常観)から上層階級への冷笑へと転じた。

【自註】世を隙(ひま)になしたる親仁ども、毎日の楽(らく)遊び、きのふは通天*の紅葉に気を移し、けふはふな岡山*に人のかぎりを思ひ定め、京中の白壁作り、入日にうつるを詠めて、「あれあれあの栄花(えいぐわ)も、人間わづか五十年のたのしみ、死にては何になるやらしれもせぬ。其の身もかはゆや、商売に明け暮れ」
*通天(つうてん)=京の通天橋は紅葉の名所。 *ふな岡山=京の火葬場。

【意訳】世間から引退した老人たち、毎日気ままに遊び、昨日は通天橋の紅葉に気を紛らわせ、今日は舟岡山に人の命の限りを悟り、京都中の贅沢な白壁作り、落陽に映ずるをながめて、「あれあれあのような繁栄も、人間わづか五十年の命のたのしみ、死後は何のためになるやも知れぬ。その身が可哀そうなことだ、商売に明け暮れするばかりとは」

【三工程】
(前句)和七賢仲間あそびの豊也

  栄花もわづか五十年なり〔見込〕
    ↓
  わらひ捨てたる白壁作り〔趣向〕
    ↓
  銅樋の軒わらひ捨て  〔句作〕

和製賢人の目線(無常観)に照準を合わせ〔見込〕、人の世にはどんな無駄があるかと問いながら、富裕層の住まいに目を向け〔趣向〕、とりわけ高価な銅樋をクローズアップした〔句作〕。




銅の樋は高価だったかもしれませんが、そのぶん排水性・耐久性に優れ、結局は経済的、と定本全集の註にありますけど。
 
「また細かいこと言いよるな。長持ちする言うたかて、四十でこさえたら、亡うなるまでの十年しか用を足さへんやないか」
 
残せば子孫のためになる、って『日本永代蔵』にあったような。
 
……。もう忘れたがな。

2024年3月29日金曜日

●金曜日の川柳〔米山明日歌〕樋口由紀子



樋口由紀子





なんかこう正しいことのしたい夜

米山明日歌(よねやま・あすか)

小説の影響か、ドラマの見過ぎか、「夜」に悪いことが似合うようなイメージがある。しかし、作者は「正しいことをしたい」と定義する。確かに暗いが、しんとした静けさがあり、心が洗われるような感覚もある。夜になると急に部屋の片づけをしたくなるときもあった。

「なんかこう」とはいかにもいいかげんな言い回しで、「正しいこと」も漠然としている。しかし、そこにはせっかくこの世に生をうけたのだから、なんかこう、なにをというわけではないけれど、正しいことをしたくなる、そういう夜があるよねと。そうそうと同意したくなる一句である。「触光」(80号 2023年刊)収録。

2024年3月25日月曜日

●月曜日の一句〔千鳥由貴〕相子智恵



相子智恵






肘で押す呼び鈴エープリルフール  千鳥由貴

句集『巣立鳥』(2023.9 ふらんす堂)所収

掲句を読んで、そういえば来週の今日はエープリルフールだな、と思う。歳時記によれば、エープリルフールは、日本には大正年間に伝わったというから、日本でも案外長い歴史をもっている。季語としては「万愚節」「四月馬鹿」として使われることが多い。

こうした狙いのはっきりした季語は、取り合わせる内容のバランスが難しい。季語と内容の歩調を合わせればあざといし、内容が遠すぎれば意味不明になってしまう。その点、掲句はバランスがよく、スッと心に入ってきた。

荷物で両手がふさがっているのだろう。何とか呼び鈴を押したいが肘で押すしかない、そう鑑賞する。その必死さが生み出すうっすらとした俳味に、「エープリルフール」がスッと入ってくる。〈呼び鈴〉〈エープリル〉の響きと破調のリズムも、ちょっと楽しい。

 

2024年3月23日土曜日

〔俳誌拝読〕『紙猫』(2024年1月)

〔俳誌拝読
『紙猫』仔猫句会十周年記念作品集(2024年1月)


A5判・本文46頁。京阪神を吟行する「仔猫句会」参加者による作品集(各15句)。

凧ゆれてうつかり猫のゐる暮らし  伊藤左知子

寒禽の明るきこゑのまま売られ  伊藤蕃果

時の記念日カピバラの鼻の穴  岡田由季

双六の上で眠ってしまう猫  木村オサム

願かけて酒ひっかけて法善寺  毬月

無人駅から無人駅まで雪野  蔵田ひろし

こでまりのぽんぽんと日を弾きをり  小寺美紀

月光とウツボカズラに吸い込まれ  小林かんな

とろ箱に霰打つなり糶の果  堺谷真人

2013年8月錦市場
賀茂茄子のはちきれさうに顔うつす  津川絵理子

トンネルに囀ひとつ迷ひ込む  月野ぽぽな

喃喃と葉牡丹の渦開きけり  仲田陽子

いつまでも雪へ小さく欠伸して  中山奈々

智恵光院上ル野猫と草の絮  羽田野令

全員で見る風船の行方かな  原知子

焼芋に根性のありまだぬくし  森尾ようこ

手を拭けば雲雀は高く鳴いており  森澤程

行く秋の知音知音と鉦の音  矢野公雄

放哉忌中古レコード屋を巡る  山本真也

(西原天気・記)



2024年3月22日金曜日

●金曜日の川柳〔瀧村小奈生〕樋口由紀子



樋口由紀子





太刀魚のひかりをするするとしまう

瀧村小奈生(たきむら・こなお)1958~

太刀魚が釣りあげられるのをはじめて見たときはびっくりした。平べったいうえに無駄に長く、やたらきらきらと光っている。食べ物というよりはまるで装飾品みたいで、魚のイメージからはほど遠かった。

作者はきっと整理整頓好きの人なのだろう。散らかったものはすばやく片付ける。出ているものはすぐに元の位置に戻す。太刀魚も同様でそのままにしておくことができない。だから、ひとまずは巻尺を巻き込むように「するするとしまう」。太刀魚のひかりをこぼさないように自分の中に大切に取り込んでいく。『留守にしております。』(2024年刊 左右社)所収。

2024年3月20日水曜日

西鶴ざんまい 番外篇20 浅沼璞



西鶴ざんまい 番外篇20
 
浅沼璞
 
 
水木しげるの妖怪「百鬼夜行展」(1/20~3/10 横浜そごう美術館)を観てきました。水木さんの生誕100周年記念として、2022年に東京シティビューで行われた企画(監修・小松和彦氏)の巡回展で、昨年は名古屋展があり、今夏は札幌展も予定されているようです。

 
本展の見どころは、図録冒頭に書かれているように、妖怪画制作の具体的手法にスポットを当てた点です。展示では三つのパートが用意されていました。

1.絵師達から継承〈鳥山石燕(せきえん)・与謝蕪村など〉
 
2.様々な資料から創作〈仮面・根付・祭礼装束など〉
 
3.文字情報から創作〈柳田國男・井上円了など〉
 
1の代表が「あかなめ」「ぬらりひょん」、2の代表が「砂かけ婆」「児啼爺」、3の代表が「座敷童子」「一反木綿」などで、それぞれのルーツの展示は押しなべて興味深いものでした(1.2は現物展示、3は引用文のパネル展示)。

 
わけても鳥山石燕『画図百鬼夜行』(1776年)に、水木さんは大きな衝撃を受けたそうです。石燕といえば喜多川歌麿の師匠で、西鶴より一世紀ほど後の画家ですが、『西鶴諸国ばなし』(1685年)に伝わる姥が火(うばがび)なども『画図百鬼夜行』には描かれています。
 
かつて先師・廣末保氏は『西鶴諸国ばなし』に「伝承の創造的回復」をみました(『悪場所の発想』1970年)。それはそのまま水木さんの妖怪漫画にも言えるのではないか、今回の展示を観てそう思いました。

 
さて枚岡神社(東大阪市)の灯明の油を盗んだ老婆が、死後に神罰をうけ、怪火となったという「姥が火」伝説。西鶴と同時代の俳諧師・中林素玄(そげん)も独吟連句で詠んでおり、江戸前期には広く知られた妖怪だったことがわかります。

 へる油火(あぶらび)も消ゆる秋風   素玄*(前句)
ひら岡へ来る姥玉(うばたま)のよるの月 仝(付句)
『大坂独吟集』(1675年)
ご覧のように前句の原因を「姥が火」伝説によって説明した典型的な逆付(ぎゃくづけ)。枕詞「烏羽玉の」に姥(うば)をかけた談林俳諧です。
 

2024年3月18日月曜日

●月曜日の一句〔佐藤文香〕相子智恵



相子智恵






眉墨に母語のくぐもり紫木蓮  佐藤文香

句集『こゑは消えるのに』(2023.12 港の人)所収

本句集は副題に「アメリカ句集」とある。1年間のアメリカ滞在中に作った句のみを収めた作者の第4句集だ。

掲句、〈眉墨〉という言葉に母国語(日本語)のくぐもった音を感じたという句意。現在では「アイブロウ」と言ったほうがしっくりくるが、あらためてこう書かれると「眉墨(眉を引く墨)」という名前は、じつに古風ではないか。平安時代にまで心が飛んでいくようだ。

〈くぐもり〉という響きには湿度を感じる。アメリカの西海岸、カリフォルニア州のカラッと乾いた空気の中で1年間を過ごしたという作者にとっては、この湿度が母語であり、母国そのものに思えてきたのではないだろうか。

〈紫木蓮〉にも「もく」という言葉が入っており、〈眉墨〉〈母語〉〈くぐもり〉という言葉と響き合う。これにより、掲句のすべての語が、くぐもって感じられてくるのだ。
佐藤の句は、どれも音がかなり考えられていると感じるが、掲句もそうだ。さらに、紫木蓮の薄墨のような微妙な色合いは〈眉墨〉に通じ、東洋的な色合いだと感じる。味のある取り合わせである。

 

2024年3月15日金曜日

●金曜日の川柳〔真島芽〕樋口由紀子



樋口由紀子





命より大事な前髪にサクラ

真島芽(ましま・めい)2006~

今どきの高校生らしい川柳である。せっかく時間をかけてセットした前髪に桜の花びらが散ってきて、ぴたりと貼り付いた。やっと決まった前髪がだいなしである。

前髪ひとつで顔の印象ががらりと変わるのはわかる。しかし、「命より大事」とはあまりにも大仰である。が、それは本心だろう。花の女王である桜もかたなしである。だからカタカナ表記の「サクラ」なのだろう。健康だからこそ、元気だからこそ、書ける川柳である。そう言い切れる若さと前髪の艶が眩しい。『川柳の話』第4号(2024年刊・満点の星社)収録。

2024年3月8日金曜日

●金曜日の川柳〔梅村暦郎〕樋口由紀子



樋口由紀子





春にて候 子の追いすがる紙風船

梅村暦郎(うめむら・れきろう)1933~

ぽかぽかとした陽気の春の公園で、子どもが紙風船を追いかけているのだろう。「春にて候」はまるで時代劇のセリフのようで、川柳ではめったにおめにかからない。「にて」は時候をあらためて指し、「候(そうろう)」は「ある」の丁寧語で、「春でございます」となる。

丁寧に設えた季節の景を一風変わった雰囲気にするのが「追いすがる」の動詞である。確かにそう見えなくもないが、その姿よりも精神の方に重心が移り、ただならぬ気配をまとう。言葉の使い方や選び方次第で様々な面を見せることができる。『花火』(1993年刊)所収。

2024年3月7日木曜日

◆週刊俳句の記事募集

週刊俳句の記事募集


小誌『週刊俳句』がみなさまの執筆・投稿によって成り立っているのは周知の事実ですが、あらためてお願いいたします。

長短ご随意、硬軟ご随意。※俳句作品を除く

お問い合わせ・寄稿はこちらまで。

【転載に関して】 

同人誌・結社誌からの転載

刊行後2~3か月を経て以降の転載を原則としています。 ※俳句作品を除く

【記事例】 

俳誌を読む ≫過去記事

俳句総合誌、結社誌から小さな同人誌まで。かならずしも号の内容を網羅的に紹介していただく必要はありません。

句集を読む ≫過去記事

最新刊はもちろん、ある程度時間の経った句集も。

時評的な話題

イベントのレポート

これはガッツリ書くのはなかなか大変です。それでもいいのですが、寸感程度でも、読者には嬉しく有益です。



そのほか、どんな企画でも、ご連絡いただければ幸いです。

2024年3月6日水曜日

西鶴ざんまい #57 浅沼璞


西鶴ざんまい #57
 
浅沼璞
 
 
恋種や麦も朱雀の野は見よし 打越
 末摘花をうばふ無理酒   前句
和七賢仲間あそびの豊也   付句(通算39句目)
『西鶴独吟百韻自註絵巻』(1692年頃)
 
【付句】二ノ折、裏三句目。雑。和七賢(わしちげん)=日本の七賢。「しちげん」と濁るのは『下学集』(一四四四年)による。中公版『定本西鶴全集8』「西鶴俗つれづれ」頭注に〈七賢は世を竹林にのがれて自適した支那晉代の七賢人。當時大阪に七賢人をまねた連中がゐたことは西鶴の「獨吟百韻自註」にもその記載がある〉と記されている。また遺稿集『西鶴名残の友』にも「和七賢の遊興」なる短編がある。

【句意】和製の七賢人による仲間内の(無理な)遊びは(一見)豊かなものである。

【付け・転じ】打越・前句=朱雀野を帰る遊客のクローズアップによる付け。前句・付句=「無理酒」から「無理」に賢人を真似た和製七賢人へと転じた。

【自註】唐土(もろこし)の*かたい親仁ども、竹林に酒を楽しみ、世を外(ほか)になして暮せしを、其心ざしには思ひもよらぬ年寄友達、無理に形を作りなし、世間の人むつかしがるやうにこしらへ、同じ心の友の寄り合うては酒家に詩をうたふ。脇から見た所はゆたかなりしが、其身(そのみ)に子細者(しさいもの)作りけるは、本心は取りうしなひける。
*かたい親仁(おやぢ)=表8句目自註に既出。そこでは「厳格な父親」の意。

【意訳】中国の厳格な親爺たちが竹林で酒を楽しみ、世の事を気にかけず暮していたのを、その離俗の志には思いも及ばぬ(日本の)年寄仲間、無理に世捨て人のなりを作り、世間の人の憚るように演じ、同じ志向の友が寄り合っては酒楼で詩を吟ずる。傍目には悠然と見えるけれど、わざと世捨て人を気取っているのだから、ご本家の本心は失っている。

【三工程】
(前句)末摘花をうばふ無理酒

  友寄りて無理に詩うたふ豊かさよ 〔見込〕
    ↓
  和七賢酒家に詩うたふ豊かさよ  〔趣向〕
    ↓
  和七賢仲間あそびの豊也     〔句作〕

「酒→作る詩」(類船集)の縁語から無理酒を飲んで詩を吟じていると取成し〔見込〕、どんな連中が詩を吟じあっているのかと問いながら、和七賢を連想し〔趣向〕、「作る詩」の抜けで句を仕立てた〔句作〕。


前回、打越・前句について、麦と末摘花(紅花)で同季の付け、と解説しましたが、編集の若之氏より、〈朱雀と紅花は色のつながりもあるのでしょうか〉との指摘がありましたが。

「そやな、かしこいな、朱と紅やからな」

同系色の色立(いろだて)ですね。

「色立? なんや聞かん言葉やけど、又のちの世の後付けやないか」

あ、そうでした。すみません。

2024年3月4日月曜日

●月曜日の一句〔中西亮太〕相子智恵



相子智恵






白魚の唇につかへて落ちにけり  中西亮太

句集『木賊抄』(2023.12 ふらんす堂)所収

白魚の刺身だろうか。〈つかへて落ちにけり〉というのは、誰かが食べているところを見て書いたように、つまりは視覚情報が優位に書かれている。そうでありながら〈唇につかへて〉であることで、自分が食べているような、触覚優位な句のようにも思われてくるのが不思議だ。体感を視覚化したような不思議な読後感なのである。

落ちたのは、口の中へ(本人でないと見えない:触覚)なのか、あるいは唇の外へ(他人でも見える:視覚)落ちたのか。そのあたりは想像に任されているが、口の中だとしたら、白魚は唇の一瞬のつかえを越え、口中へ入ってきて、喉を落ちてゆく……白魚にとっては滝のような深さの暗闇を落ちていく、そんな〈落ちにけり〉でもあるわけで、それも面白くて、触覚説を取りたくなる。

食べられている物を主体として、食べている人の体を背景のように描いているのも面白い。一瞬を描いたようでいて、よくよく立ち止まって見ると、重層的な視点の面白さがある一句だ。

 

2024年3月1日金曜日

●金曜日の川柳〔川合大祐〕西原天気



西原天気

※樋口由紀子さんオヤスミにつき代打。



失った世界ガソリンスタンド忌  川合大祐

忌日季語というジャンル、というか一群の語彙が、俳句にはあって、12音かそこらのフレーズを案出して、忌日季語をくっつける、という、安易なのか、いやいや作者にとっては切実なのか、それは知りませんが、そういう作句の手順が、まあ、ある。そういう俳句がゴマンとある。だれそれの亡くなった日なのであるから当然、日にちが限定され、そこには季節があるので、季語ということになり、それにまた、365日、誰かが亡くなっているので、「毎日が忌日」というわけです。

ところが、亡くなったのが「だれそれ」ではなく、ガソリンスタンドとなると、話が違ってきます。

じっさい、ガソリンスタンドはどんどん減っていますが、まだ、絶滅はしていない。でも、そう遠くない未来、ガソリンスタンドはなくなるかもしれない。となると、掲句は、未来のことかもしれませんよ、みなさん。自動車業界のみなさん、だけでなく、人類のみなさん。

そのとき《失った世界》とは、なんだろう?

これについては、掲句が、作者が、提示してくれるわけではなくて、読者が考えるなり、考えないなり、するわけですが、ちなみに、とんでもないものに「忌」をあてる試みは、これがはじめではなく、俳句自動生成ロボット「忌日くん」がすでに長らく量産しています(≫10句作品はこちら)。

なお、掲句所収の川合大祐『リバー・ワールド』(2021年4月/書肆侃侃房)は、350頁を超える大部。掲載句の数も多い。幻惑や興奮も多い。謎もスペクタクルも多い。快楽指数のきわめて高い一冊。よくある「無人島に一冊持っていくなら?」の候補に確実に入るであろう一冊と断言しておきます。

2024年2月27日火曜日

【新刊】岸本尚毅『俳句講座 季語と定型を極める』

【新刊】
岸本尚毅『俳句講座 季語と定型を極める』

草思社/2024年2月27日

『音数で引く俳句歳時記』(全4巻)の実践ガイド。




2024年2月26日月曜日

●月曜日の一句〔岩淵喜代子〕相子智恵



相子智恵






まんさくの一樹に花のゆきわたる  岩淵喜代子

句集『末枯れの賑ひ』(2023.12 ふらんす堂)所収

金縷梅(まんさく)は、他の草木が芽吹く前に、縮れた紐のような黄色い花を咲かせる。金縷梅の名は、春の訪れをいち早く告げる花であることから「まず咲く」が転じたとも、花の形が稲穂を思わせることから、「豊年満作」に由来するともいわれる。金縷梅という花の本意には、このような「予祝」の意味合いがたっぷり含まれているといえるだろう。

掲句、〈一樹に花のゆきわたる〉が、葉の出る前に花が出揃う金縷梅のさまを写生した句として魅力的だ。しかしそれだけではない。花自体に「予祝」の意味が大きい金縷梅のことを思えば、〈ゆきわたる〉の一言に季語の本意が広々と活かされており、神々しさまで感じられてくるのである。

 

2024年2月25日日曜日

【新刊】髙柳克弘『隠された芭蕉』

【新刊】
髙柳克弘『隠された芭蕉』


慶應義塾大学出版会/2024年2月13日




2024年2月23日金曜日

●金曜日の川柳〔なかはられいこ〕樋口由紀子



樋口由紀子





ぼくたちはつぶつぶレモンのつぶ主義者

なかはられいこ 1955~

「ぼくたちは」といきなり出てきて、リズミカルで高らかにマニフェストする。まずは心地よく驚かされる。「主義者」という重みのあるカタイ言葉に、みずみずしい「つぶつぶレモン」を組み合わせ、それに「つぶ」の存在感と質感を伴わせ、画面を爽やかにおしゃれにする。言葉の質の違いを上手く活用している。

「つぶつぶレモンのつぶ主義者」は王道ではないだろう。だから、あえて演出がかった言葉遣いで明るく嫌みなく表明する。新鮮な気持ちで自らを再確認し、「ぼくたち」を意味あるものに押し上げている。『くちびるにウエハース』(2023年刊 左右社)所収。

2024年2月21日水曜日

西鶴ざんまい #56 浅沼璞


西鶴ざんまい #56
 
浅沼璞
 
 
 太夫買ふ身に産れ替らん  打越
恋種や麦も朱雀の野は見よし 前句
 末摘花をうばふ無理酒   付句(通算38句目)
『西鶴独吟百韻自註絵巻』(1692年頃)
 
【付句】二ノ折、裏二句目。*末摘花(紅花)で夏。恋離れ。無理酒=下戸が無理に飲む酒。
*末摘花=『俳諧御傘』(1651年)では「末摘花」を夏としつつ、人名(源氏物語)ならば雑とする。人名ととれば恋になろうが、西鶴自註には人名への言及がないので前句「麦(夏)」を受けた同季の恋離れとみる。中公版『定本西鶴全集12』頭注にも「戀三句のところ二句にて捨つ」とある。

【句意】紅花の色を奪ったかのように、無理な酒で顔が赤くなる。

【付け・転じ】打越・前句=太夫に焦がれる遊客から見た朱雀野の景(ロングショット)による付け。前句・付句=朱雀野を帰る遊客のクローズアップによる転じ。

【自註】あかぬは此の里の朝別れ、身をしのぶ人は、*八ツ門明くとしらせくるよりかなしく、出口の茶屋の素湯(さゆ)呑みて「名残をしさは朱雀の細道」とうたひしも耳にかしましく、宵の酒持ちこして、㒵(かほ)はくれなゐの野に移りて、下戸のあらはれたる風情にして付けのきける。此所は*夜るの編笠、老人の*なげづきん、替つた事計(ばかり)、見付けて笑ふ人なし。
*八ツ門=嶋原では午後10時頃に閉門(四ツ門)、午前2時頃に開門(八ツ門)した。
*夜る=ヨルと読ませる慣用表記。夜間、編笠は市中で禁止されたが、遊郭では顔を隠すため許容された。なお編笠は夏の季語。
*なげづきん=上部を後方に垂らして被る頭巾で、上方では伊達な風俗。老人は丸頭巾が一般的で、投頭巾は年齢秘匿の変装に有効だったか。なお頭巾は冬の季語。

【意訳】満足ならないのは恋の里の朝の別れ、身分を隠す客は午前二時の開門の知らせが悲しく、遊郭の出入り口の茶屋で白湯を呑み、「名残惜しさは朱雀の細道」と(誰かが)歌うのも聞くにやかましく、宵の酒がたたって真っ赤な酔顔は辺りの野辺にうつるようで下戸だと知れる、(そんな)ようすを詠んで*付け退けている。ここでは夜に無用な編み笠、老人の伊達な頭巾、と風変わりな事ばかりだが、それを見つけて笑う(不粋な)人はいない。
*付け退け=「付けにくいところを、何とか付けて逃げる。逃句」『新編日本古典文学全集61』頭注

【三工程】
(前句)恋種や麦も朱雀の野は見よし

  朝別れとて素湯呑みながら 〔見込〕
    ↓
  宵の酒とて顔はくれなゐ  〔趣向〕
    ↓
  末摘花をうばふ無理酒   〔句作〕

前句を朝別れの場と取成し〔見込〕、客はどんな様子かと問いながら、下戸の酔顔をクローズアップし〔趣向〕、前句と同季の末摘花を使って句に仕立てた〔句作〕。


ここは三句、遊里がらみのような気がしなくもありませんが……。
 
「また不粋なこと言いよる。自註で『付けのきける』言うてるやろ」
 
あぁ、逃句ってことですね。
 
「退けるんと、逃げるんは違うやろ、考えてみぃ」
 
あ、はい、考えてみます。

2024年2月19日月曜日

●月曜日の一句〔しなだしん〕相子智恵



相子智恵






わが影へ膝折りたたむ潮干狩  しなだしん

句集『魚の栖む森』(2023.9 角川文化振興財団)所収

砂浜にしゃがんで浅蜊を採る潮干狩。そのしゃがむ姿勢を〈わが影へ膝折りたたむ〉と捉えたところが新鮮だ。

春の行楽として、宝探しのようなワクワク感がある潮干狩だが、〈わが影〉に向かって膝を折るしぐさをあえて描いたところに、楽しさの中の寂しさ、ふっとした春愁のようなものが立ち現れてくる。春の日差しなので影も柔らかく、寂しすぎない。楽しさと憂いの匙加減が絶妙な一句だ。

水辺の生き物が題材となった美しい句を他にも引こう。

魚眠るときあざやかなさくらかな

魚の栖む森を歩いて明易し

一句目、夜桜だろうか。眠る魚の静けさと、誰も見ずとも咲き誇る桜の華やかさがうまく溶け合っている。二句目は表題句。水に栖む魚であるが、池か川のある「森」のほうに着目することで意外性をもたせ、泳ぐ魚と歩く自分の対比もあり、〈明易し〉で夢の中のような感覚になる。

一句の中に遠近や明暗などを含めた対比効果を活かすことに長けており、必然的にドラマ性のある句が多く、読みごたえがあった。

 

2024年2月16日金曜日

●金曜日の川柳〔守田啓子〕樋口由紀子



樋口由紀子





ムナカタの眼鏡で見てる だから晴

守田啓子 (もりた・けいこ)

「ムナカタの眼鏡」を検索した。フレームにインパクトがある。しかし、その特定の眼鏡で見たからといって、晴になるわけでない。そう思いたいのだ。異なるルールを持ち出し、今居る場所を更新する。

「だから」がおもしろく使われている。一般的には辻褄を合わせ、理屈をつけて終わるが、ここでは役目を果たさないで、「だから」でズレを作り出す。ズレをどう見せるかに工夫されている。「曇った眼鏡」の対抗のように、眼前の現実世界の向こうに虚構を乗せて運ぶ。なぜ「だから晴」なのかはわからないままにして、余韻を残すのがこの句の持ち味だろう。「触光」(80号 2023年刊)収録。

2024年2月9日金曜日

●金曜日の川柳〔大山竹二〕樋口由紀子



樋口由紀子





窓一つそれに向き合う窓も一つ

大山竹二 (おおやま・たけじ) 1908~1962

モノクロ写真を見ているような川柳である。哀歓を書いているのではないのに哀歓を感じる。二つの窓に招き入れられる。そこに在るものをただ在ると書いただけの、とりたてて言うほどのことでない、どこにでもある景が作者にはたらきかけてきた何かがあったのだろう。

向き合っている窓が日常を離れていくような錯覚におちいる。窓自体は向き合っているつもりはない。向き合っていると作者が解釈したのだ。言葉が与えられ、現実の描写が幻想の光景になる。『大山竹二集』(竹二句集刊行会 1964年刊)所収

2024年2月7日水曜日

西鶴ざんまい #55 浅沼璞


西鶴ざんまい #55
 
浅沼璞
 
 
肩ひねる座頭成りとも月淋し 打越
 太夫買ふ身に産れ替らん
  前句
恋種や麦も朱雀の野は見よし
 付句(通算37句目)
『西鶴独吟百韻自註絵巻』(1692年頃)
 
【付句】二ノ折、裏。初句(裏移り)。夏の恋。 恋種(こひぐさ)=募る恋心の喩。 や=軽い間投助詞(本稿番外篇9参照)。 麦(夏)。 朱雀(しゆじやか)の野=中世以後、平安京が荒廃し、田野と化した朱雀大路のあたり。ここでは丹波口から嶋原遊郭まで。

【句意】(太夫への)恋心が募り、たんなる麦でも朱雀の野では美しく見える。
【参考】「景気付であるが、そこに色里から来るニュアンスが含められている」(今栄蔵著『初期俳諧から芭蕉時代へ』笠間書院、2002年)
【付け・転じ】打越・前句=遊郭での幇間の心情による付け。前句・付句=幇間の心情を遊客の恋情と取成し、その視点から遊郭周辺の実景へと転じた。

【自註】爰は前句の願ひより、色里の*移りを付よせし。いやしき野原(のばら)の麦までもよき所がらにして、絶えし世の詠め迚(とて)、花も月も物いはず、紅葉ももみうらにおとり、白雪も美君(びくん)のはだへにはまけし。まことはいきた*花崎・かをる・高橋・野風・左門・金太夫・家隆・もろこしまでも隠れなく、太夫職にそなはりし風俗、江戸ははづみ過たり、大坂はひなびたり、兎角(とかく)遊女は都の嶋原にます花なし。―(後略)―
*移り=「付肌の調和を計る意図は注そのものに明らかである」(今栄蔵・同著)
*花崎(はなさき)以下8名は嶋原の太夫。花崎は初裏6句目の自註に既出。

【意訳】ここは前句の願望より、遊里のニュアンスを移し、付け寄せた。ありふれた野原の麦にしても、よい土地柄にあれば、絶世の眺めとなる(というのも)花も月も会話はできず、紅葉も着物の紅絹裏(もみうら)に劣り、白雪とて美人の肌には負ける。ほんとうに生きている花崎・かおる・高橋・野風(のかぜ)・左門(さもん)・金太夫(きんだゆう)・家隆(かりゅう)・もろこしまで世界に隠れなく、太夫クラスの身なりや振るまい(を見ると)、江戸はお転婆すぎるし、大坂はぱっとしない。とかく遊女は都の嶋原にまさるほどの花はない。―(後略)―

【三工程】
(前句)太夫買ふ身に産れ替らん

  色里はよき所がら恋楽し   〔見込〕
    ↓
  嶋原にまさる里なし恋楽し  〔趣向〕
    ↓
  恋種や麦も朱雀の野は見よし 〔句作〕

前句の幇間の願いを遊客の恋心と取成し〔見込〕、どの遊郭がいいかと問いながら、嶋原に思いをよせ〔趣向〕、そのニュアンスで朱雀野の景を句に仕立てた〔句作〕。


やはり「移り」は蕉門の固有名詞ではなく、元禄俳諧の普通名詞だったんですね。
 
「こーゆうもあーゆうもあるかいな。麦かて恋の花になるんは嶋原の〈移り〉いうことやで」
 
でも三都のうち江戸や大坂は落としすぎではないですか。『一代男』では〈江戸吉原の遊女は意気地・張りがあり、大坂新町は揚屋が豪華〉と利点をあげてましたが。
 
「それは十年一昔の話やろ、いまや嶋原はワシの俳諧の後ろ盾いうてもええ」
 
あー、忖度ですか。

「いや、損得や」

2024年2月2日金曜日

●金曜日の川柳〔吉田健治〕西原天気



西原天気

※樋口由紀子さんオヤスミにつき代打。



都会は水槽 記号のさかな泳がせて  吉田健治

記号論的な批評の賑わいを「文化流行」、80年代日本のファッションと呼んでいいのだろう。あの頃、というのは、いやらしい言い方だが、「そう見てみれば、そう見えた」。つまり、記号論のある種洗練された物言いがいちど腑に落ちると、都市空間には「記号」が浮遊していた。そう見えた。実体ではなく記号が、メダカだか熱帯魚だかマグロだか知らないが、きらきらと鱗に光を反射させつつ、そこを浮遊していたのだ。

掲句は、都会と記号、水槽とさかなを対照させる。これは叙景ではない。叙事でもなく、ましてや叙情でもない。だが、読後に微かな叙情の名残、水紋のようなものが漂うのは、あの文化流行をすこしだけでも肌の近くに感じたことがあるからなのか、いや、そうではなく、具象と抽象が、コンパクトに句型に収まっているからなのか(つまり句の純然たる成果)、判断はつきかねる。

ちょっと角度を換えよう。ある絵画を、記号論的に分析・解説する仕事はたくさんあったが、この句は逆。記号論的言説を、絵にすれば、こうなる。だから、この句、叙景ではなくても、じゅうぶんに絵画的ではある。

と、ここで、思い当たった。当時、私が見た「都会」は、水槽というより、水槽の模型。セロファン付きの菓子箱の内部に、紙で作った二次元の魚類を糸でぶら下げた、夏休みの工作。あんな感じだったと、とつぜん思った。ペラペラで、きらきら。

でも、いまそんな感じはまったくない。認知にも流行や変化があり、また、モノを見るにも、言語的な影響が大きいのだと思う。

掲句は『現代川柳の精鋭たち』(2000年7月/北宋社)より。

2024年1月29日月曜日

●月曜日の一句〔染谷秀雄〕相子智恵



相子智恵






薄氷を圧せば零るる甕の水  染谷秀雄

句集『息災』(2023.9 本阿弥書店)所収

来週の今日は、もう春なのだなと思いながら一足先に春の句を。

厚い氷とは違い、指で軽く圧せばすぐに割れ、水面にも影響がなさそうな薄氷であるのに、圧してみたら甕の水が零れ出た。ここで甕の水は、縁ぎりぎりまで満ちていたのだということが分かる。繊細な美しさのある景だ。

薄氷を圧して、わずかに甕の水が零れるという、それ自体は命をもたない景が、眠りから覚めた万物が土から萌え出る、そんな早春の喜びの暗喩のように感じられてくる。

薄氷の甕の縁より離れけり  同

一集を通じて読むと、他にも甕と薄氷の句があり、毎年同じ季節に同じ場所を様々な角度から詠んでみようとしているのではないかと思われた。その粘り強さが目の澄んだ句を生むのだろう。

 

2024年1月26日金曜日

●金曜日の川柳〔峯裕見子〕樋口由紀子



樋口由紀子





ばあちゃんが杖でつついて降らす雨

峯裕見子 (みね・ゆみこ) 1951~

魔法使いのおばあさんが魔法の杖で雨を降らすのはどこかの童話であるかもしれない。しかし、ここではどこにでもいるふつうのばあちゃんだろう。だが、すごい。だから、すごい。歩行の手助け用杖で空をつついたって、雨を降らすことなんてできるわけがない。でも、降る。

すこぶるかっこいいばあちゃんに誰も想像したこともない場面に招き入れられる。私たちが思っているよりもずっと世界は不可思議で可笑しい。私たちが気づいていないだけで、理屈では解決できないものがこの世にいっぱいある。世界のそこだけが一瞬止まっている。「おかじょうき」(2024年刊)収録。

2024年1月24日水曜日

西鶴ざんまい #54 浅沼璞


西鶴ざんまい #54
 
浅沼璞
 
 
 鴫にかぎらずないが旅宿   打越
肩ひねる座頭成りとも月淋し  前句 
 太夫買ふ身に産れ替らん   付句(通算36句目)
『西鶴独吟百韻自註絵巻』(1692年頃)
 
【付句】二ノ折、表14句目(折端)。恋(雑)。太夫=たいふ。上方遊郭の最上位の遊女。
 
【句意】太夫を買える身分に産れ替りたい。

【付け・転じ】打越・前句=つれづれを嘆く旅人の心情を詠んだ其人の付。前句・付句=旅人の心情を幇間のものに取成した転じ。

【自註】爰(ここ)は色里の太鼓持の身の上にして付よせける。大じん、乱れ酒の座敷は、をかし中間のお機嫌取ども、かる口に大笑ひ、うき世の事ども爰にわすれしに、夜もふけぬれば、太夫さまの御*床入とて引船(ひきふね)女郎・太鼓女郎・宿屋のかゝをはじめとして、お客ひとりに十五人も手に入て、もむごとく脇から帯をとくやら、足袋をぬがせますやら、三つぶとんに身を沈めて、房枕(ふさまくら)に太夫が髪をみださせ、「おまへの事なら、神ぞ、命成とも」と気に入れる事を聞けば、「さてさて何の因果の我身や。禿(かむろ)・座頭をあいてどりにしても、夏の夜さへ長う覚へ、まもり給へ、むすぶの神、二たび出生せば、太夫にあふ身になりぬべし」と観念の眼をふさぎ、そこへごろりとふしけるは、まことにいたはしや。
*とこいり=ベッドイン。

【意訳】ここは遊郭の幇間の身に取り成して付けたのである。大金持ちの無礼講の宴席では、幇間仲間のご機嫌取りどもが冗談で大笑い、うき世のことなどこの場で忘れ(させ)た上に、夜も更ければ、太夫様のお床入りとて太夫付きの遊女・宴会担当の遊女・揚屋の女将を始めとして、一人のお客に十五人も寄ってたかって接待し、帯をときますやら、足袋を脱がせますやら、(お客は)三枚重ねの敷布団に体を沈めて、房付き枕に太夫の髪を乱れさせ、「あなたの事は、神に誓って、命をかけても」と(太夫がお客の)気をひく睦言を聞くと、「さてもさても何の因果で我は幇間の身となったのであろう。見習い遊女や座頭を相手にして、夏の短夜ですら(次の間での寝ずの番は)長く思われ……、どうかお救い下され、ふたたび生をうけるならば、太夫に逢える身分になりたく……」と諦めの目をふさぎ、その場でごろりと不貞寝をしたのは、本当に気の毒だ。

【三工程】
(前句)肩ひねる座頭成りとも月淋し
 
 太鼓持とは何の因果か  〔見込〕
    ↓
 禿相手に大尽を待ち   〔趣向〕
    ↓
 太夫買ふ身に産れ替らん 〔句作〕

前句の心情を幇間のものと取成し〔見込〕、どんな境遇かと問いながら、遊郭での一夜に思いをよせ〔趣向〕、その願望を句に仕立てた〔句作〕。


鶴翁はもともと「太夫買ふ身」の商人でしたよね。
 
「そやで、女房がのうなってからの俳諧師や。家業は手代に譲ったんや」
 
後悔はありませんか。

「ハイカイ師にコウカイなし、そのカイあっての宗匠や(笑)」

2024年1月22日月曜日

●月曜日の一句〔野名紅里〕相子智恵



相子智恵






耳当の外より道を聞かれけり  野名紅里

句集『トルコブルー』(2023.7 邑書林)所収

そういえば耳を温めるための耳当というのは、同時に外の音を遮るものでもあるんだよな、と改めて気づかされる。

ノイズキャンセリングのイヤホンのように、自分だけの音楽世界に没頭するためのアイテムを使う時、人は外界のすべての音やコミュニケーションを遮断する意思をもつ。
かえってそのような意思をもたずに何気なく使う耳当のほうが、自分と他者との間にある、薄い被膜のような境界を浮き彫りにして、その「被膜感」が現代の空気を掴んでいるように思われた。

道を聞いてくる赤の他人の声が、少しくぐもって聞こえる。きっと作中主体は、聞かれた道を教えてあげただろう。他人に道を聞くのも勇気がいる現代だが、耳当という被膜にある、絶妙な寂しさ、人との微温的なかかわり、それを俳句として書き留める作者の視点。何でもない日常の風景に、今という時代が見えてくる気がする。

 

2024年1月21日日曜日

【新刊】『ロゴスと巻貝』小津夜景

【新刊】
『ロゴスと巻貝』小津夜景


2024年1月9日/アノニマ・スタジオ
≫amazon ≫版元ウェブサイト



2024年1月20日土曜日

【新刊】『天狗説話考』久留島元

【新刊】
『天狗説話考』久留島元

2023年11月27日/白澤社 

2024年1月19日金曜日

●金曜日の川柳〔西沢葉火〕樋口由紀子



樋口由紀子





雨なので気をつけをして酔ってます

西沢葉火

酔っているのは、雨を見ながらなのか、雨に打たれながらなのか、どちらにせよその情けない、かっこよくない姿を想像して、鼻につんときた。何かあったのだろう。たぶん雨と涙の境目もわからない。作者の心情が伝わってくる。

「気をつけ」の姿勢は学校で先生に言われてしかたなくするのと、自ら勝手にするのとはおおきな違いがある。「雨なので」と雨を言い訳にしているところもぐっとくる。人は哀しい。雨に酔いながら、雨が止んでも、その姿勢を続けるだろう。なんともいえぬ寂寥感を醸し出している。「おかじょうき」(2024年刊)収録。

2024年1月15日月曜日

●月曜日の一句〔浅川芳直〕相子智恵



相子智恵






雪となる夜景の奥の雪の山  浅川芳直

句集『夜景の奥』(2023.12 東京四季出版)所収

街の灯りが瞬き、そこに雪がちらちらと降ってきて、瞬きが一層にぎやかに感じられてくる。そして夜景の背後には、街を囲むように雪山が静かに座している。雪がなければ夜空よりも暗いはずの山が、白くふうわりと明るい。沈静しているような、浮き立つような、不思議な叙情のある光景だ。

初雪のこぼれくる夜の広さかな

という句もあって、この雪の句も好きだ。初雪に気づいて見上げた夜空。まだ続く雪は少なく、雪雲もそれほど広がってはいないのかもしれない。空の広さではなくて、〈夜の広さ〉としたことで、瞬間を切り取った景の中に、時間的な広がりも感じられてくるし、吸い込まれそうにもなる。

カフェオレの皺さつと混ぜ雪くるか

去年の雪ざつとこぼして神樹あり

他にも佳句の多い句集だが、今の季節に読んだからか、雪の佳句が特に心に残った。

 

2024年1月12日金曜日

●金曜日の川柳〔中村冨二〕樋口由紀子



樋口由紀子





永遠に蝶追いかける 箸二本

中村冨二 (なかむら・とみじ) 1912~1980

「蝶追いかける」のは具体的な行動でよくわかる。しかし、「箸二本」で蝶を追いかけるのは異様であり、それも「永遠に」は尋常ではない。穏やかな口調で変なことを語っている。

「蝶」は不思議な昆虫である。童謡「蝶々」はそんな蝶を的確に言いとめている。手の届くところで、あっちへいったり、こっちにきたり、ふらふらしていて、まるでちょっかいを出すかのように挑発している。だから、追いかけたくなる。しかし、「箸二本」ではとうてい無理で、それならば「永遠に」続くはずである。「永遠に」「箸二本」で蝶を追いかける行為とは何を意味するのか。この世を異化しているのか、ただならぬ気配を感じる。『中村冨二・千句集』(ナカトミ書房 1981年刊)所収。

2024年1月11日木曜日

◆週刊俳句の記事募集

週刊俳句の記事募集


小誌『週刊俳句』がみなさまの執筆・投稿によって成り立っているのは周知の事実ですが、あらためてお願いいたします。

長短ご随意、硬軟ご随意。※俳句作品を除く

お問い合わせ・寄稿はこちらまで。

【転載に関して】 

同人誌・結社誌からの転載

刊行後2~3か月を経て以降の転載を原則としています。 ※俳句作品を除く

【記事例】 

俳誌を読む ≫過去記事

俳句総合誌、結社誌から小さな同人誌まで。かならずしも号の内容を網羅的に紹介していただく必要はありません。

句集を読む ≫過去記事

最新刊はもちろん、ある程度時間の経った句集も。

時評的な話題

イベントのレポート

これはガッツリ書くのはなかなか大変です。それでもいいのですが、寸感程度でも、読者には嬉しく有益です。



そのほか、どんな企画でも、ご連絡いただければ幸いです。