2012年11月30日金曜日

●金曜日の川柳〔榊陽子〕 樋口由紀子



樋口由紀子







かあさんを指で潰してしまったわ

榊陽子 (さかき・ようこ) 1968~

親に向かってなんてことを言う娘であろうか。まるで近寄ってきた小さな虫を潰すように。他人事のように「しまったわ」と。潰してしまったけれど、しかたがないと納得しているように。「わ」が効いている。

でも、実はすごくよくわかる。今の私は潰す方にも潰される方にもどちらの立場にもいる。多くの人がそうだとは言わないが、わかる人は意外といるはずである。ただ、そんなことを考えてはいけないし、まして、言ってはいけないと思っている。掲句はさりげない。それだからこそ重たい。母娘の関係や軋轢は永遠の課題であり、謎である。

〈開店と同時に膝が売れていく〉〈どの指も悲劇になりたがるらしい〉〈耳貸してください鼻お貸しいたします〉 「川柳カード」(創刊号 2012年刊)収録。

2012年11月29日木曜日

【新刊】ひらのこぼ著『俳句開眼 100の名言』

【新刊】
ひらのこぼ著『俳句開眼 100の名言』




【目次】

第一章 基本を習得する

1 深は新なり  高浜虚子「俳句への道」
2 私意をはなれよ  原 裕「俳句教室」
3 即かず離れず  林 翔「初学俳句教室」
4 見るから観るへ  稲畑汀子「俳句入門 初級から中級へ」
5 大づかみな季語を生かす  廣瀬直人「俳句上達講座 より深い作句をめざして」
6 けふの風、けふの花  中村汀女「中村汀女 俳句入門」
7 小さく詠んで大きく響かせる  橋本鶏二「写生片言 写生俳句への道」
8 確かに見ること  石田波郷「俳句哀歓 作句と鑑賞」
9 球を置きにいくな  堀口星眠「俳句入門のために」
10 季語で大景を整えよ  水原秋桜子「現代俳句手帖」
11 白紙で向き合う  星野立子「俳小屋」
12 ほんのちょっとズラす  辻 桃子「あなたの俳句はなぜ佳作どまりなのか」
13 余韻と連想  原 石鼎「俳句の考へ方」
14 「間(ま)」で転じる  長谷川櫂「俳句の宇宙」
15 一点主義  沢木欣一「俳句の基本」
16 種あかしはするな  楠本憲吉「新版 俳句のひねり方」
17 生活詠と季語  小川軽舟「魅了する詩型―現代俳句私論」
18 短歌は線、俳句は点  鈴木鷹夫「片言自在」
19 モティーフが季語を選ぶ  山口青邨「俳句入門」
20 大景を引き絞る  磯貝碧蹄館「俳句上達の10章」
21 語感の生むイメージ  鷲谷七菜子「現代俳句入門」
22 俳句と追体験  今瀬剛一「俳句・流行から不易へ」
23 季語の概念くだき  茨木和生「俳句入門 初心者のために」
24 一は全  阿波野青畝「俳句のよろこび」
25 俳諧は三尺の童にさせよ  松尾芭蕉「三冊子」

第二章 表現力を磨く

26 俳句は白黒テレビ  飯田龍太「龍太俳句作法 内容と表現」
27 アンバランスのバランス  中島斌雄「現代俳句の創造」
28 季節を香らせる  能村登四郎「俳句実作入門」
29 面白いということ  飯島晴子「俳句評論 葦の中で」
30 俳句は日記  岡本 眸「俳句は日記」
31 単純さの味わい  荻原井泉水「俳句の作り方と味い方」
32 季語の連想力を借りる  小澤 實「俳句のはじまる場所 実力俳人への道」
33 詩的な拡がり  高柳重信「バベルの塔」
34 われ生きてあり  西東三鬼「俳句を作る人に 現代俳句入門」
35 思いを喩える  金子兜太「金子兜太の俳句入門」
36 沈黙の文学  秋元不死男「俳句入門」
37 猥雑さの真実  穴井 太「俳句往還」
38 地名は音感を生かして  佐川広治「俳句ワールド 発想と表現」
39 抽象的写生  後藤比奈夫「今日の俳句入門」
40 俳句は「モノボケ」である  千野帽子「俳句いきなり入門」
41 俳句の凝縮力  阿部筲人「俳句 四合目からの出発」
42 時間が見えてくる句  榎本好宏「俳句入門 本当の自分に出会う手引き」
43 助詞「の」が生む幻想  仁平 勝「俳句をつくろう」
44 壮大雄渾なる句  正岡子規「俳句の出発」
45 映像の復元力  角川春樹「『いのち』の思想」
46 ため息の「間(ま)」  藤田湘子「俳句作法入門」
47 暗誦しやすい句  山下一海「俳句への招待 十七音の世界にあそぶ」
48 否定形の効用  大橋敦子「俳句上達講座 俳句をより新しく」
49 みずみずしさを詠む  岩井英雅「俳句の天窓」
50 季語で力を抜く  正木ゆう子「起きて、立って、服を着ること」

第三章 トレーニング法

51 眼前直覚  上田五千石「俳句に大事な五つのこと」
52 カメラを捨てよ  江國 滋「俳句旅行のすすめ」
53 詩は身辺にあり  皆吉爽雨「写生句作法」
54 象徴とは心の具象化  富安風生「俳句の作り方」
55 俳句スポーツ説  波多野爽波「波多野爽波全集第三巻」
56 微妙な季節感  鷹羽狩行「俳句のたのしさ」
57 言葉の抽斗(ひきだし)  櫂未知子「俳句力 上達までの最短コース」
58 感動を素早く冷やす  池田澄子「休むに似たり」
59 庶民哀歓の呟き  草間時彦「伝統の終末」
60 直感でつかむ  成田千空「俳句は歓びの文学」
61 発見のおどろき  右城暮石「右城暮石俳句入門」
62 平淡の境地  岸本水府「川柳入門」
63 写生の基本は「地理」  岡田日郎「山と俳句の五十年」
64 私に帰る  野澤節子「女性のための俳句入門」
65 都市を詠む  鈴木太郎「太郎の体験的俳句入門」
66 季題を演じる  岸本尚毅「俳句の力学」
67 「や」の働きは三つある  高橋睦郎「私自身のための俳句入門」
68 貧しさの風流  森 澄雄「俳句燦々」
69 こころの鏡  伊藤敬子「新しい俳句の作り方―中級篇」
70 季語で暮しを詠む  清水基吉「俳句入門」
71 食べ物を詠み分ける  鍵和田秞子「俳句入門 作句のチャンス」
72 官能の修練  河東碧梧桐「新興俳句への道」
73 「風土記」を綴る  佐藤鬼房「俳句エッセイ集 片葉の葦」
74 時間を描く  佐藤紅緑「俳句作法」
75 「情」の写生  大野林火「現代俳句読本」
76 読みを利かす  山口誓子「日本の自然を詠む―現代俳句の道を拓いて」

第四章 マンネリを脱出する

77 具体的体験の抽象化  寺山修司「寺山修司の俳句入門」
78 思い出の糸をたぐる  安住 敦「俳句の眼―句作の手引」
79 難解をおそれるな  阿部完市「絶対本質の俳句論」
80 俳句は片言の詩  坪内稔典「俳句のユーモア」
81 自然の真実に感応せよ(真実感合)  加藤楸邨「加藤楸邨初期評論集成 第一巻」
82 第六感で作る  棚山波朗「俳句はいつも新しい」
83 精神の風景を詠む  岡井省二「槐庵俳語集―俳句真髄」
84 ナンセンスにひそむ真実  小島厚生「俳諧無辺 俳句のこころを読み解く36章」
85 連想を紡ぐ  中村苑子「私の風景」
86 滋味のある諧謔  永田耕衣「俳句窮達」
87 ひらきなおり  時実新子「川柳を始める人のために 新子の川柳入門」
88 一片の鱗の剥脱  三橋鷹女「羊歯地獄」
89 内観造型  石原八束「俳句の作り方」
90 精神の強靭さ  柿本多映「ステップ・アップ 柿本多映の俳句入門」
91 川柳というサプリメント  坊城俊樹「俳句入門迷宮案内」
92 記憶を風化させよ  橋 閒石「俳諧余談」
93 直(ちょく)に立つ句  澁谷 道「あるいてきた」
94 通俗の味わい  片山由美子「現代俳句との対話」
95 季題に象徴させよ  中村草田男「新しい俳句の作り方」
96 短さの恩寵  平井照敏「現代俳句の論理」
97 ユーモアに昇華された悲しみ  仁平義明「百人のモナ・リザ ―俳句から読む心理学―」
98 差し向いの淋しさ  田口一穂「俳句とつき合う法」
99 縄だるみの曲線  加倉井秋を「武蔵野雑記」
100 言葉の意味を消す  攝津幸彦「俳句幻景」

2012年11月28日水曜日

●青春

青春

青春や祭りの隅に布団干し  須藤 徹

捨てマッチ地に燃え青春は霧か  宮坂静生

青春のすぎにしこゝろ苺喰ふ  水原秋櫻子

ねとねとと糸ひくおくら青春過ぐ  小澤 實

斑猫やわが青春にゲバラの死  大木あまり

青春やこくるちくるの明易き  高山れおな〔*〕


〔*〕高山れおな句集『俳諧曾我』「7 パイク・レッスン」より

2012年11月27日火曜日

●洛外沸騰記事探索中脱線 野口裕

洛外沸騰記事探索中脱線

野口 裕



先週末に京都であった、現代俳句協会青年部シンポジウム「洛外沸騰 今、伝えたい俳句残したい俳句」。すでに半年前から予定が入り、当日は放送機器と格闘中だった。行けなかった当方は指をくわえているだけだが、知り合いが多数関わっているだけに少々残念ではある。

心残りがあるせいか、どんな様子だったかを誰か書いていないかと、さきほどあちこち見て回った。まとまった報告としては、

曾呂利亭雑記
http://sorori-tei-zakki.blogspot.jp/2012/11/blog-post.html
週刊「川柳時評」
http://daenizumi.blogspot.jp/2012/11/23.html
『日々録』ブログ版
http://blogs.yahoo.co.jp/hisazi819/archive/2012/11/18

などが目についた。その中で、週刊「川柳時評」氏の、
パネルディスカッションの前半は結社と主宰の話であった。
俳人はなぜこんなに結社や主宰の話が好きなのだろう。
「新撰21」の竟宴の際に、アンソロジーに出す百句を主宰に事前に見てもらったかどうかがとても重大なこととして話題になったときにも私は違和感を持った。
という記述から、若かりし頃「徒弟」という言葉を意識しつつ実験物理を選んだことを回想してしまった。

その頃師事していた教授を師匠と呼ぶようなことはなかったが、将棋の世界の内弟子制度にふれた中平邦彦著「棋士その世界」(講談社)や、初の外国人力士として相撲社会の徒弟制度に触れた雑誌「NUMBER」(文藝春秋社)の高見山のインタビュー記事などを、興味深く読んだことを思い出す。

しかし、理想的な結社とか主宰を語る人々は見果てぬ夢を見ているのではないか。現代という情報の溢れている時代と、徒弟制度とのずれは埋めきれないのではないか、というのが結果として途中で「徒弟」であることを辞めた人間の見るところだが、そうした感想と今週号の週刊俳句に掲載されている江里昭彦氏の記事「角川書店「俳句」の研究のための予備作業 〔中〕」で紹介されている上田五千石の文章、
だが、雨後の筍のように無定見に主宰誌ができ、結社がつくられていく現状はいかんともしがたいであろう。結社とは、それが在るべき論理と倫理に支えられて必然的に、公に許されて生まれてくるもの、という理念の欠如は、総合誌の指導性をもっても埋められるものではないだろう。

また現に在る結社にしても、伝統あるものは多く代替わりをして、その創成期のエネルギーを喪失し、その他も俳句観不分明にして存続経営しているのみという慣性を帯びて、活性力を減じているのが多く、しかも結社間交流というより個人的交際の揚が広がった今日、結社の特殊、ことにその厳粛性は著しく褪色している。これを「結社の時代」として鼓舞するのはなかなか困難である。
は、奇妙に当方の感想とシンクロしている。


【追記】
書き上げてから見てみると、「曾呂利亭雑記」に、関連する新しい記事が上がっていた。
http://sorori-tei-zakki.blogspot.jp/2012/11/blog-post_25.html

入れ違いだったようだ。

2012年11月26日月曜日

●月曜日の一句〔喜多昭夫〕 相子智恵


相子智恵







冬銀河散らかつてゐる俺の骨  喜多昭夫

句集『花谺』(2012.11 私家版)より。

大気が澄み、凍てた冬空。満天の星の光は鋭く白くきらめく。そんな冬の銀河を見上げながら、星々の中に(あるいは自分の体の中を夢想して)散らかった自分の白い骨を見出している。

掲句の次ページには〈寒卵みたいな俺の涙かな〉という句もあって、両方読むと、真っ白で硬質、ドライな〈俺〉の身体感覚が立ち上ってくる。その突き放した身体性は諧謔味を生み出し、過剰な自己意識はかすかな笑いに変えられて、読者の心に不思議と爽快感を残す。

掲句は〈散らかつてゐる〉であって、「散らばって」ではない。この一語の違いはとても大きい。自然な状態で散らばっているのではなく、マイナスの意味の強い「散らかる」の突き放し方で、自嘲的に世界からの異物感を強めた。自意識を注意深く突き放して笑いに変換しながら、それでも青春性ともいうべき「伝えたがりの自己」は滲みだす。

俳句という文芸のもつ、そんな自律した大人の形式と、そこからはみ出さんする青年的な熱情のあわいが、私は好きだ。

2012年11月25日日曜日

〔今週号の表紙〕第292号 囲炉裏端 橋本 直

今週号の表紙〕第292号 囲炉裏端

橋本 直



仲間と戸隠の冬の森で遊ぶのが恒例になっていて、これは宿の囲炉裏です。句会をやっている最中。和っぽい感じですけど、炭火は薪ストーブの薪の欠片をはこんでいて、焼いてるのはマシュマロ。焼くとトロトロになっておいしいです。


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2012年11月23日金曜日

●金曜日の川柳〔古谷恭一〕 樋口由紀子



樋口由紀子







膝を抱く土佐は遠流の国なれば

古谷恭一 (ふるや・きょういち) 1948~

「遠流」とは最も重い流罪のことである。佐渡や隠岐に流されたとは聞いたことはあるが、土佐もそのような土地であったらしい。「なれば」で終っているのだから、何かを問われての答えだろうか。その土佐に生まれ育ち、今の私が存在する。だから、哀しく、愚かで、滑稽なのかもしれない。それは土佐に生まれ育ったこだわりと自負である。歴史的演劇的操作を施した、諧謔性のある川柳である。

今の社会に合わせられないもの、すんなりといかないものを抱えている。しかし、上手く立ち回れないゆえの自分であり、完璧でないゆえの思念がある。膝を抱えながら、作者はきっとそう思っているに違いない。

〈この世にはこの世の音色 骨の笛〉〈白桃をむけばおののくわが齢〉〈赤とんぼ遊びつくしていなくなる〉 『現代川柳の精鋭たち』(北宋社刊 2000年)所収。

2012年11月22日木曜日

●あしたになれば

あしたになれば




2012年11月21日水曜日

●便器

便器

屈葬めく夜明けの便器ほととぎす  中島斌雄

ウンコなテポドン便器なニッポン  渡辺隆夫

冬日くまなし便器は死後のつややかさ  高野ムツオ


2012年11月19日月曜日

●月曜日の一句〔西山 睦〕 相子智恵


相子智恵







雪吊をして雪を呼ぶ湖北かな  西山 睦

句集『春火桶』(2012.9 角川書店)より。

庭木の枝を雪から守る〈雪吊〉を、雪への備えとして受動的に詠むのではなく〈雪を呼ぶ〉と詠んだ。雪吊をした木々が、雪を恋しく呼んでいるというのだ。

それは白居易の詩「殷協律に寄す」の一節「雪月花の時 最も君を憶ふ」を思い出させる。雪・月・花という季語が持つ“人恋しさ”の原点に、この句はつながっている。

雪吊は金沢の兼六園などが有名だが、伊吹山を望む琵琶湖の北〈湖北〉も雪の多い土地で、雪吊が風物詩となっているそうだ(冬に訪れたことがないので、実際に見たことがないのが残念)。

雪吊をした木という近景から、地名に転じて大きな句となっている。この地名からは琵琶湖の水が思われてきて、雪と水とが清らかに響き合う。そして繰り返される「K」の音の硬い響きに、唱えるだけで寒さがやってくるような、凛とした風情を感じる。清潔で瑞々しい、立句の風格のある句だと思った。

2012年11月18日日曜日

〔今週号の表紙〕 第291号 カモメ 小津夜景

今週号の表紙〕 
第291号 カモメ

小津夜景


前に住んでいた都会の海。
波の汀に、カモメが品よく並んでいる。

この町の海辺には、子どものカモメが全くいなかった。
いつも大人だけがあそびに来て、外界に興味のない面持ちで、のんびりと散歩するのである。
成長してもあまり大きくならない種らしく、すっきりとしたその姿は砂浜にばらまいた小花のようで、見飽きなかった。

ところかわり、今住んでいる田舎は近所に巨大な団地と化した崖があって、出産&子育てが非常に盛んである。
それで海辺も、おびただしい子どもの声で凄いことになっている。
どうやって砂浜まで来たの?と声をかけたくなるほど小さな灰色の幼児や、ウリ坊じみた茶褐色の児童、お世辞にもきれいとは言いがたいまだら模様の少年少女(でも毛は柔らかそうな感じ)等が、歩く練習や飛ぶ練習をしたり、人に近づいてきたり、ひどくせわしなく、これはこれで見飽きない。


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2012年11月16日金曜日

●金曜日の川柳〔寺西文子〕 樋口由紀子



樋口由紀子







フンフンとお好み焼を裏返す

寺西文子 (てらにし・ふみこ) 1941~

関西人は粉もんが好きである。たこ焼き器はほとんどの家にある。ちなみに我が家には大中小と三つあり、人数や用途によって使い分けている。お好み焼きも好物だ。関西のお好み焼屋の店の多さに他県の人は驚く。

「フンフン」とは相槌である。お好み焼を焼きながら、友だちの悩み事の相談か愚痴を聞いているのだろう。話はまだまだ終りそうにないけれど、目の前のお好み焼の下半面はおいしそうに焼きあがってきている。「それで、どうしたん?」と相手の話に受け答えしながら、コテで裏返して、もう半面を焼く。

焼き上がっても話は終りそうにないが、とりあえず熱いうちに食べることにする。フーフーとお好み焼をほおばっているうちに友人の気持ちも静まってくる。「考えてもしゃあないわ」「ほんまほんま」「ここのお好み焼はいつ来てもおいしい」「またこよね」、といつものパターンに落ち着く。人の心の動きを上手くとらえている。『主婦の星』(編集工房円刊 2004年)所収。

2012年11月14日水曜日

●phallus

phallus
 

わが魔羅の日暮の色も菜種梅雨  加藤楸邨

脹らめどなほ包茎のチューリップ  高橋 龍

冬銀河ほろと男根垂らしたり  糸大八

夏惜しむフランスパンも男根も  高野ムツオ

その朝の夢の猟銃なる角度  佐山哲郎

わたくしに無きもの魔羅やお月さま  榎本 享〔*〕


〔*〕榎本享『おはやう』(2012年10月18日・角川書店)


2012年11月13日火曜日

〔今週号の表紙〕第290号 紅葉 西原天気

今週号の表紙〕 
第290号 紅葉

西原天気



紅葉が年々遅くなるような気がしている。私が暮らす東京西郊は、街路樹の銀杏がまだ青い。大学通りと呼ばれる広い通りは、毎年12月になると街路樹の銀杏にクリスマス用のイルミネーションを施すが、近年はなかなか葉が落ちてくれず、一度などは葉を刈って、電球と電線を巻きつけたらしい。

季語的には、紅葉・黄葉は秋季。ところが、日本の大方の地域では、11月も深くならないと本格的に紅葉しない。その意味での季語とのズレについては、島田牙城さんも「輸入品の二十四節気とはずれがある」は間違ひだ!」という記事の最後で触れている。

さて、この写真。撮影したのは2009年10月23日(デジカメは撮影日時がデータとして残るので便利です)。場所は北海道のどこか(どの町だったかは忘れました。デジカメもそこまでは記録してくれません)。

さすが北海道。10月下旬で街路樹が充分に紅葉しています。



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2012年11月12日月曜日

●月曜日の一句〔柴田千晶〕 相子智恵


相子智恵







変則的だが、今回は詩集を紹介したい。作者の柴田千晶氏は詩人であり俳人、脚本家でもある。
喇叭

美しき白紙冬野を子ははみ出す

微熱が続いて、左足が痺れている。そんな日が幾日か続いて、私はあの幻聴を聞くようになった。水の中を潜り抜けてきたような、うら淋しい喇叭の音。間延びした進軍喇叭の音だ。
螺鈿のような鱗雲が広がる冬の空から、それは聞こえてくるのか、いや違う、それは私の躯の奥深い処から聞こえてくるようだ。


柴田千晶 詩集『生家へ』(2012.10 思潮社)より。

掲げたのは「喇叭」という詩の一章である。冒頭に置かれた俳句に呼応して、詩が続いてゆく。本書はすべてこのスタイルで書かれた一冊。〈ここ十年ほど、自作の俳句が内包するイメージと格闘するように詩を書き続けてきた。詩と俳句が遙かなところで強く響き合う、そんな世界をめざして〉とあとがきにはある。

冒頭の句からは「誕生」がイメージされる。子どもが一人、はみ出す。その清らかな祝福の白紙はしかし、すぐに寒々しい冬枯の野へと展開されてしまう。生まれたが最後、死へ向かって歩みだすしかない人間の運命の寒々しさのように。

その後に続く体の奥深くから聞こえる〈水の中を潜り抜けてきたような、うら淋しい喇叭の音〉からは、今度は母体が聞く胎児の音を思う。こちらは「出産」をイメージする。「生み出されたものと、生み出したもの」がこの詩には同時に描かれている。

柴田氏は一貫して、性と生への違和感を生々しく書き続けている作家だが、この俳句と詩が響き合う詩集は、一冊を読み終えると小説のようでもある。俳句、詩、物語として重層的に、それら三つを凭れさせずに成立させるというのは、溺れているようで溺れていかない冷静な筆力によって成り立っている。他者には真似できない膂力のある一冊だと思う。


2012年11月11日日曜日

●落選展を開催しております

落選展を開催しております


2012 落選展 Salon des Refusés ≫見に行く

感想などご自由にコメントしていただければ幸いです。

2012年11月10日土曜日

〔おんつぼ44〕ジョルジュ・ドルリュー 西原天気

おんつぼ44
ジョルジュ・ドルリュー
Georges Delerue



西原天気

おんつぼ=音楽のツボ



華やかな哀愁、だなんて、なんとダサい言い方。もっといい表現はないか。

ジョルジュ・ドルリュー(1925年3月12日-1992年3月10日)はトリュフォーの映画音楽で知られる作曲家。『ピアニストを撃て』から始まって(ざっと数えると)11本のトリュフォー作品でドルリューが映画音楽を担当している。

Francois Truffaut's La Nuit Americaine Theme


華やかだけれど、安っぽくない。哀しいけれど、重くれない。ドルリューの曲はいつでも優雅に若い。

2012年11月9日金曜日

●金曜日の川柳〔前田芙巳代〕 樋口由紀子



樋口由紀子







指が短いので哀しいのでしょうか

前田芙巳代 (まえだ・ふみよ) 1927~

足の長い人、目の大きな人、鼻の丸い人、いろんな人がいる。指が短いから哀しいのかと問う。当然手も小さいから、大切なものがこぼれおちたり、摑もうとしても摑みきれなかったものがあったのかもしれない。けれども、指が短いのが哀しみの原因ではないことは作者が一番よく知っている。

ほんの少し前まで女の人は今よりももっともっと生きにくかった。女性はこうあらねばならないという縛りが生活全般にあり、世の中に浸透していた。自分らしく生きることができずに、我慢したままの一生を終えた女性がたくさんいる。「哀しいのでしょうか」と言われると本当に哀しくなる。

〈母の櫛どこに置いてもふしあわせ〉〈面売りの最後の面は売りのこす〉〈馬よりも貧しく生まれ傘を干す〉 『しずく花』(1983年刊 川柳「一枚の会」)所収。



2012年11月8日木曜日

●めがね

めがね

オリオンや眼鏡のそばに人眠る  山口優夢

どぶろくや眼鏡のつるの片光り  太田うさぎ〔*

月夜かなめがねをかけた蝶々かな  金原まさ子〔**

さくら鯛死人は眼鏡ふいてゆく  飯島晴子

滝涼しともに眼鏡を濡らしゐて  津川絵理子〔*

法師蝉眼鏡外して聞きゐたり  山口誓子

眼鏡きらきらと冷房に入り来たる  林 翔

中学生朝の眼鏡の稲に澄み  中村草田男


〔*『俳コレ』(2011年12月・邑書林)より
〔**金原まさ子句集『遊戯の家』(2010年/金雀枝舎)




2012年11月7日水曜日

●喫茶

喫茶

かの夏に未だとどまる喫茶かな  依光陽子〔*

壁紙の花野にもたれ純喫茶  西原天気

鶴の羽いちまい降りし純喫茶  糸大八

高田馬場純喫茶白鳥にてくさる  攝津幸彦


〔*『俳コレ』(2011年12月・邑書林)より

2012年11月5日月曜日

●月曜日の一句〔藤木清子〕 相子智恵


相子智恵







戦死せり三十二枚の歯をそろへ  藤木清子

宇多喜代子編著『ひとときの光芒 藤木清子全句集』(2012.10 沖積舎)より。

戦死した兵士。ふつう成人の歯の数は三十二本だから、それが一本も欠けずに揃っているということは、つまりは健康な若者だったということだ。

すべての歯を揃えたまま、健康だったこの男は戦地で死んだ。この歯は彼が生きていれば、もっと使われるはずだった。母や妻の料理をもっと食べられただろうし、友とたくさん話しただろう。歌も歌ったかもしれないし、接吻もしただろう。それがすべてかなわなくなった遺骨の、白くそろった三十二本の歯には、淡々と静かな悲しみが満ちている。

歯の本数の表現には「本」ではなく〈枚〉という言葉が選ばれている。〈枚〉の持つ語感のペラペラとした薄さは、重いはずのひとりの人生が「一兵卒」という軽さに変わっていくような、戦争の恐ろしさをも秘めているように思った。静かで重い、無季の句である。

本書は「スピカ」の神野紗希氏の紹介にもあるが、昭和十年代の新興俳句運動の時代に活躍した女性俳人である藤木清子を、宇多氏が30年という労力と私財を投じてまとめあげた編年体の全句集である。

前半ページ(清子が句作を始めたばかりの頃)は正直、言葉や思いが上滑りしている句も多く、なぜ宇多氏がこの俳人に注目したのか疑問に思いつつ読み進めた。だが、後半に行くにしたがい清子の句は俄然、緊張の光を帯びて鋭く輝いてゆく。それは日中戦争が激しさを増し、新興俳句が官憲に弾圧されていくのとちょうど呼応していた。悲しく切実な呼応であった。

収録された宇多氏の講演録から一部を引こう。
実作期間は短く残した作品もそう多くはない。新興俳句そのものが、藤木清子の俳句人生と同じく短命で、悲劇的でしたからね。それに、藤木清子は、けっして文学意識の高い教養人でもなければ、技巧的にすぐれた俳人でもない(中略)ただ、発言のむつかしいあの時代に、精一杯生きた女性が、偽りのない声を俳句という入れ物にどうにかして詰め込もうとして奮闘したわけですよ。無様だったかもしれない、失敗だったかもしれない。ところが、たとえば俳句作品年表を作成しようとするとき、どうしても避けて通れない一人です。これって大きいことですよね。いくら高い教養の持ち主で、人気者で、みんなにもてはやされる句を多く作ったからといって、どうということないじゃないですか。

2012年11月4日日曜日

〔今週号の表紙〕 第289号 壁 

今週号の表紙〕 
第289号 壁

西原天気




壁に抽象画のような模様を見つけた。

おそらく、外につながる配管がかつてはあって、用なしになったので、口を塞ぎ、その上から新しく塗料を塗ったのが右にある「丸」。そこは憶測できたが、 左の凹みがわからない。

なんだろう?

ちなみに「丸」が斜面を転がるように見えるのは、カメラを傾けたから。実際は水平の上に乗っかっている。だって、動きが欲しいじゃないですか。



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2012年11月3日土曜日

●ゴリラ

ゴリラ

ゴリラらのあぐらくずれる大暑かな  小沢信男

嵐の前ゴリラと歩調合わせけり  宮崎斗士

ゴリラ不機嫌父の日の父あまた  渡辺鮎太

牡丹見てそれからゴリラ見て帰る  鳴戸奈菜



2012年11月2日金曜日

●金曜日の川柳〔石部明〕 樋口由紀子



樋口由紀子







チベットへ行くうつくしく髪を結い

石部明 (いしべ・あきら) 1939~2012

石部明が10月27日に亡くなった。彼は華のある人で、現代の川柳を牽引してきた。彼の川柳は存在感があり、独自の光彩を放っていた。その光はまばゆいばかりのものではなく、漆黒の艶があった。

〈梯子にも轢死体にもなれる春〉〈ランドセル背負う死の国生の国〉〈間違って僧のひとりを食う始末〉〈死んでいる馬の胴体青芒〉 彼の川柳は死を詠んだものが多い。明るく陽気なのに、この世の外にいるような、ぞくっとさせるものがあった。そして、本当に逝ってしまった。

石部はチベットに行ったのだ。そこは私たちが知っているチベットではない。うつくしく結い上げた髪が哀しくて、つらい。セレクション柳人『石部明集』(邑書林刊 2006年)所収。



2012年11月1日木曜日

●十一月

十一月


石蕗の黄に十一月はしづかな月  後藤比奈夫

新しきナイフとフォーク十一月  川崎展宏

煙草の火十一月がすたすたと  美馬順子

ほとけおどけよる十一月のホットケエキ  攝津幸彦

ベッド組み立てて十一月の雨  皆吉 司

しおこんぶ十一月の雨はやみ  岡村知昭〔*


〔*『俳コレ』(2011年12月・邑書林)より