2020年9月28日月曜日

●月曜日の一句〔照屋眞理子〕相子智恵



相子智恵







立ち枯れてあれはひまはりの魂魄   照屋眞理子

句集『猫も天使も』(2020.7 角川書店)所載

〈魂魄(こんぱく)〉とは死者の魂のこと。古来中国では、「魂」は精神を司る気、「魄」は肉体を司る気とされており、人が死ぬと魂は天に帰し、魄は地に帰すと考えられた。
掲句、ひまわりの枯れ方はまさに〈立ち枯れて〉で、太い首をうなだれながらも、首から下はすっくと立ったままである。枯れてもなお気迫があって力強い。精神を司る気だけではなく、しっかりと地に立ち続ける太い茎からは肉体の気も感じる。ただの「たましい」ではなく〈魂魄〉であることに、ひまわりらしさが感じられてくるのだ。「こんぱく」という音の強さも、ひまわりの力強い美しさを際立たせている。

本書は、照屋眞理子の遺句集となってしまった。

わたくしを捨てに銀河のほとりまで  同

 

2020年9月25日金曜日

●金曜日の川柳〔谷じゃこ〕樋口由紀子

 



樋口由紀子






ほら桃を置けばぐらぐらしなくなる

谷じゃこ (たに・じゃこ)

桃の季節が終わった。また来年のお楽しみである。桃は大好きな果物で、自分の中での価格の基準がクリア―すれば、飛びついて買う。果汁いっぱいで、口当たりもやわらかく、本当に美味しい。少しぐらい嫌なことがあっても、桃を食べると胸のもやもやは消える。

掲句は食べるではなく、置くである。「ほら」で「桃」の触感を伝える。ペーパーウェイトのような扱いだ。確かに桃はある程度の重さがあるからペーパーウェイトの代用はできそうだが、長く置くと熟してくるからたいへんである。一体誰に言っているのか。自分自身だろう。では、どこに置くのか。そもそも桃を置くとぐらぐらしなくなるというのはなになのか。モノではなく、ココロだろう。ぐらぐらさせているものが心配になる。いろいろ考えていくとよけいにややこしくなってきた。やっぱり、桃は置くよりは食べた方がいい。作者は歌人である。「うみの会」

2020年9月24日木曜日

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2020年9月18日金曜日

●金曜日の川柳〔丸山進〕樋口由紀子



樋口由紀子






折れてくれ折れ線グラフなのだから

丸山進 (まるやま・すすむ) 1943~

ダイエットに励んでいる友人が折れ線グラフがなかなか下がってくれないと嘆いているのを聞いて、思い出した川柳。

「折れ線グラフ」と名前がついているのだから、ずんずん上がっていくばかりではなく、折れるのが折れ線グラフ本来の姿のはずである。もうそろそろ名前通りに折れてくれてもよさそうなのに、折れる気配がまったくない。だから、しびれをきらして切にお願いしている。

折れ線グラフに言ってもしかたがないことを折れ線グラフに言うのがツボで、泣かせどころ、笑わせどころである。上五「折れてくれ」のライブ感があり、下五「なのだから」で必死さが伝わる。まじめにふまじめでなんとも可笑しい。「バックストローク」(19号 2007年刊)収録。

2020年9月16日水曜日

●むかしの記事も

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2020年9月14日月曜日

●月曜日の一句〔篠崎央子〕相子智恵



相子智恵







芋刺して死を遠ざくる父の箸   篠崎央子

句集『火の貌』(2020.8 ふらんす堂)所載

俳句で「芋」といえば里芋を指す。里芋は縄文時代後期に伝播し、稲作以前の主食だったと推定されているそうだ。種芋の上に子芋、孫芋がつく形で成長するので子孫繁栄の縁起物とされていたり、別名「芋名月」とも呼ばれる十五夜には、収穫に感謝して供えたりする。古くから生命力を喚起する食べ物である。

掲句、里芋の煮っ転がしか何かを食べているのだろう。いくら食べることは生きることの基本だとはいえ、普通の食卓で〈死を遠ざくる〉というのは出てこない発想なのでドキリとする。そこから逆説的に、父の死が近いことが感じられてくるのだ。

死が近い父の箸が、芋を刺している。里芋はつるつるしているから箸で掴みにくい。もはや箸で挟むこともできなくなっているから〈芋刺して〉なのだろう。それでも芋を食べることで父の命の時間は少し伸び、死は遠ざかる。

里芋の煮物のような平凡な料理、箸の動きだけをとらえた平凡な食卓の風景が、状況の壮絶さを静かに物語る。さらに箸が刺したものが生命力の象徴のような里芋であるからこそ、作者の祈りのようなものが、しかと感じられてくるのである。

2020年9月11日金曜日

●金曜日の川柳〔千春〕樋口由紀子



樋口由紀子






タクシーで少女時代を追い越して

千春 (ちはる)

自転車や自動車で通り過ぎるいつも見慣れている町もタクシーに乗っていると、景色が違って見える。自分の車だと前方しか見ないから、突然まわりが見えだすと別の世界に来たようで落ち着かなくなる。

「少女時代を追い越して」とあるが、今はどの時代にいるのか。時間軸が狂ってしまったのだろう。少女時代の前なのか、後なのか。これからやってくる少女時代を通り過ぎてしまったのか。それとも過って経験した少女時代を追い越したのか。それも、タクシーだから、誰かに、それも、見知らぬ人に運ばれて、今どこにいるのかわからなくなってきた。時空感覚のマヒを体感しているようである。『てとてと』(私家本工房刊 2020年)所収。

2020年9月9日水曜日

●鮫



鮫の歯を目を背を腹を見て触れる  橋本直〔*1〕

思い出のそこだけが夜鮫が来る  なつはづき〔*2〕

本の山くづれて遠き海に鮫  小澤實

梅咲いて庭中に青鮫が来ている  金子兜太

秋航へ鮫の真紅の肺を見て  齋藤愼爾

昼過ぎのプラグが鮫の声を出す  坪内稔典


〔*1〕橋本直『符籙』2020年7月/左右社
〔*2〕なつはづき『ぴったりの箱』2020年7月/朔出版

2020年9月7日月曜日

●月曜日の一句〔伊藤敬子〕相子智恵



相子智恵







いちにちのたちまち遠き千艸かな   伊藤敬子

句集『千艸』(2020.7 角川書店)所載

夏が終わり、今時分の夕暮れになると「もう日が暮れるのか」と切なくなる。もちろん、これからもっと日は短くなるのだが、個人的に日暮れが最も切ないのは秋の初め頃で、もっと外で遊べていたはずなのに……と思ってしまう。これが秋分ぐらいになると、日暮れに対する覚悟ができて、受け入れられるようになるのである。

掲句、〈千艸〉(ちぐさ)は秋草の傍題。秋草の野を歩いているといつの間にか日暮れがきていて、今日の一日を〈たちまち遠き〉と思った。これが「早い」などではだめで、〈遠き〉の一語が素晴らしいと思った。足元の〈千艸〉から、遥かな時間と距離がいきなり立ち現れてきて、秋の夕暮れの切なさが滲みだす。

本書の中に〈千艸〉の句は多い。好きな季語なのだろう。〈徒歩ゆくや千艸の風に裾吹かれ〉という句もある。裾が吹かれる風の音、秋草が触れてゆく足の感触。歩いている時間のすべてがしみじみといとおしい。

本書は伊藤敬子の遺句集となった。

2020年9月4日金曜日

●金曜日の川柳〔金築雨学〕樋口由紀子



樋口由紀子






虫に刺されたところを人は見せたがる

金築雨学 (かねつき・うがく) 1941~2020

夏が嫌いだ。暑いのも苦手だけれど、それよりも虫が困る。私は人一倍虫に好かれている。幾人かでいる時も私だけに虫がぶんぶんと飛び回り、まとわりつく。上高地のかっぱ橋の上では蜂に刺された。たくさんの人が行き交う中で、蜂は私めがけて飛んできて、刺して、また飛んでいった。私の周りから人がぱっと散った。今も身体のあちこちに刺された痕がある。ここもあそこもかまれたと見せたいくらいだ。

どうしてそんな行動を取りたいのだろうか。刺された痕はみっともないものである。関西のおばちゃんたちが安く買ったものを自慢するときに言う「いくらやったと思う?」に似ているような気もする。自慢にはなりそうもないことを自慢したがり、見せられないものを見せたがる。「見せたがる」が言い得て妙。心の機微を言い当てている。人は可笑しい。金築雨学も亡くなってしまった。『現代川柳の精鋭たち』(2000年刊 北宋社)所収。