2021年2月26日金曜日

●金曜日の川柳〔倉本朝世〕樋口由紀子



樋口由紀子






海鼠踏んだら「トウキョウ」と音がした

倉本朝世 (くらもと・あさよ) 1958~

海鼠は食べたことはあるが、踏んだことはない。経験したことのない、滅多に経験しない身体感覚である。もし、踏めばそんな音がするのか、確かめてみたくなる。海鼠の中身は柔らかく、水分が多そうだから鳴くような音がしそうである。海鼠を踏んだというコトから、そのように聞こえる私の耳。それは海鼠の声、海鼠の呪文なのか。海鼠の生命体を描いているようでもある。

その無意味な音に「トウキョウ」と意味を与えた。「トウキョウ」は「東京」なのだろうか。「東京」に何某かの思いがあるのか。それとも似て非なるものなのか。なんにせよ、海鼠を踏んだその感触の瞬間に、その音を聞いた途端に世界も私自身も瞬時に一変し、新たな世界が生れたのかもしれない。『現代川柳の精鋭たち』(2000年刊 北宋社)所収。

2021年2月24日水曜日

●西鶴ざんまい #3 浅沼璞

西鶴ざんまい #3

浅沼璞
 
日本道に山路つもれば千代の菊     西鶴(発句)
 鸚鵡も月に馴れて人まね        仝(脇)
『独吟百韻自註絵巻』(元禄五・1692年頃)

やっと脇句(以下、脇)。まずは式目チェックをすませてしまいましょう。
 
ごらんのとおり発句と同季で体言留、脇のセオリー通りになっています。
 
しかも発句が秋の場合、第三までに月を詠まなければなりませんが、それもクリア。
 
百韻はオモテ八句で、七句目が月の定座になっていますので、五句引き上げているわけですね。これは秋の句続きに月が出ないのを素秋(すあき)といって嫌うことに起因します。(『祇園拾遺物語』元禄四・1691年、参照)


さて西鶴は自註で「古い貞門調ならば〈紅葉のにしき移す今織〉などとするところを、それでは付き過ぎなので避けた」と記しています。(脇が紅葉なら第三で月)
 
「今織」とは西陣で新しく織りだした錦の類で、いってみれば日本製の唐織物。発句の「日本式の計算方法」と対句的に仕立てた対付(ついづけ)で、一概に付き過ぎとはいえません。ただ句意をたどると「さながら紅葉の錦を移したような趣の今織である」といった雅語的な予定調和で、発句の「千代の菊」には付き過ぎといえなくもありませんが。
 
その付き過ぎを嫌って鸚鵡の句を付けた、と西鶴はつづけます。曰く「唐鳥のあうむに日本の人の物言ふを聞きならはせ、何ぞといへば何の事もなく付け寄せける」。
 
この原文に即して脇を検証すれば、「月に馴れ」=「日本に馴れ」、「人まね」=「日本人の物真似」というコンテクストが浮かんできます。要は鸚鵡の日本語トレーニングを発句の「日本式計算方法」と対句的に仕立てたわけで、これもまた対付の範疇にあるとしていいでしょう。その意味で脇としての径庭はありません。
 
むろん同じ対付でも、「日本製の唐織物」は前述のごとく雅な感じ満載の貞門調ですが、「日本語トレーニング」にはそれがなく、俗っぽい談林調。
 
けれど、こうした雅俗の比重の違いはあっても、付合はおなじ対付なのですから、「何の事もなく付け寄せける」という西鶴の自註を手放しで認めるわけにはいきませんね。
 
しかも対付であるというだけでなく、以下のとおり縁語による詞付(ことばづけ)の要素まで見てとれちゃうので。
 
たとえば『西鶴俳諧集』(桜楓社)頭注には「千代の菊→(酒→さかづき)→鸚鵡」という連想が指摘されています。
 
こまかくみれば「菊酒→杯→鸚鵡貝」という連想経路なわけですが、それについて西鶴は一言もふれていません。いわば全無視。読者からすれば、「菊酒→鸚鵡の杯」という連想の指摘は大いに納得のいくところでしょう。
 
ということで脇の推敲過程をシン・ゴジラ式に仮想、且つネーミングすれば――

  月をうつせる鸚鵡杯       〔第1形態=鸚鵡杯くん〕
  鸚鵡もまねる月の杯       〔第2形態=物真似くん〕

さらに抜けの手法で「杯」の一語を抜き、第三形態の完成形にもっていったと解せば、より納得の度合いが増すのではないでしょうか。
 
とはいえ、こうした連想を重ねるプロセスが想定されるというのに、「さらりと何気のう付けただけやねん」と西鶴はうそぶいている。なんででしょう。自註は「何ぞといへば何の事もなく付け寄せけるを、皆人好める世の風儀に成りぬ」と結ばれています。
 
つまり「何の事もなく」付けるのこそ今風好みだというのです。トレンドに乗らんとする西鶴――時代の波を追い、時代の波を負う老俳諧師・二万翁の姿が……。
 
しばらく二万翁のこの独吟&自註を追ってみましょう。

2021年2月22日月曜日

●月曜日の一句〔迫口あき〕相子智恵



相子智恵







すかんぽ噛み野にこぼしゆく名のひとつ  迫口あき

句集『玉霰』(2021.1 青磁社)所載

すかんぽ(酸葉:すいば)は懐かしさを感じさせる季語だ。私は小学校の帰り道、畦道に降りてすかんぽを齧って帰ったこともあるけれど、今は衛生意識も変わり、道端の草を噛む子どもなどほとんどいないのではないか。どんどん詠まれなくなっていく季語のひとつかもしれず、懐かしさもさらに増してゆくのだろう。

掲句、すかんぽを噛みながら野を歩いている。〈野にこぼしゆく名〉は誰の、あるいは何の名前なのかはわからない。口中に酸っぱさを感じながら、先を行く友の名前を呼んだのかもしれないし、〈こぼしゆく〉のささやかな感じからは、ひとりきりですかんぽを噛みながら歩いていて、頭の中から誰かの名前がふいにこぼれ出たのかもしれない。

名前の主を限定しない茫洋さと、〈ひとつ〉というかけがえのなさが同時に存在する。それが〈すかんぽ噛み〉の行為と相まって、読者を忘れかけていた懐かしい子どもの頃の世界に引き込んでいく。

2021年2月21日日曜日

【人名さん】アラン・ドロン

【人名さん】
アラン・ドロン

約束がアランドロンと消えてゆく  丸山進


『川柳ねじまき』第7号(2021年1月20日)より。

2021年2月19日金曜日

●金曜日の川柳〔きさらぎ彼句吾〕樋口由紀子



樋口由紀子






誤読も誤差もなんて事無いライスカレー

きさらぎ彼句吾 (きさらぎ・あくあ)

「誤読も誤差も」なんて言うから、「ライスカレー」か「カレーライス」か、どっちが正当なのだろうとまず考えてしまった。作者は「ライスカレー」の方に愛着があるようだ。どっちにしてもそんなことは「なんて事無い」である。

「誤読も誤差もなんて事無い」で切れているのか。切れているようで、繋がっているのか。誤読か誤差のミスをして、今ライスカレーを食べている、満腹になって、やっと「なんて事ない」と思えるようになったのか。「なんて事ない」となかなか思えないから「なんて事ない」と言い聞かせているのか。「なんて事ない」の言葉が頭から離れなくなった。「おかじょうき」(2020年刊)収録。

2021年2月18日木曜日

●ギター

ギター


五月来る運河にギター沈みゐて  皆吉司

月光に掻き鳴らすギターは出鱈目  加倉井秋を

人間に指ありポインセチアとギター  瀬戸正洋〔*1〕

弾初のギターアンプやぶうんと鳴る  榮猿丸〔*2〕


〔*1〕『連衆』第89号(2021年2月)
〔*2〕榮猿丸句集『点滅』2013年12月/ふらんす堂

2021年2月16日火曜日

【名前はないけど、いる生き物】 やどかりさがし 宮﨑莉々香

【名前はないけど、いる生き物】
やどかりさがし

宮﨑莉々香

眼のなかに雪溶け爺や今もまた
太陽がぐらついていつぱいで梅
あたたかややどかりのちらつくあたま
やどかりを探しはじめるみんなかな
あんたばあさんみたいだとやどかりさがし
やどかりの午後の不安や大丈夫
ハリボーとあきらめのやどかりさがし
やどかりに浜そつけなく泡だちぬ
まなざしがうしろにささる浜の春
やどかりのうしろをせまる足の音
やどかりをレンズが通りすぎるない
咲くまでが胸のうちから野にわたる
うぐひすややどかりさがしうちけえる


2021年2月15日月曜日

●月曜日の一句〔瀬戸正洋〕相子智恵



相子智恵







春の暮嘘でも辻褄が合つた  瀬戸正洋

句集『亀の失踪』(2020.9 新潮社 図書編集室)所載

嘘の辻褄合わせに嘘を重ねる政治は論外だけれど、小さな嘘の経験がない人はめずらしいだろう。そして案外、嘘の辻褄が合ってしまうということも、生きていればたまには起きる。

掲句の〈嘘でも辻褄が合つた〉からは、嘘をついてしまった後ろめたさと、ひょんなことから嘘の辻褄が合ってしまい、拍子抜けしたようなラッキーな気分が見えてくる。この、とぼけた言い回しからは、吐いた嘘が大したことのない、害のない嘘だということもわかる。

〈春の暮〉も絶妙な取り合わせで、「秋の暮」や「冬の暮」のように寂しくも厳しくもない。むしろこれから「春宵一刻千金」の春の宵がやってくる艶めいた夕暮れ時の気分があり、中七・下五の飄々とした味わいをよく活かしている。

2021年2月14日日曜日

【週末俳句】隔離の日々 小津夜景

【週末俳句】
隔離の日々

小津夜景


いま東京のマンスリーマンションで「帰国者の自主隔離」にいそしんでいる。いつもは海のある田舎でのんびり生きているから、都会のマンションに籠っているのがつらい。

公共交通機関をつかうことも、喫茶店やレストランに入ることもできない。家のまわりを散歩するのは許されているものの、歩きながら「海はどこ…どこにも海がないよ…」とつぶやいている。

そんな散歩の途中で、ちょっといい感じの寺の前を通った。見ると吉祥寺とある。吉祥寺という街は、この寺のまわりに住んでいた住民が、火事のあとに移り住んだことでその名をもつらしい。なるほど。



ときどき知人から「マンションでなにしてるの? ひまでしょ?」といった連絡が来る。はい。ひまです。ただしひまなのは気分の話。用事がなければこのコロナ下に帰国などしないのであって、やるべきことはたくさんある。

そのうちのひとつが拙著『いつかたこぶねになる日』の版元である素粒社の北野さんが企画した、池澤夏樹氏とのオンライン・トークイベント「小津夜景って何者?」だ。すごいタイトルですみません。自分でも恥ずかしくてもう。もっともこのイベントは帰国の理由とは無関係で、しばし日本に帰りますと北野さんに伝えたら即座にイベントを入れてきたのだった。池澤氏も北海道という海外にお住まいなので、このたび東京でお目にかかれるのはまったくの偶然。ふしぎなことって起こるんだなあ。詳細はこちら。チケットを購入すると、当日無理な方も1週間のアーカイヴ視聴ができます。

2021年2月12日金曜日

●金曜日の川柳〔島村美津子〕樋口由紀子



樋口由紀子






月がきれいで戦争を思い出す

島村美津子 (しまむら・みつこ) 1930~

今夜はニュームーンであるらしい。中年の頃までは月にそれほどの関心がなかったのに、近ごろは月を見るために庭に出ることが多くなった。「で」は理由、原因を示す助詞である。月がきれいに見えたなら、今の幸せ、平穏で、平和の方を思ってしまう。しかし、作者は戦争を思い出す。戦争を深刻さに言わずにじわりと思い出させる。地上は悲惨極まりなかったけれど、戦時中も今夜のようにきれいな月だったのだろう。

戦争をくぐり抜け、自分は今こうして生きていて、月を愛でることができる。そのしあわせに感謝しつつも、戦争で亡くなった人たちを偲んでいる。月は華やかではないが、きりりとしていて、憂いを帯びている。生きている限り戦争のことは忘れないという姿勢がうかがえる。『われもこう』(2020年刊)所収。

2021年2月10日水曜日

●西鶴ざんまい #2 浅沼璞

西鶴ざんまい #2

浅沼璞


日本道に山路つもれば千代の菊   西鶴

上五の読みについては「にほんじ」(乾裕幸)のほか「にほんみち」(前田金五郎・吉江久彌)、「にほんどう」(加藤定彦)など字余りの説もあるようです。


句意に関しては定本全集(中公版)に「日本の里程に山道を計算すれば」と中七までを解説してあります。「日本の里程」とは唐土(もろこし)の里程との比較で、六町一里の中国に対し、日本は三十六町一里。
 
つもれば(計算すれば)同じ里数でも六倍の距離になることが当時知られていたようです。

で「六倍の距離」の連想から、千代に栄えるシンボルとしての菊が下五で取り合わされているわけです。空間的な長さから時間的長さに転じた付合技法といっていいでしょう。
 
絵巻の自註には、菊酒を呑んで七百年生きのびたという「唐土の菊童子」や、やはり中国から伝わった「重陽」のことが記されており、西鶴が下五に託した思いがうかがえます。


とはいえ、句意がとりづらいのは否めませんね。そこで、七七を足し、短歌形式で詠みかえてみました。歌としての可否はともかく、あるていどの意味内容は表現できないものかと。

日本式に唐土の道計りなば千代に八千代にほめく菊酒      璞

結句を「ほめく菊酒」としたについては、ちょっと説明が必要かもしれません。

じつは作句年未詳ながら、次のような発句があるのです。
菊ざけに薄綿入のほめきかな      西鶴
『発句題林集』(寛政六・1794年)
重陽の節句(陰暦九月九日)には、菊花を浮かべた菊酒を酌むだけでなく、その日から綿入の小袖を着る風習もあったようで、そんなダブル効果で体がほめき(火照り)をおぼえるというのも道理。「ほめくわい、ほめくわい」という西鶴の声が聞こえてきそうです。


冒頭発句の脇に関しては、またまた先送りします。

2021年2月8日月曜日

●月曜日の一句〔國清辰也〕相子智恵



相子智恵







白鳥に帰心促す白鳥来  國清辰也

句集『1/fゆらぎ』(2020.8 ふらんす堂)所載

秋から冬にかけて日本に飛来し、越冬していた白鳥が、春になって北方へ帰ってゆく。白鳥同士は連れだってⅤ字飛行をして帰るのだが、そういえば連れだって帰るタイミングはどのように決めているのだろうか。掲句を読んで、おそらく〈帰心促す白鳥〉が来て、鳴いて仲間を誘いながら、帰っていくのだろうと思った。

鳥の言葉が分からない人間にとっては、実際にはそれが〈帰心促す〉鳴き声なのかどうかはわからないのだが、「さあ、故郷に帰ろう」と、切なくも強い決意のようなものが声の中に感じられたのかもしれない。声を掛けられた側の白鳥も、のほほんと餌を食べていたのだろうが、その声でハッと促されたのだろう。

〈帰心促す〉の主観が、写生に大きな踏み込みを与え、掲句を詩情豊かなものにしている。

2021年2月5日金曜日

●金曜日の川柳〔須藤しんのすけ〕樋口由紀子



樋口由紀子






コンビニへ愛と勇気を買いに行く

須藤しんのすけ

「愛と勇気」だなんて、なんと大げさでベタな言葉かと一瞬後退りしたが、生きていくためには必要不可欠なものである。いい格好なんかしていられない。売っているのなら今すぐにでも買いに行きたい。

陳列されている品々にほっこりして、元気づけられる。安価な甘いスイーツ、弁当には半額シールが貼られている。「愛と勇気」の甘酸っぱさと嘘っぽさが並んでいて、「コンビニ」でしか得られないものが確かにある。高級洋菓子店や三ツ星レストランでは川柳になりにくい。

私の若い頃にはコンビニはなかった。「愛と勇気」はどこで調達していたのだろうか。村の駄菓子屋か、百貨店の大食堂だったかな。その時代時代に無理やりにでも見つけ出して、日々を遣り過す。「愛と勇気」をダサいと思って、おろそかにしていたら、だんだんとこの世から姿を消して、きっと取り返しつかなくなってしまう。「おかじょうき」(2020年刊)収録。

2021年2月1日月曜日

●月曜日の一句〔森田智子〕相子智恵



相子智恵







ぜんざいを食べて優しい鬼になる   森田智子

句集『今景』(2020.9 邑書林)所載

今年の節分は明日、2月2日で、これは124年ぶりのことなのだそうだ。

掲句、節分の鬼役をする人だろう。赤色は魔除けになり、福をもたらす陽光の色であることから、関西などでは節分に小豆を使った食べ物を食べる地域も多く、〈ぜんざい〉も厄除けに食べたりするようである。関東育ちの筆者には馴染みのない風習だが、コンビニで恵方巻が売られるようになって初めて関西の恵方巻を知ったし、こうした様々な地域の文化に触れるのは楽しいものだ。ちなみに筆者の故郷では、節分には「蟹柊」や「かに」と書いた紙を戸口に貼る。これも限られた地域の魔除けの風習であろう。

〈優しい鬼になる〉がいい。豆まきが終わって〈ぜんざい〉を食べたのだろうか。豆に打たれる鬼役は恐ろしくあらねばならないが、甘いぜんざいを食べてほっと一息、笑顔に戻ったという場面なのかもしれない。

また〈優しい鬼になる〉は、そのまま読めば本物の鬼のことだとももちろん読めるわけで、そこがまた面白い。ぜんざいを食べて優しい鬼になるのなら、鬼退治もたいそう楽しいのである。