2022年6月29日水曜日

◆週俳はいつも記事募集

週俳はいつも記事募集


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2022年6月27日月曜日

●月曜日の一句〔小川楓子〕相子智恵



相子智恵







かるく相づちプール帰りの愛玉子  小川楓子

句集『ことり』(2022.5 港の人)所収

〈愛玉子〉は「オーギョーチ」。台湾北部に自生するイチジク科の植物で、果実からゼリーのようなデザートができる。台湾のスイーツだ。

プール帰り独特のふわふわと疲れた体を、台湾のスイーツを出すカフェで休ませているのだろう。〈相づち〉だから二人あるいは数人で食べている。〈かるく相づち〉のアンニュイな感じ、そして愛玉子のゼリーの透明感が、プール帰りのまったりした浮遊感のある疲れに響いている。

小川楓子氏の第一句集『ことり』は音韻やオノマトペの身体性など、語りたい魅力がたくさんある句集だ。句材としてはこのような食べ物が多く描かれていることも、ひとつのトーンをつくっていると言っていいだろう。

眠たげなこゑに生まれて鱈スープ

朝寒のエッグタルトを割る真剣

にんじんサラダわたし奥様ぢやないぞ

寒いなあコロッケパンのキャベツの力

朝暁のおかへりホールトマトの缶

霜のこゑときどきチーズのこゑもするとか

鯛焼や雨の端から晴れてゆく

〈鱈のスープ〉をすすりながら自分の声に思い至り、香港やマカオのスイーツ〈エッグタルト〉を割ることに真剣になる。〈にんじんサラダ〉はフレンチの「キャロット・ラペ」だろう。「奥様」と呼ばれていることから、デパ地下のお惣菜売り場ではないかと想像される。キャベツがシャキシャキの〈コロッケパン〉に、家に常備している〈ホールトマトの缶〉、〈チーズ〉〈鯛焼〉……カフェやテイクアウト、輸入食品も含めて、食べ物の句の中に日本の今の空気感がある。

そういえば、昨年刊行された小川楓子と同世代の佐藤智子『ぜんぶ残して湖へ』(左右社)にもこのような食べ物の句が多かった。そして世代が近い私も、この「家カフェ」的な気分には共感する。これらの食べ物は、気分は上がるけれど手が出ないほど高級ではなく、日常の範疇を越えない。これらを「日常の中の小さな幸せ」として味わうのは楽しい。

テレビではグルメリポート番組があふれているし(しかも食べ歩きやカフェ、ラーメンなど手の届くものが多い)それは小さな幸せを求める人々を容易にいざなう。しかし、それがひたひたと虚しくもあるのは、ロストジェネレーションの大きな疲弊の穴を、このような「日常の中の小さな幸せ」によって、小さな絆創膏でつなぎ止めながら生きているという思いが、自分の中のどこかにあるからなのかもしれない。

2022年6月24日金曜日

●金曜日の川柳〔小梶忠雄〕樋口由紀子



樋口由紀子






うれしそうでしたうれしくなってくる

小梶忠雄 (こかじ・ただお)

「うれし」をキャッチして、絶妙の間を作り、「うれし」を交差している。どちらも主語は異なり、省略されている。前者は他者で後者は作者だろう。「うれしそうでした」とその様子を見て、あるいは、「うれしそうでした」と伝え聞いて、自分の気持ちを「うれしくなってくる」と素直に書いている。

「うれしそうでした」「うれしくなってくる」、たったこれだけの語彙で人の心の機微を拡大し、ほのぼのとした心情を浸透させていく。川柳が得意とする穿ちや皮肉などはここには一切ない。「川柳びわこ」(2022年刊)収録。

2022年6月22日水曜日

西鶴ざんまい 番外篇7 浅沼璞


西鶴ざんまい 番外篇7
 
浅沼璞
 

先ごろ神奈川県立金沢文庫の特別展「兼好法師と徒然草――いま解き明かす兼好法師の実像」を観てきました。
 
 
 
中世の隠者である兼好と近世の俳諧師西鶴――リンクしづらい感は否めないのですが、実は西鶴は『徒然草』の愛読者で、さまざまな引用を自作で試みています。

当然それは西鶴の生き方にも影響していたようで、先師・廣末保氏は〈西鶴については、兼好のなかに萌芽的にみられる市井の隠者の、町人的な展開を予想することができる〉としています(『芭蕉と西鶴』1963年)。
 
 
 
その兼好については、鎌倉時代後期に京都・吉田神社の神職である卜部家に生まれ、朝廷に仕えた後、出家して『徒然草』を著した、というのが通説です。
 
ところがこの出自や経歴は、兼好没後に捏造されたものであることが、小川剛生氏の『兼好法師――徒然草に記されなかった真実』(中公新書、2017年)により明らかとなりました。

本展でも国宝 称名寺聖教・金沢文庫文書を繙いて、若き兼好が金沢北条氏に仕え、朝廷と鎌倉を行き来していたことなど、知られざる実像を解明しています。
 
 
 
一方で本展では、「吉田兼好」と通称されるようになった近世期の版本も多く展示。

わけても『徒然草』ブームを牽引した絵入りの注釈書は、西鶴も享受したと思われますが、皮肉なことにそれらを著したのは貞徳や季吟など、貞門俳諧のリーダーたちでした。
 
 
 
そういえば西鶴は、『世間胸算用』のルーツとなる代表句、
  大晦日定めなき世のさだめ哉
の前書に、〈よし田の法師が書出しも、今もつて同じ年のくれぞかし〉としたためています(「画賛新十二ヶ月」)。
 
これは『徒然草』十九段で描かれた大晦日の、人の門(かど)をたたく魂祭りの風習を、借金取りのアクションに見立てた(?)俳文です。
 
つまり『世間胸算用』のルーツのルーツとして『徒然草』は捉えられるわけですが、更にここで改めて注視したいのは〈よし田の法師〉という呼称です。
 
通説に従って「吉田兼好」と教科書で習った私たち同様に、西鶴もまた〈よし田の法師〉と手習いで学んだのでしょう。

(最近の中高の教科書では、小川説の影響か「兼好法師」で統一されているようです。)
 
 
 
会期は7月24日(日)まで。

大晦日はまだまだ先ですが、門をたたいてみては如何でしょうか。
 

2022年6月20日月曜日

●月曜日の一句〔中原道夫〕相子智恵



相子智恵







手花火を了へたる膝のほきと鳴る  中原道夫

句集『橋』(2022.4 書肆アルス)所収

手花火を終えて立ち上がったら、膝が〈ほき〉と鳴った。手花火にもいろいろな種類があって、勢いのある手花火は立ったまま手を遠くへ伸ばして行うから、膝を折ってする手花火といえば、やはり線香花火だろう。

牡丹、松葉、散り菊など、火のかたちが移り変わる線香花火。そのたびにシパッ、シパッと、かそけき音が鳴る。やがてジジジジ……といいながら球が落ちて花火が終わり、立ち上がる。その時に膝が〈ほき〉と鳴ったのだ。

まるで線香花火の続きのような〈ほき〉というやさしい音がいい。花火の終わりの寂しさと、膝が鳴るというおよそ詩的ではない卑俗さが、〈ほき〉の一語によってうまく溶け合い、上質な滑稽に仕立てられている。見事なオノマトペだと思った。

2022年6月17日金曜日

●金曜日の川柳〔平岡直子〕樋口由紀子



樋口由紀子






こおろぎを支配しすべて裏返す

平岡直子 (ひらおか・なおこ) 1984~

小学生の頃に昆虫採集という夏休みの宿題があった。昆虫を採集し、注射し、ピンで刺し、標本にする。そんなことが許さるのは、ここは人間の世であり、昆虫の世ではないからである。

こおろぎだけを裏返すのだろうか。それともすべてのものを裏返すのだろうか。「支配し」と「裏返す」の容赦ない論じ方が不穏だ。悪意が鮮やかで、言葉の置き方にためらいがない。世界の描き方は直球であり、かつ危険球で、曖昧に終わらせるつもりはない。回収されない思いが読み手に残こされる。一句全体が比喩なのだろうか。表と裏は一瞬にして変わる。立場はいつ逆転するかわからない。『Ladies and』(2022年・左右社)所収。

2022年6月13日月曜日

●月曜日の一句〔髙柳克弘〕相子智恵



相子智恵







忘るるなこの五月この肩車  髙柳克弘

句集『涼しき無』(2022.4 ふらんす堂)所収

一読で心を掴まれた句。上五の〈忘るるな〉の入りと、それに続くリフレインによって、内容の強さだけではなく、時代を超える口承性の強さをもっている。

肩車をされて無邪気にはしゃいでいる子に、この五月の輝きを、この肩車を忘れるなと、心の中で父は言う。口に出してはいないだろう。だって、本当は子どもがこの瞬間を忘れてしまうことくらい、十分に分かっているのだから。

親として子と暮らしていると、そんな瞬間は私にもやってくる。何気ないけれど、きっと忘れないだろうという瞬間はいくつもあって、しかしきっと子どもの方は忘れてしまうのだということも、同時に分かっているのだ。

掲句は、作中主体が自分自身に向かって〈忘るるな〉と心に刻んでいると読むこともできるが、心の中の呼びかけは、やはり子どもに向かっているものだと読みたい。そして肩車も父と子とは限らないが、やはり父と子として読みたいと思う。

詩人にとって五月は特別に美しい季節だ。この瞬間を忘れるであろう子の無邪気さは輝いていて、忘れないであろう父の願いとあきらめが同居した心の中のつぶやきは、〈鉛筆の遺書ならば忘れ易からむ 林田紀音夫〉の屈折にも似て、五月の美しい空の下で、きりきりと切ない。

2022年6月10日金曜日

●金曜日の川柳〔吉田健治〕樋口由紀子



樋口由紀子






終電の切符の裏に毛が生える

吉田健治 (よしだ・けんじ) 1939~

「心臓に毛が生える」を思い出す。「厚顔無恥、あつかましい」で普段は小心者でも、いざというときに大胆に度胸のある行動をするという意味がある。掲句は心臓ではなく、手に持っている切符に毛が生えてきた。しかし、その偉力はもうすぐ自分の心臓の方まで届くかもしれない。終電になったのは残業か飲み会か。疲労や後ろめたさを振り払うようにコミカルに変換させている。

それにしても切符の裏に毛が生えてくるのは気色悪いことである。予想もしない、意外なところまで言葉をずらしていく。車窓の外は漆黒の暗さ、何か起こるがわからない。何かが始まるのだろうか。『現代川柳の精鋭たち』(2000年刊 北宋社)所収。

2022年6月8日水曜日

西鶴ざんまい #28 浅沼璞


西鶴ざんまい #28
 
浅沼璞
 

 奥様国を夢の手まくら    打越(裏四句目)
夏の夜の月に琴引く鬼の沙汰  前句(裏五句目)
 宮古の絵馬きのふ見残す   付句(裏六句目)
『西鶴独吟百韻自註絵巻』(元禄五・1692年頃)
 
 
 
「三句の放れ」を吟味します。

一言でいえば、奥様の夢に現れた異物「琴引く鬼」を、都の絵馬(道化絵)に見立て替えての転じでしょう。

これを「眼差し」の観点からみると――奥様の異様な夢を描くホラー作家の「眼差し」から、それを京の絵馬に見立てるルポライターの「眼差し」への転換とでもいえばよいでしょうか。
 
 
 
さて今回の若殿(若之氏)からのメールは、前回ふり返った第三(難波の句)との比較論に言及したものでした。

〈なるほど、難波から京都へ。自註を踏まえると、趣向の違いが多角的にみえてきて面白いですね。「第三」の#5へのリンクと別に、「難波では」のところに、#6へのリンクも追加しておきます。自註への言及があるのはこちらでしたので。〉

「ざんまい#5へのリンクだけやのうて#6の追加、気の利いた編集やな」

はい、いつもいろいろと校合してもらってます。

「わての工房も団水はん要に若手がいろいろ編纂してくれとる」

あー、やっぱり「西鶴工房」説、本当だったんですね。

「そんなん言われとるんかい」

はい、出版のスピードと量、さまざまなジャンル、しかも凝った編集、で「西鶴工房」説が。

「当たっとるけど、これ以上は喋らんで。軽口は禍の門やからな」

えーっ、得意の軽口たたいて門あけて下さいよ。

「知らんがな。門いうたら貞門や。ヘタにたたいたらまた言い争いになるやろ」

……確かに。
 

2022年6月6日月曜日

●月曜日の一句〔森賀まり〕相子智恵



相子智恵







青蘆やふたりが遅れつつ五人  森賀まり

句集『しみづあたたかをふくむ』(2022.4 ふらんす堂)所収

『しみづあたたかをふくむ』の句集名は七十二候、1/10~1/14頃の「水泉動(しみずあたたかをふくむ)」。最も寒い季節に、それでも氷はほんの少しずつ融け出していて、春の水となって沁み出していく……という頃だ。まさに、句集全体から、寂しいけれども、仄明るいあたたかさが静かに滲み出していて、こちらの心に染みわたってくるようだった。

鑑賞したい句はたくさんあるのだが、今回は「人」を描いた作品に注目した。掲句は夏。人の背丈を越えるほどの青蘆の生えた水辺を、五人で歩いている。吟行かもしれない。話しながら、あるいは立ち止まったり黙り込んだりしながら、ゆるゆると歩く。二人は遅れつつあって、青蘆にかくれて見えないのだろう。しかし見えなくても、それはあくまで五人なのだ。この、見えなさ、遠さも是としつつ、ゆるやかにつながる感じが、氏の人との交わり(それは見知らぬ人も含めて)を描いた句には多くて、いいなあと思う。

私より急ぎゐる人若楓

鉾を解く人の行き来が空にあり

末枯れて足あたたかに人の家

月の友夫の話をしてくれし

宵山の人の重みの中に在り

川の子を呼べば上がりぬ烏瓜

氏が描く人の世界は、人同士の輪郭がくっきりしてはおらず、人も水のように、輪郭に波紋があるように私には感じられた。その波紋と波紋が、いつかどこかで触れ合ったりすれ違ったりして共鳴する。水輪の芯に近い親しい人との共鳴も、通りすがりの人との遠い共鳴もあって、水はつながっているのだけれど、水の芯は侵されない感じで、少し孤独もある。

寂しいけれどもあたたかい、そうした水のような交わりが、心地よくこちらの心に沁み込んでくる。

2022年6月4日土曜日

〔俳誌拝読〕『ねじまわし』第3号

〔俳誌拝読〕
『ねじまわし』第3号(2022年5月29日)


A5判・本文66頁。同人、生駒大祐、大塚凱の俳句作品。

花橘巌を錆の立ち昇り  生駒大祐

しりとりと逃水いくばくかの現金  大塚凱

依光陽子、阪西敦子をゲストに迎えての「企画 俳句30本ノックを作って解いてみた」は57頁の紙幅に、クイズ形式、作句などバラエティのある30課題を座談スタイルで展開。

問い合わせ 819neji@gmail.com


(西原天気・記)


2022年6月3日金曜日

●金曜日の川柳〔樋口由紀子〕西原天気



西原天気

※樋口由紀子さんオヤスミにつき代打。




一晩だけ預かっている大きな足  樋口由紀子

その夜だけは自宅に足があるのは不都合なのだろうか。足を預けた人のことが気になる。いつもはその人の身体の一部であるところの足なのか、身体とは別に足が単独で存在するのか。それも気になるが、預けてしまうのは不便だろうから、後者と解したものの、足だけを単独で持っている・所有するとは、いったいどんな事情なのか。

足と脚は、前者が足首よりも先、後者が太腿の付け根より先という区別はあるが、区別されないことも多い。義脚とは言わず義足と言うものね。この句の場合、「大きい」というのだから、脚とは区別される足。

で、その足。

預かったものの、私なら、ちょっと困惑すると思う。「大きな足」の存在感、強烈な存在感、身体部位という立場を超えて、なにか重大な決定権をもつかのような存在感を、どうしたものか。箱にでも入れて見えなくすると、扱い方として不当のような気がするし、撫でたり突っついたり嗅いだりは不適切のような気がする。卓袱台に置くのは抵抗があるので、椅子か座布団の上にひとまず落ち着いていただくことになると思うが、それでもやはり困惑は消えない。

いや、もう、人ひとり預かるほうがよほどラク。《大きな足》が、私の住む世界の巨大な〈異物〉として、私がふだんなんとなく寄りかかっている秩序を激しく揺さぶる。

《一晩だけ》とはいうが、この一晩はとても長い。

掲句は樋口由紀子句集『めるくまーる』(2018年11月/ふらんす堂)より。

2022年6月2日木曜日

〔俳誌拝読〕『アジール』創刊号

〔俳誌拝読〕
『アジール Asyl』創刊号(2022年4月)


A5判・本文28頁。同人諸氏の俳句作品および散文3本を掲載。

流氷の離岸パスタの湯が滾る  五十嵐秀彦

名盤のしはぶき昼の星めいて  土井探花

体内にふはあつと落葉朝湿り  近藤由香子

童貞聖マリア無原罪の御孕りの祝日の豆鉄砲  彼方ひらく

遮断機のこつちが虚構卒業す  村上海斗

啓蟄や出処不明の螺子ひとつ  安藤由紀

仮初のなれそめ蜜柑だけが甘い  田島ハル

試弾する目白ギタルラ社に時雨  青山酔鳴

下駄箱に春泥黙祷の時間  F よしと

(西原天気・記)