2011年2月28日月曜日

●懐かしの表紙写真館 第122号

懐かしの表紙写真館 第122号


数字を合わせたベタ。この1-22号棟は東京・国立市の富士見台団地。この壁の肌理、数字の質感は、ダンチスト(団地愛好家)の心の機微に触れるものと確信するのですが、どうでしょう。



2011年2月27日日曜日

●日曜堂レコード店

日曜堂レコード店

本誌「週刊俳句」創刊直後に用意していた記事。アップロード(掲載)を先送りにしているうち、どこかに消えたと思っていたのですが、ハードディスクの隅からひょっこり出てきました。

なぜいつまでも先送りにしていたのかといえば、こんなふざけた記事(しかも俳句と関係がない)を載せていいものかどうか逡巡していたのです。当時はウラハイもなかったですから。けれども、今は違います。「なんでもアリ」にすっかり慣れてしまいましたし、このウラハイもありますから。(西原天気)




客:ガラガラ(戸を開ける音)。こんちはー。

主:いらっしゃい。

客:なんかおもしろいレコード、あります?

主:これなんか、どう?

客:レ・プレイヤーズ?

主:はい。フランスのインスト・バンド。

客:聞いたことないです。

主:1965年前半頃のシングル盤。

客:ジャケット、すごいですね。

主:バックにエッフェル塔。みんな、にっこり笑ってますねー。

客:蝶ネクタイ&パーティスーツ……。

主:痛々しいでしょ?

客:はい。そうとう。で、音は? エッフェル塔でナッシュビル、というあたり、かなり不安なんですけど?

主:曲はたしかにウエスタン。それも北欧あたりのバンドが演奏したっぽいマカロニ・ウエスタン調。

客:ううっ、ややこしいですね。

主:音を聞くより、まずライナーノート(解説)。一部抜粋。
「64年の夏は、エレキ・ギターを中心としたサーフィンが非常に流行しましたね。烈しいドラムのリズムにのって若さのはちきれそうなギターの音があちこちで聞かれました」
客:若さのはちきれそうなギターの音があちこちで?w 1964年って、愉快な時代だったんですね。

主:そらもう、そこらじゅうで、はちきれてたわけ。

客:はあ。

主:個人的には「非常に流行しましたね」の「非常に」がツボなんだけど。

客:たしかに。この「非常に」は、かなり来てます。

主:さてと、中略で、続けますね。
「レ・プレイヤーズもこの種の楽団のひとつですけれども、アメリカ系のそれと違ってかなりソフトですね、やはりコンチネンタル調といいますか、どことなくおとなしい感じです」
客:口調にコクがありますねえ、この解説文。「ですけれども」。「といいますか」。

主:でしょう? で、また中略で。
「USの奴らに負けてなるものかと、張り切って演奏しています」
客:……「奴ら」ですか。

主:そらもう、フランス人だから。

客:すごく聞きたくなってきた。

主:でしょ? でも、その前に、メンバーのプロフィールを読まなきゃ。これもジャケット裏にあります。
●クリスチャン・マルタン(ギター)
10才の時からクラシックギターをみっちり習う。幼い時にマリア修道士会に入っていた事がある。スポーツが大得意。少しずんぐりした体格の持主。いつも微笑みをうかべている。あだ名は「百姓」。
客:……。「百姓」って……。

主:ずんぐり、というから、右端がクリスチャンかなあ。

客:はい、まあ、そうですかねえ。そんなことより、どうしたら、こんなプロフィールが出来上がるんですか?

主:私に言われも困る。次はミシェル、ね。
●ミシェル・リブレッティ(セカンド・ギター)
6才の時からヴァイオリンを習い、数々のコンクールで入賞。水泳のジュニアチャンピオン。今でも毎木曜日はプールに行く。パリの下町育ちのせいで、4人の中でも一番下町っ子らしく茶目で、あだ名を「ヤクザ」という。髪はブロンド、イタリアの血統。
客:さっきが「百姓」で、こんどは「ヤクザ」ですか?

主:ねえ。もっと違うあだ名の付け方があるだろうに。ブロンドだから、左から二番目かな?

客:いや、そんなことより、「毎木曜日」って……。

主:細かいよね、妙に。ふつう、「今でもよくプールに行く」くらいにしておくもんだが、……。次はジャン・エルヴェ。
●ジャン・エルヴェ・ロウ(ピアノ)
芸術一家に生まれた為、6才よりピアノを本格的に習い、和声学、対位法も学ぶ。やせていて、濃い褐色。非常にオシャレで、ネクタイ、靴下など、細かいところまで神経が行き届いているほう。
客:「行き届いているほう」の「ほう」って!

主:ね、そこ、ツボでしょ?

客:濃い褐色は、髪のことですか。ヘンな省略。

主:次はジャン・ピエール。
●ジャン・ピエール・プレヴォク(ドラム)
イギリスのベードン・パウエル百年祭ボーイスカウト・ジャンボリーに参加、太鼓の伎倆を認められる。バスケットのチャンピオン。商家に生まれた為、はじめは宣伝マンとしての道を歩む。背が高く、髪はブロンド、金ブチの目鏡。
客:ボーイスカウト・ジャンボリー? 太鼓の伎倆?

主:まあ、そういうふうに部品を挙げると、キリがなくらいに、興味深い。

客:ま、そうです。全篇、すごすぎる。

主:じゃあ、聴いてみますか? A面からでいい?

客:いや、またこんどにします。頭がぐるぐるしてきた。

主:あ、そお?

客:では、また!


主人:井口吾郎 客:西原天気

2011年2月26日土曜日

●懐かしの表紙写真館 第79号

懐かしの表紙写真館 第79号



週刊俳句が表紙に大きな写真を配するようになったのは第75号から。意外に後になってからです。

第79号のこの写真は、沖縄の美ら海水族館。いやあ、ジンベイザメというのは、すごいです。いつまで見ていても飽きないほど、すごかったです。

なお、ここに使っている写真は、フリー素材、不肖私の撮影した写真、また知り合いの写真家の写真(ご好意です)、また猫髭さんの写真も何度か使わせていただきました。広く募集してもおもしろいかもしれませんね。

2011年2月25日金曜日

〔link〕週刊俳句200号記念・関連

〔link〕週刊俳句200号記念・関連


週刊俳句200号:無門日記
週刊俳句200号(続):同

週刊俳句世代:Rocket Garden~露結の庭
ウラ:同

「俳句四季」2011年3月号:閑中俳句日記(別館)-関悦史

200号を迎えた:俳句的日常

2011年2月24日木曜日

●週刊俳句200号記念座談

週刊俳句200号記念座談
上田信治×西原天気
いまだから話す創刊の頃のこと

今晩、2月24日22時頃から、この記事のコメント欄で、
上田信治・西原天気の座談やります。

それまでにお聞きになりたいことがあれば、質問として書き込んでください。
ご感想・ご感想、また雑談、ネタ振り等も、お気軽に、ご自由に。

なお、座談が始まってからも、自由に割り込んでいただいて結構です。
(まったく関係のない話wはいちおう、ご遠慮願います)
(ブログサービスが自動的にスパム扱いにしてしまい、表示が遅くなるケースがあります。お含み置きください)
(話題を拾う・拾わない、レスする・しないは、時間やタイミングの関係上、任意になってしまうこと、ご承知置きください)

【観覧・参加の指針】
この記事の固定リンクを表示これです)しておいて、ときどきブラウザーの更新ボタンを押すか、F5キーを押すと、最新のコメントが読めます。

コメントの書き込み方

2011年2月23日水曜日

●200号記念句会録〔2〕

200号記念句会録〔2〕

2011年2月19日(土) 於:渋谷・勤労福祉会館
テーマ「充ちているもの・空っぽなもの」+席題「代」「理」「出」「産」「春休み」

空棺が届けられきさらぎ晴 奈菜

口まるうして金柑を齧りけり 敬雄

天泣に廃墟は奏で止まざるを 夜想 

春の雪飲むと無くなるお酒かな はるみ

金属の手すりの曲がる春休み 飛び地 

世田谷の代打の代打春疾風 一雄

チョコの代りに陽炎を見せてあげる しん

手に硬貨なじみやすしよ春のくれ 友亮

青信号点滅うららかなる尿意 彩乃

春の土ではどの穴もうまらない るか 

鷽替やまぼろしの手の大きこと 楓子

匂ひ立つ雨水の夜やミスうどん 葉月

駅長さん杉菜採つてもいいですか 清子

地球儀の中は空っぽ涅槃西風 有希

ストローのうつろゆく水春浅し 宇志

産業やコンテナの背に雪が降り 敦

産卵期九紫火星の女にも 天気

自動車を後ろから見る彼岸寒 信治


※掲載を応諾いいただいた分のみ掲載。

2011年2月22日火曜日

●200号記念句会録〔1〕

200号記念句会録〔1〕

2011年2月20日(日) 於:根岸・西念寺
兼題「台」「東」「根」「岸」+席題「寺」「本」「百」「時計」


梅の香や寺の隣りも寺である  らくだ

毛の生えた根つこ並べて雛の市  烏鷺坊

天井ひろし雛の日の西念寺  佳世乃

東北の濁音として雪解川  苑を

夕東風や煮詰めしもののみな静か  猛博

熱き茶の置かれ根岸の蜜柑寺  憲武

三山を百曲がりして春一番  未翔

鳩時計鳴き春障子ふくらます  恵

牛小屋の時計は春の闇の中  る理

服部時計店みぞれはぼたん雪となり  裕

霊園に来て東京の霞かな  狂流

東門を入り都に抱卵期  一雄

腹時計鳴りっぱなしの家族です  かまちん

本尊より住職がにぎやかで雪  優夢

対岸に倉庫の並ぶ春の暮  篠

梅が香や用具置場の屋根に人  信治

春の雲台車にアシカのせてゆく  天気


※掲載を応諾いいただいた分のみ掲載。

2011年2月21日月曜日

●懐かしの画像

懐かしの画像
画像をクリックするとおおきくなります

この頃は、トップに写真もなく、記事の数も、いまと比べると少ない。ぱっと見、シンプルですね。

2011年2月20日日曜日

●200号記念誌上句会 投句一覧

200号記念誌上句会 投句一覧

たくさんの皆様に御参加いただきました。誠にありがとうございます。


以下に【選句要綱】および【投句一覧】を掲載させていただきます。

【選句要綱】

10句選でお願いいたします。

■選と選評はメールにて。篠 shino.murata@gmail.com まで。
※ワープロソフト文書等の添付ではなく、メール書面で結構です。

■期限:2011年227日(日)18:00

■誠に恐れ入りますが、選とコメントは統一書式(以下説明)にて頂戴いたしたく存じます。

〔選とコメントの書式〕

×××××××××××  ※選んだ句をコピペ
○俳号       「まる」+俳号
■……………………(俳号) 「しかく」+短評・コメント。俳号を( )で

選外の句へのコメントは不要です。
※披講(来週予定)の際、当該記事のコメント欄に、選外句へのコメントを含め、ご自由にどうぞ。

文頭のアキやインデントはとらず、改行+ベタ打ちでお願い申し上げます。
選に付していただいた俳号を、作者発表の際の御署名といたします。


【投句一覧】 47名様御参加

【万】

あたたかや糸ひつぱれば万国旗
うぐひすや万年床をせりだして
さえかえるお万の方のかくすメス
ジョン万次郎春風に鼻膨らませ
なだ万の皿の立派に蕗のたう
パチンコの玉一万個花の雲
バレンタインデー万力をゆるく締め
ポッペン吹く岬に万の頭蓋骨
雨に煙る八百万神春競馬
花粉症対策万全いざ出勤
岩山を削りし氷河幾万年
亀鳴くや万年床を畳めよと
恨めしや万病抱ふ老いの春
春ショール久保田万寿を二合ほど
春の山万歳三唱してゐたり
春愁の持ち重りせし万華鏡
春の宵万国旗など見せませう
春の星封じ込めたる万華鏡
春の風とは万国旗かもしれぬ
春は曙お万の方の不妊症
春愁の踊つてゐたる万華鏡
春愁や万年暦に焉(をは)りなく
春立つや万に一つの違ひなく
八百万の神々笑ひさざめき春
保険屋が万一売りに来て四月
万(よろず)の目 貼り付き睨む 裏まぶた
万の蓮眠る関さん革命見る
万屋が焚き火のごとくなくなりぬ
万力を締め上げてゆく春の月
万屋の真ん中に立つ午祭
万華鏡巡りて同じ黄沙降る
万歳に腕は裸となりました
万屋の店番になる風信子
万歳は傘と箒や雪だるま
万力に締めらるる棒冴返る
万障を繰り合はせたる朝寝かな
万太郎の文字ころころと草団子
万端の端から落ちる薮椿
万灯をもつて春夜の婿迎へ
万物が水であるなら春の水
万力に挟まれてゐる春愁
万札を八つ折りにして蜆汁
万力を締めたり鳥は雲に入る
恋猫の声や萬屋錦之介
露しとど万量生産・万両消費日の翌朝
朧月亀屋万年堂に入る
涅槃会のインクの漏るる万年筆

【有】

くず餅で有名な店のわらび餅
これよりは有刺鉄線鳥帰る
たましひの有無をいはさず鳥帰る
ダリア植ゑて有無を言はせぬをとこかな
バレンタイン有袋類のふりをする
ふきのたう有刺鉄線のある午後
ぶらんこの有りしところの空いてをり
海市いま見えますと有線のこゑ
絵踏みせし足裏に有り慈顔かな
亀有をくすぐつてゐる春の風
空有の貼紙剥がれゆく東風よ
啓蟄や有平糖の大人買い
江の島弁財天恋猫の有無
国有地より恋猫として現るる
桜湯や有袋類を裏返す
子狐と仙人花菜漬有〼
春の雲有蓋貨車の屋根に人
春昼の有袋類の袋かな
春昼や有閑マダムは蝶の面
雪間より有害図書の見えてをり
地中海よそ事の青さに屈有折
百千鳥有刺鉄線にて隔つ
野遊びや有袋類の全盛期
有りたるも無きに同じや春炬燵
有り体に言へば墓場のクロッカス
有り体に言わずにおれぬ磯巾着
有り体に包み隠さぬ枯木かな
有る者は 「無い」打ち消して 在ると知る
有楽町出社時間後四温晴
有機燐の人体離るる春の川
有限会社殺し屋殺す焼野
有刺鉄線すり抜け春の雀ども
有刺鉄線春が暴発する危険
有資格者といふ蝶も紛れ飛ぶ
有事とは起こさぬものよ春の風邪
有人飛行魚氷に上るごときかな
有線にユーミンの曲鳥雲に
有線の迷ひ人らし残る鴨
有線放送ボートレースが波紋呼ぶ
有田哲平枝に棘ある木瓜の花
有難い話じゃないか猫の恋
有明の春月なれど五十肩
有耶無耶にしてしまひたり雛あられ
有理数指折り数へ入学す
朧から有人ロケット天の舟
霾や有事なくても滅ぶ国
芹の水ひたして有卦のたなごころ

【引】

いつせいに椅子の引かるる桜かな
ガラス戸引いて湯気に人体与へけり
トンネルに牽引車入る春の雪
のどけしや索引何度読み返す
みつみつと索引つづく庭朧
闇を引く牡丹焚火の焔かな
引きこもりよろしくもぐる春炬燵
引き回され二月礼者の一日かな
引き金を引く指で引け寒の紅
引き際のわからぬままに踏絵かな
引き際を心得てをり咳ふたつ
引き算の宿題する子日の永し
引き時を知らぬ老兵亀の鳴く
引くときに音するドアや朧月
引く際のルルと波紋や鴨の池
引越のあとの畳と紙ふうせん
引金に三寒きたるひきにけり
引出しに浅蜊酒蒸国境線
引責のボスの項につちふれり
引鶴の業より発ちて業に降る
心臓と脳の引き合う二月かな
栄螺より闇を引つぱり出してゐる
鉛筆の線引いてゐる枯野かな
鴨引くや病原菌を撒き散らし
花祭たまご焼くとき油引く
空にある遠くの凧を引つぱりぬ
啓蟄や引導渡す口上は
綱引きて日の丸揚ぐる紀元節
黄梅やたくさんの犬に引かれ行く
綱引の綱のとぐろや龍天に
索引の一冊薄き二月かな
索引の文字の細かき余寒かな
春の蚊や引き戸がたつくラーメン屋
春一番彼女ら数人は引火する
春昼のジヤリジヤリジヤリと引きこもる
人格引き終えて拍手のお気軽
大根引く嶋引く神のごとく引く
淡雪の引き際早し障子引く
鳥引くや臍の緒のまだ濡れてをる
鶴引くや風と会話を交はしては
二ン月の紐引つぱれば灯りけり
日月の 引き合う余波に 岩崩る
梅の蘂だらりロナウド引退す
白鳥も二葉百合子も引きにけり
比良八荒引田天功の不思議
恋猫の月に引かれて猛りあふ
籤引や外れは紙風船とメンコ

【力】

あは雪や針葉樹より湧く磁力
けふ春の雪にいくばくかの浮力
しんきろう表面張力しんきろく
タンポポの力はいつも真下向く
つくしんぼ力むてふこと赤子にも
たんぽぽの絮を力の限り吸ふ
まつしろな力うどんのひかる春
やどかりの引つ込む力並でなし
愛の日や力(ちから)ボタンのごとき君
渦巻力持てなお止まぬ寄居虫の死
永き日や変なところに力瘤
岡持は力まずに持てはだら雪
看板に力王たびや枝垂梅
亀の頸断つにまつすぐ力ませて
魚は氷に力うどんに揚げし餅
金縷梅の風の力のぬけがらに
啓蟄や怪力少年頬赤く
拳闘家力石徹冴返る
光みな力となりぬ雪解川
菜の花の力みて蝶となる夜明け
詩は古く無駄力なす雪解川
手の甲に力む血管目貼剥ぐ
春の風春の風力計になる
春一番かな入力に切り替へる
春雪や上野へいそぐ人力車
春日影なにに喩へん力瘤
寝返りを打つにも力春炬燵
新入社員へんな力の入り方
蒼天の石榴を割るる力あり
大臣の力説虚し桃の花
脱力のポーズのままに冴え返る
胆力といふもの持たず草の餅
踏青や女は見せぬ力瘤
俳人の膂力を隠す春ショール
白魚を啜るや臍に力入れ
白梅の咲きしも今朝の力みかな
味噌豆を煮る一連の力足
目力でオリオンの膝伸ばしけり
力むなら力んでみせろいぬふぐり
力学や官女雌雛の日の暮るる
力山ヲ抜けど雛罌粟揺るるのみ
力石七つ並びて黄水仙
力無く 言葉の喉に 流れ落ち
力瘤見せて遠退くうかれ猫
恋の花影知らずコントラバスの軋み力
恍惚の眉間に力春の雪
朧夜の圧力鍋の微動かな

【雑詠】

いかに非日常自動接着剤
さへづりの端に石ころ跳ねにけり
だくおんだらけハーモニカはすっぱくとおく
ぶらんこの少女をダウンロードする
栄光と屈辱バレンタインデー
海風に雛酒の酔ひ醒ましけり
亀鳴くやハッブル宇宙望遠鏡
堅雪のあかるきところふみにけり
公園の時計は正午春ショール
降る雪たんもう背表紙の無い世界
佐保姫のリア友いない引籠り
指先に紅梅触るる肉の味
春の灯や優しさ世代てふ言葉
春の日に転がすトローチのさらら
春嵐なにもなくなりさばさばす
春を待つ木々の中なる給水塔
初花や蕊も花弁も真白なる
女性器の笑つてゐたる春灯
女性用シェイバー春の琺瑯に落つ
傷口の一針ごとに木の芽植う
新豚骨醤油拉麺の踏絵
人体は付根が多し春もよい
水温む頭の芯にある不安
石鹸玉吹く二百人いやもつと
戦争の知らない子らや土筆んぼ
卒園の子が覗き込む兎小屋
太陽光パネル働く涅槃西風
大蒜の串焼き追加夜の逢瀬
淡雪でつくるだるまのやうなもの
点滴の管ゆるやかに雪解かな
田螺田螺と二〇〇ぺん言うてみよ
桃の花添へてプレートランチかな
二百から那由他不可思議風光る
薄氷や終の栖という悪夢
父子草父とはならぬ子がひとり
風花の競馬中継無音なる
棒鱈やたんと喰ひたる成れの果て
木の上に登りたさうな春の鴨
夜の河口の寄せあふ舷の雪と雪
葉牡丹やらくがき帖に地獄など
立ち上がる 児子の額に 痣三つ
恋猫のスパムメールとともに来て
老いし身の命を取れや春の風邪
嗚呼飲むぞ名残の雪があがるまで
蘖や占ひ信じ北に行く
縷々と春他人のやうな右の耳
鮟鱇の万有引力なすがまま

以上

●投句、締め切りました

誌上句会の投句を締め切りました

多数の御参加、ありがとうございます。
2月19日24:00をもって投句を締め切らせていただきました。

投句一覧+選句要綱が、当「ウラハイ」にアップされるまで、
しばらくお待ちください。

2011年2月18日金曜日

●SSTをもっと知るためのリンク集〔3〕

SSTをもっと知るためのリンク集〔3〕
週刊俳句で読むSST

鴇田智哉

「てがかり」10  →読む  第 11 号 2007年7月8日

「ゑのぐの指」10句  →読む  第28号 2007年11月4日

俳句とは何だろう 俳句における時間 〔12回連載〕

人参 10句 ≫読む  第87号 2008年12月21日

霞をたどる  ≫読む  第100号2009年3月22日


榮猿丸

サバービア俳句について〔1〕 榮 猿丸×上田信治 →読む  第 20 号 2007年9月9日

サバービア俳句について〔2〕 榮 猿丸×上田信治 →読む  第 22 号 2007年9月23日

ことばによる、ことばの俳句 →読む  第 25 号 2007年10月14日

サバービアの風景 〔前篇〕
 榮猿丸 × 上田信治 × さいばら天気 →読む  第60号2008年6月15日

サバービアの風景 〔後篇〕
 榮猿丸 × 上田信治 × さいばら天気 →読む
  第61号 2008年6月22日

何処まで行く 10句 ≫読む  第86号 2008年12月14日

落選展の意図がわかりません ≫読む  第102号 2009年4月5日


関悦史

前田英樹氏講演「芸術記号としての俳句の言葉」を再読する →読む  第 24 号2007年10月7日

皮膜10句 →読む  第71号 2008年8月31日

60億本の回転する曲がった棒 10句 ≫読む  第95号 2009年2月15日

〔阿部完市の一句〕うすみどりの手足の大工の名 言え ≫読む  第98号 2009年3月8日

〔週俳4月の俳句を読む〕徴候的一句 ≫読む  第106号 2009年5月3日

九堂夜想の一句 巨匠との奇妙な問答 ≫読む  第140号2009年12月27日

白雲10句 ≫読む  第141号 2010年1月3日

《悠久》の介入と惑乱 田中裕明「夜の形式」について私がツイッターでつぶやいたこと ≫読む   第148号  2010年2月21日

「電池を交 換してください」とICレコーダーは言った 中村安伸、神野紗希、関悦史、山口優夢、外山一機、九堂夜想、越智友亮 文: 関悦史 ≫読む  第152号 2010年3月21日

冨田拓也の一句 この世への不時着のために ≫読む  第153号 2010年3月28日

いわゆる難解俳句から季語の母性を経てアーキテクチャへ、それで結局『新撰21』は何が“新”しかったのかについて ≫読む  第173号2010年8月15日

【追悼・森澄雄 一句鑑賞】一人であって一人ではない  ≫読む  第175号2010年8月29日

「注目の若手俳人10句競詠」鑑賞  『俳句界』2010年9月号を読む 読む  第175号2010年8月29日

子規の「写生」と兜太の「造型」の相同性についてツァラとレーニンに訊く  ≫読む  第176号2010年9月5日

安井浩司の新句集「空なる芭蕉」が出た。  ≫読む  第179号2010年9月26日

問、AとB、2句のうちから優れていると思うものを選び、その理由を述べよ(制限時間・一生、∞点満点)」 ≫読む  第182号 2010年10月17日

〔落選展2010〕ゴルディアスの結び目 50句 ≫読む  第184号 2010年10月31日

八田木枯の最新句集『鏡騒』はこの世の縁(へり)から「デロリ」を現す。 ≫読む  第185号 2010年11月7日

古舘曹人 「夏草」の幕引き役を務めた「没蹤跡」の人 ≫読む  第189号 2010年12月5日

ローストチキンも踊るピーター・ガブリエル「スレッジハンマー」 ≫読む  第192号 2010年12月26日


鴇田智哉+榮猿丸+関悦史

僕と鴇田さんがじゃんけんして勝負がなかなか決まらず最終 的に僕が勝った市ヶ谷 「ゼロの会」句会録 鴇田智哉、関悦史、榮猿丸、中村安伸、相子智恵、神野 紗希、外山一機、越智友亮 ……文:越智友亮  ≫読む  第149号  2010年2月28日


2011年2月17日木曜日

●引用の置きもの ジャン・ボードリヤール+榮猿丸

注意!ゆめゆめ真に受けてはいけません
引用の置きもの ジャン・ボードリヤール+榮猿丸

constellation:
texts by Jean Baudrillard and Sarumaru Sakae



「環境」とか「雰囲気」とかいう概念がこれほど流行するようになったのは、実をいえばわれわれが他人の近くに生きるよりもむじろ従順で眩惑的なモノの無言の視線のもとで生きるようになってからである。〔ボードリヤール・後掲書p11〕

  箱振ればシリアル出づる寒さかな

市場、商店街、スーパーは異常なほど豊かな、再発見された自然を装う。それらは乳と蜜のかわりに、ケチャップとプラスティックの上をネオンの光が流れる現代のカナンの谷である。〔同p13〕

  胡麻振るやハンバーガーのパンの上

新しい文化とは、上等な食料品と画廊、「プレイボーイ」誌と『古生物学概論』との間にもはや何の違いもないような文化のことである。ドラッグストアは「灰色の物質〔知性〕」を提供するところまで現代化されようとしている。〔同p16〕

  弾初のギターアンプやぶうんと鳴る

経済的でもなく(役に立たないモノ)象徴的でもない(ガジェットには「魂」がない)この投資はもろもろの組み合わせそのものを楽しんだり組み合わせの変化を楽しんだりすることにほかならない。〔同p159〕

  ガーベラ挿すコロナビールの空壜に

ポップ以前の全芸術は「奥底に潜む」世界を見ぬこうという態度の上に成り立っていたが、ポップは記号の内在的秩序に同化しようとしている。つまり、記号の産業的大量生産、環境全体の人為的人工的性格、モノの新しい秩序の膨張し切った飽和状態、ならびにその教養化された抽象作用に同化しようとしている。〔同p162〕

  モザイクタイルの聖母と天使夏了る

ポップが意味するものは、遠近法とイメージによる喚起作用の終焉、証言としての芸術の終焉、創造的行為の終焉、そして重要なことだが、芸術による世界の転覆と呪いの終焉なのだ。ポップは「文明」世界に含まれるだけでなく、この世界に全面的に組み込まれることをめざしている。〔同p163〕

  Tシャツのタグうらがへるうなじかな

マス・メディアの機能は、世界がもっている現実に生きられた…一回限りの…出来事として性格を中和し、互いに意味を補完しあい指示しあう同質な各種のメディアからなる多元的な世界で現実の世界をおきかえてしまうことだ。結局、各種のマス・メディアは互いに同じ内容になってしまう。――これこそは消費社会の全体主義的「メッセージ」にほかならない。〔同p177〕

  おでん屋の神棚据ゑのテレビかな




ジャン・ボードリヤール『消費社会の神話と構造』今村仁司+塚原史訳・紀伊國屋書店1979  La Societe de Consommation, Ses Methes, Ses Constructures 1970
『超新撰21』(邑書林2009年)

constellated by tenki saibara

2011年2月15日火曜日

●セキエツ氏の天使的日常

ツイートでたどる
セキエツ氏天使的日常

新年最初にしたことが「寝そびれる」であった。
1:45 AM Jan 1st

家の前で若い男が大勢「ゆうきりん!ゆうきりん!」と唱えている。何のまじないだろう。
1:50 AM Jan 1st

全く意味がわからないのだがこれも何かのお告げと思い、ツイッターにいたゆうきりん氏(@rin_yuuki)をフォローしてみた。

朝食なう。ゆっくり落ち着いて食べたい気もするのだが、ゆっくりしていると飯全部凍りそう。
Sat Jan 01 2011 06:21:33

番組表を見たら「おせち」とか「新春」の文字が並んでいて、正月じゃあるまいしと一瞬思ったが正月だった。
Mon Jan 03 2011 05:09:38

せめてラブクラフトの短篇一つなりと読んでから寝たい。
Tue Jan 04 2011 00:24:33

そして「うしじまいい肉」というのが人名であると知らされた。そんな一日。
Fri Jan 07 2011 03:37:09

昨日は野外に横倒しで放置されている巨大な醤油樽にも入ってみた。この寒さではあれには住めないな。それにしても何故1時間以上続けて眠れないのか。寒気がひき臼のようだ。
Fri Jan 07 2011 06:32:06

珈琲冷たし左舷弾幕うすくせよ
Fri Jan 07 2011 07:07:15

ろくに寝ないで出歩いて気絶同然に寝たが、それでも正確に1時間ごとに目を覚ます。鳩時計の霊か何か憑いているのだろうか。
Sat Jan 08 2011 02:36:18

ひたすら眠くひたすら眠れずそのまま朝でアメリカの上院議員銃撃事件速報をツイッターで追う。
Sun Jan 09 2011 06:59:21

腹が白色矮星なみに重い。
Sun Jan 09 2011 13:01:17

資料を発掘したが、付箋の貼り過ぎで雑誌がウニのようだ。
Sun Jan 09 2011 21:50:54

顔を洗ったらブラシ、メガネ、ドライヤーがピタゴラスイッチ的に連携して落ち、最終的にハンドクリームが洗濯機の後ろへ消えた。
Mon Jan 10 2011 03:12:31

「ざざ虫を捕りて冥土の土産とす」「ざざ虫を捕るがた馬車のごとき身よ」(どちらも宮坂静生)。こういうのは鑑賞書くなら出来れば実際に食べてからにしたい。
Mon Jan 10 2011 23:20:56

なんで「きしめん」を検索したら萌えキャラ動画がどどっと出てくるのだろう。
Tue Jan 11 2011 05:26:25

俳句の世界自体がコミュニタスっぽいのでむしろ「私度僧」に近いか。
Wed Jan 12 2011 02:23:24

思いつきで書いてしまったが「ラピュタ吟行」、やって出来ないことではないな。みんなで集まってアニメDVD鑑賞して、再生時間内に句を作るという(ろくなものが出来そうにないが)。
Thu Jan 13 2011 01:51:46

毒食らわばでマイケルの「もってけ!セーラーふく」まで視聴。http://bit.ly/dCKAaZ

《ハイカイザシオン/「俳諧」をヒントとしてクノーが提唱。『ファヌ・アルメの冗長さ』で、マラルメの詩から脚韻部以外を消去して俳諧風にしてみせた》http://bit.ly/ej19hV 読みたいけど日本語で読んでもさっぱりわからんのだろうなこれ。
Thu Jan 13 2011 04:00:27

今朝寝入ってすぐ、トラックの助手席に据えつけられた洗濯機でスパゲティを苦労して茹でながら人を待っていたら相手が来るのが茹で上がるのと同時になって収拾つかなくなる悪夢で覚醒。そのまま用足しに出て、戻ったら昨夜のメール問題解決。先方のメールサーバーが容量いっぱいになっていたらしい。
Thu Jan 13 2011 14:14:07

悪夢見放題である。ホテルの窓からするすると上がってみたら屋上は手摺りなしの幅1mもないつるつるの極細スペース。遥か眼下に海。

桃の着ぐるみから顔だけ出してビデオ鑑賞しましょう。
Sat Jan 15 2011 05:49:38

何か探そうと思っていたものがあったはずと思っていたが、大泉滉の「UFO音頭 」だった。 http://bit.ly/i3tLkp
Sun Jan 16 2011 12:53:48

強風でまたフランシス・ベーコン的に歪み縮み始めた。寒くはないのだが気温はあまり関係ないようだ。
Sun Jan 16 2011 13:29:07

急速に指から凍る夜がくる。
Sun Jan 16 2011 17:24:53

年寄りばかりで植木屋を頼む経済的余裕もない地域で問題なのが破壊的に繁茂し続ける庭木なのだが、家も何年か放置していたら惨状を見かね隣た家から伐らせてくれと申し出があり、傍観しているわけにもいかず伐り始めたがすぐ手に鋸を当てて怪我。一本伐採しただけで不調で半死。
Tue Jan 18 2011 11:31:29

クトゥルーより庭木の方が余程たちが悪い。
Tue Jan 18 2011 11:32:33

太鼓叩きながら人の家の前往復するの何とかならないかね。具合悪いときはこたえる。
Tue Jan 18 2011 19:17:32

しかしソコトラ島みたいな景色の物凄いところで人ちぐらでぶら下がっていたら、却って鬱になって世をはかなむかもしれん。
Thu Jan 20 2011 19:28:59

べ、べつにまどかマギカのために起きてきたんじゃないんだからね。
Sat Jan 22 2011 02:01:04

作品の礼拝的価値を物件の一点性が担保していたためそれがアウラと混同されていたのが複製技術発達によって解離していく事態を言語化したのがベンヤミン、鑑賞者の心と聖性とを横断する人為が芸術であれば物の現前は必須でないが形式・様式の共通了解は必要という所か。現実≠現前。#popuon
Sat Jan 22 2011 03:18:24

何年ぶりだかわからない原宿方面目指して移動中。
Sun Jan 23 2011 10:57:46

花粉症激化しつつ竹下通りなう。
Sun Jan 23 2011 12:37:12

る理嬢に踏んでもらえた。
Sun Jan 23 2011 15:22:34

電車にベケットの小説を持ち込んではいかんな。笑う。出だしの1頁くらいがことに危ない。
Mon Jan 24 2011 09:28:58

ティプトリーみたいに男性設定で登場する女性俳人とか、あるいは一人称「ぼく」で句作するボクっ娘俳人とか出てこないかな(出たらどうだということもないが)。
Tue Jan 25 2011 19:25:04

あるいは「鑑賞 女性俳句の世界」みたいな性差で二分したシリーズの向こうを張って「出身県別」とか「血液型別」「星座別」とか、カテゴライズ自体がナンセンスになるようなアンソロジーもちょっと見てみたい。
Tue Jan 25 2011 19:31:53

花粉疲れで酔っ払ったみたいになっている。
Tue Jan 25 2011 19:36:02

これはどうか。百頭女は俺の嫁。
Tue Jan 25 2011 20:00:36

俳句と量子力学ってどう違うのとか(聞かれても困るが)。
Thu Jan 27 2011 21:50:57

にひゃくさんじゅうえん…
Thu Jan 27 2011 22:03:59

ついでにシュルレア充を目指しつつ80年代PV、グレイス・ジョーンズ「スレイヴ・トゥ・ザ・リズム」。 http://bit.ly/ax64dy
Fri Jan 28 2011 01:46:25

肉。
Fri Jan 28 2011 02:14:00

蛋白質が非常に充実していない今日この頃。
Fri Jan 28 2011 02:15:09

大谷さんの句を見ると何となくボードリヤールを読まなければならない気がしてくる(『マトリックス』見ないままだけど)。バーチャルリアリティだのサイバーパンクだのを経て再編成された花鳥諷詠世界かもしれなくてなまじオタク文化をじかに読むより感覚の変容に個として真摯に向き合っているのかも。
Fri Jan 28 2011 13:15:40

野菜高いわねぇ。
Fri Jan 28 2011 18:24:48

さっさと寝ようと思ったら歴史が動き出してしまった。
Sat Jan 29 2011 02:20:51

ネットでアルジャジーラのこんな生中継見られるのであれば今年でテレビ捨てていいな。
Sat Jan 29 2011 02:27:03

一応テレビつけてみたが全局通常放送中であった。アホではないか。
Sat Jan 29 2011 02:38:42

フォローしている学者で一人だけ今アルジャジーラを見ずに自著に関するツイートをしている人がいた。ひどく間抜けに見えてしまう。
Sat Jan 29 2011 03:16:56

思いがけないところというか、もっと先のことと思って忘れていた先から大量の本も送って頂いて玄関がバリケード状態。
Sat Jan 29 2011 16:37:52

手紙の宛名に「御中」とつけて、思わず「虫」まで書きそうになる。
Sat Jan 29 2011 16:40:29

今朝はカイワレどころではなくて、膝から横へ長ねぎが生える夢。
Mon Jan 31 2011 15:40:32

膝から長ねぎの生えたお蝶夫人のようなものになりつつ帰宅。
Mon Jan 31 2011 17:36:07

知らない町の花粉の中は知っている
Tue Feb 01 2011 12:50:20

というか、知ってる町でも花粉の中は知りたくない。今日はかなりひどいな。
Tue Feb 01 2011 12:52:41

つくってもつくってもなお句の数は足らざりぼーっとアルジャジーラ見る
Tue Feb 01 2011 23:56:20

アマゾンで『砂の本』を検索したら「砂肝串 焼き鳥 (30g焼鳥砂ずり串×5本」なる商品が一緒に出てきた。
Wed Feb 02 2011 01:17:08

読み込んでも読み込んでも次の頁
Wed Feb 02 2011 01:18:43

昔の週俳を掘り起こしていたら鴇田さんの連載が出てきて、阿部完市的実験としてランナーズハイの空白意識で句作していた。http://bit.ly/eGj9wiこの「とらいち」なる謎の言葉、聞き覚えがあると思ったら眉村卓にそのままの短篇があった。http://bit.ly/hiRCPu
Wed Feb 02 2011 23:42:55

鴇田さんが実際に目にした可能性があるものとしては作業服の「寅壱」とかだろうが。短篇集『遙かに照らせ』の頃の眉村卓は異星人などの固有名詞を作るのに乱数表的に文字を散らして出鱈目に差していくという方法を試みていたのではなかったか。
Wed Feb 02 2011 23:50:03

お向かいから豆まきの声が聞こえる。
Thu Feb 03 2011 17:33:43

ファミマに行ってきたが恵方巻(まるかぶり寿司)は結構値が張るのでギョニソで代用。あまり気をつけて見たこともなかったが、この時間本当にスイーツの棚は空っぽ。
Thu Feb 03 2011 23:00:56

というわけでとってあった眉村卓『僕と妻の1778話』を読む。もともと病気の人のために書かれたショートショート集なので丁度よい。
Fri Feb 04 2011 03:13:01

ゆで卵を醤油に浸しておけば煮卵が出来るというのでやってみたら、一応出来たが醤油が足りなくて全域が浸っていなかったためまだら卵である。
Fri Feb 04 2011 21:28:22

世界がぐるんぐるんし始めたので一旦寝よう。
Sat Feb 05 2011 03:51:06

何でもかんでも萌やせばいいってもんじゃないのよ。余計な画像ばかり拾ってしぼりこめないわ。
Sun Feb 06 2011 00:08:26

パソコンに向かって俳句を作っていると、どんどん初音ミクの無駄知識がたまっていく。
Mon Feb 07 2011 19:06:34

工場見学吟行って、やったという人誰かいなかったかな。
Tue Feb 08 2011 20:15:57

砂の本に一番近いのが結社合同句集というものなのではないかと思うくらい読んでも読んでも終わらない。間に合うのかこれ。
Wed Feb 09 2011 04:43:25

なぜ「少子化」より先に「湘子か」が出る。
Fri Feb 11 2011 00:22:50

怨霊や妄念を調伏しなければならないような。
Fri Feb 11 2011 01:46:06

雪がどんどんぼろきれみたいに大きくなってきた。この調子で巨大化しながら降り続けると明日の朝にはエイとかサメくらいあるやつがバタバタと。
Fri Feb 11 2011 13:34:01

周り中でどかどか妙な音がする。湿った雪が2,3センチ積もってあちこちの屋根から落ちていた。
8:28 AM Feb 12th

ちょっとうつらうつらして目が覚めると腹が減っている色川武大『喰いたい放題』状態。
9:32 AM Feb 12th

うちのCDラジカセは自然治癒力があるらしい。何度も壊れて放置してあったのに数ヶ月ぶりに誤ってスイッチを押したらまたまたまたCD聴けるようになった。バブル期以前の日本製品すごい。
Sat Feb 12 2011 10:44:34

どうも身体がシュルレアリスムで困る。

……



compiled by saibara tenki

2011年2月14日月曜日

●引用の置きもの 宮川淳+鴇田智哉

引用の置きもの 宮川淳+鴇田智哉
constellation:
texts by Atsushi Miyakawa and Tomoya Tokita



どこかに、単純にそして純粋に、言語と呼ばれるべきジャンルは存在しえないだろうか。単に詩と散文という形式的な対位法のみでなく、またさらに、文学とそれ以外ものという対象の区別をも超えて――というよりも、むしろそれらよりももっと根源的なものとして――ブルトンはぼくをそのような夢想に誘わずにはいないのだ。〔宮川淳「眼について アンドレブルトン」 ※太字:原文では傍点〕

  ゆふぐれの畳に白い鯉のぼり  鴇田智哉(以下同)

眼。しかし、それが存在するだけでは充分ではない。なぜなら、開かれる眼があるように、また閉じられる眼があるからだ。そして、閉じられる眼は決して合図を認めることはないであろうから。「人間の大きな敵」であるこの不透明性。それゆえに、なによりも開かれる眼、開くことを知った眼が必要なのだ。〔同「眼について アンドレブルトン」〕

  木犀をとほりぬけたるかほのあり

なぜ鏡はイメージを生み出すのか。こうして映し出されたイメージの背後へと導かれてゆく想像力が、しかし、その底に見出すものはなんだろうか。このすでに閉じることを忘れてしまったような眼、この鈍く光を反射するだけの盲目のグレーの物質。それはもはや見ることの明るい可能性ではなく、ほとんど見ないことの薄明のように冷たい不可能性と化した無名の眼だ。その眼にとって、すべてはシルエットでしかありえないほどの。〔同「月と鏡とシルエット」〕

  十薬にうつろな子供たちが来る

ときとして遠くからの、ひとつの信号。なんの信号か? だが、それはこの星のきらめきのように、ひとつの純粋な信号なのだ。眼はそれを認める、あるいは認めない。〔同「ときとして遠くからの、ひとつの信号……」〕

  海辺からつらなる窓の寒い都市

表面はあらゆる深さをかわす。そこからは内部、時間論、あるいは意識といった近代的というよりはむしろ形而上学的、存在論的モチーフはすべて滑り落ちる。どこへ? あるいはむしろ、それらはそこで底なしの深さのなさの中にとえられるのだ。鏡のたわむれの中で、ひとは無限に表面にいる。〔同「ルネ・マグリットの余白に」〕

  凍蝶の模様が水の面になりぬ

表面的であることに通じて表面化するもの、それは表面そのものである。〔同「ルネ・マグリットの余白に」〕

  水面から剝がれてゆきし揚羽かな

どんなタブローも、たとえ一個のリンゴ、現実の一断片を描いても、つねに全体性(作品)を自負し、また自負しえた。しかし、たとえば一枚の写真はつねに断片であり、パッセージでしかないだろう。いいかえれば、それは≪引用≫なのだ。しかし、一枚の写真が≪語る≫ことができるのはまさしくこの事実によってなのだ。いいかえれば、その背後にあるなにものかによってではなく、その手前に形づくられる読むことのたわむれ、あるいは≪見る≫ことの厚みによってである。〔同「≪想像の美術館≫の余白に」〕

  ひなたなら鹿の形があてはまる

いわゆる≪作品≫を成り立たせるもの、それは作品の背後にあるなにものか(超越的なシニフィエ)ではなく、その手前に形づくられる見ることの厚み(シニフィアンの運動)なのだ。〔同「≪想像の美術館≫の余白に」〕

  虫の夜の階段に沿ふ銀の棒

(…)視線は画面の背後に、いいかえれば事物にまでは到達せず、画面の表面で反射され、ことばに収斂する。無限の往復運動が錯雑するこのディスクールの厚み、絵を見ることを可能にさせると同時に、≪絵画≫を成立させるのはこの非人称的な空間である。〔同「ミシェル・フーコーの余白に」〕

  桃の実に鏡が立つてゐる机

現代美術における作品概念の変質はつぎのように記述することができるだろう――作品はかつてのシニフィアンとシニフィエの統一であったものから、単なるシニフィエと化す。シニフィアンとシニフィエの統一としての≪作品≫は、つねにシニフィアンの背後にシニフィエの存在を予想した。そしてこの先在的ないし超越的シニフィエにシニフィアンを整合させる(あるいは整合させなければならない)という局面において、≪つくる≫という理念があらわれる。〔同「記号学の余白に」〕

  まなうらの赤くて鳥の巣の見ゆる

こうして、われわれは表面をどこまでも滑ってゆく、横へ横へ、あるいは上に、さもなければ下に、それとも斜めに? だが決して奥へ、事物にではなく。……この鏡のたわむれ、あるいはテクストの表面。〔同「ジル・ドゥルーズの余白に」〕

  目がかほの真ん中にある棕櫚咲けば

眼差が物質の不透明性を潜りぬけるとき、透明に結晶するのは物質の不可侵透性そのものなのだ。/いいかえれば、透明性とは、瀧口氏にあっては、物質のスタティックな属性であるよりも、まさしく〈物質の反抗の現象〉であり、ほとんど「詩と実在」における詩の定義そのものではないだろうか。(…)〔同「透明幻想」〕

  逃水をちひさな人がとほりけり



『宮川淳著作集第一巻』(美術出版社1980年)
鴇田智哉句集『こゑふたつ』(木の山文庫2005年)
『新撰21』(邑書林2009年)

constellated by tenki saibara

2011年2月12日土曜日

●『週刊俳句』200号記念句会のお知らせ〔再告知〕

『週刊俳句』200号記念
句会のお知らせ 〔再告知〕

誌上句会の御案内はこちら↓
http://hw02.blogspot.com/2011/02/200.html

オフライン(リアル)句会の御案内はこちら↓
http://weekly-haiku.blogspot.com/2011/02/200.html

【追記】
週刊俳句の当番5名は、19日(土)渋谷・20日(日)根岸のいずれか、あるいは両日に参加予定。多数の御参加をお待ちしております。


2011年2月11日金曜日

〔今週号の表紙〕外階段2

今週号の表紙〕
外階段2


学生アパートには外階段がつきものだった。もっと昔はみんな同じ廊下やトイレを使うスタイルだったので外階段などなかったが、30年くらい前の学生アパートは、例えばプレハブ2階建て、外階段が2階の外廊下へとつながる。

鉄製の外階段を踏むと、ぶわんぶわんとたわむ音がして、それは、どこかに出かけるときの気分、どこかから帰ってきたときの気分と、いま思えば、セットになっていた。

写真の撮影場所は、東京都国立市谷保。パチンコ屋の裏。

(西原天気)

2011年2月10日木曜日

●真剣なぺらぺら 鳴戸奈菜句集『露景色』 上田信治

真剣なぺらぺら
鳴戸奈菜句集『露景色』  上田信治

関悦史さんが、豈weeklyで引いていた〈平目より鰈が好きでよい奥さん 鳴戸奈菜〉という句が、ずっと気になっていた。

これは、宇多喜代子さんが、小林恭二さんとの対談で挙げていた〈生協の車来てゐる山茶花垣 橋閒石〉という多分、句集に入っていない句と同じ「気になり方」で、要するに、なぜ、この「これ」でなければいけないのか、作者の、やりたいところ、見ているところが、パッとは分からない。

囲碁に喩えれば、盤上(あるいは碁盤の外か)の意外すぎる場所に、置かれた一手。しかも、その石を置いたのが、多くの人の尊敬を集める練達の棋士であるゆえに、控え室も、解説者も「うーーーーん」と言って、考え込んでしまうような。

それは、囲碁的にはどうにも意味をなさない一手であり、単なる「気まぐれ」に見える。しかし、ひょっとしてひょっとすると、指し手の意図は、その一手を内容に含む「新しいゲーム」を提案し、それを「囲碁」であると僭称することにあるのではないか。

そういうことを気にしつつ、鳴戸さんの新しい句集『露景色』を読んだ。

梨の実の腐りやすしよお姉さん

お兄さん花野に花のなかりけり

こんな句があった。中味はあからさまに人生訓で、通常の俳句的基準に照らせば、危きに遊ぶどころか、余裕でアウトかもしれないが、しかし「俳句は、中味ではない」。勝負所は「お姉さん」「お兄さん」という呼びかけの、通行人に向けられているかのようなぺらぺらな口調にあって、そのたよりない風情に、カジュアルな哀しみが託されている(言ってしまえば、それは話者の分身であり、過去の亡霊である)。

胡瓜揉みきのうはむかし遠い昔

降り止まぬ雨などなくてななかまど

「胡瓜揉み」のk音とm音が、「きのうはむかし」のフレーズを連れてきていること、「雨などなくて」の「な」(特にa音)が「ななかまど」を連れてきていることに注意しておきたい。口調が作品を律するということが、作者のたくらむ「新しいゲーム」の一つの属性であるようだ。

汽笛一声ヒヨコが咲いたよヒヨコが

「ヒヨコが咲いたよヒヨコが」というだめ押しのリフレインも、口調が作品を律していることの現れであり、そこには、汽笛が鳴くように鳴るから「ヒヨコ」が、そしてもくもくと出る蒸気から「咲いた」が、連れてこられるイメージの連鎖がある。

「胡瓜揉み」の句には耕衣の〈夏蜜柑いづこも遠く思はるる〉が響いていようし、「汽笛一声」の句には、蒸気機関とヒヨコという質量から何からことごとく違うものが一つになるという法悦がある。「ななかまど」の句の止まない雨には、七生の輪廻のどこまで降り続くのかという裏筋があって、それぞれに内容と魅力があるのだが、「お姉さん」「お兄さん」「奥さん」の句と並べてみると、そこには、五七五を一見ぺらぺらに見えるほどに軽く使う、という、ひとつの態度が見えてくる。

態度と書いてエートス(≒倫理)と読む。

本句集で〈径子さんの微笑み渡る冬青空〉と追悼句を捧げられている清水径子は、ときに生硬と感じられるほど重たい内容と、それほどは重たくない文体による書き手であったが(〈野菊流れつつ生ひ立ちを考ふる〉〈くだかるるまへに空蝉鳴いてみよ〉〈慟哭のすべてを蛍草といふ〉)、最晩年〈ねころんでいても絹莢出来て出来て〉〈さびしいからこほろぎはまたはじめから〉〈ちらちら雪弟よもう寝ましたか〉のような、口調と内容が一体となった、自在さの印象を与える作品を遺した。

鳴戸さんの近作は、その地点から書き継がれている──と言ったら言いすぎだろうか(もともと〈形而上学二匹の蛇が錆はじむ〉と書きつつ〈牡丹見てそれからゴリラ見て帰る〉とも書く人ではある)。本句集において、「ヒヨコ」のリフレインには「出来て出来て」が響いているとも見え、その口調はますます軽く、加えて、内容も、標語や俗謡に近づくことをおそれず大胆である。

薄氷ときに厚しや世の情け

雲雀野の思い出に似てレモンケーキ

綿虫のその存在はピーヒャララ


まるで都々逸のようだし広告コピーのようだしピーヒャララなのだが、それら隣接領域の言葉よりも、ずっと無意味で非実用的であることによって、これらの言葉は俳句である──と、作者は主張しているように思える。

戦争がないなら死んでもいいですよ

これは明らかに碁盤の外に置かれた一句。倫理と自分が言うのは、この内容をこの軽さで書くという態度のことで、たとえば、党大会で発言を求めて壇状に駆け上がったヒラ党員が、興奮のあまり泣き出してしまったような、切迫と滑稽のないまぜになった口調が、その人の血を吐くような真剣さの表現としてある。

ぺらぺらであることが、なぜか誠実であることに直結している。どうして、と言われても、それはこの人のエートス(生活態度のようでも、出発点でもあるような倫理)なのだから、しかたがない。そのぺらぺらさが、一所懸命さや真面目さの結果であると、言葉面からなんとなく信じられるというだけだ。

しかし、態度が作品を成立させるということは、その文脈あるいは作者名を外した一句独立がむずかしい、ということでもあって、確かに、上に挙げた中にも、どう見ても名句ではないという句はふくまれる。しかし、それが試みだとしたら、その試み自体に対する評価抜きでは読めないということは、ぜんぜんOKではないか(あと、作者名抜きということなら、句会にこれらの句が出たら取りますよ、ぜったい)。

ちぎれ雲見ている寒い沼があり

やや片寄った句ばかり挙げてきましたが、こういうストレートな抒情もあり。この句は、沼と話者が一体となって、ただ、ちぎれ雲を映している、と取りたい。「寒い沼」という言い方は、そういうことだろうと思う。

秋のくれ堪忍袋の緒の赤し

渡辺白泉がしばしば書いてしまったような(〈松の花かくれて君と暮す夢〉〈われは恋ひ君は晩霞を告げわたる〉)俗謡っぽさがあり。五七五は、現代人にとって土俗のリズムなので、俗謡っぽさがはまると強い。

こうやって日が暮れてゆく冬の川


春の空おおきな雀が飛んでおり

叙景には、放下の感覚があり。この「雀」の中八は、きますねえ、音のずれが幻想領域にはみ出していく。

人生は一つ目小僧佐渡に雪

人生は野菜スープ」といえば、往年の10ccのヒット曲ですが、「野菜スープ」が何でもありの言い換えだとしたら、「一つ目小僧」は、曰く不可解ということになる。そこだけ取れば(「梨の実の」と同様)、はやり唄の文句のようなワンフレーズに過ぎないけれど、人生の不可解は観念ではなく、いま佐渡にふる雪と同じくらい確固とした目の前の現実であり、人が人生を直視しようとすると現れて、どいてくれない。

鳴戸奈菜さんの『露景色』は、面白い句集でした。

なにもかも天麩羅にする冬の暮

買いこんだもの、冷蔵庫に残ったものの、なにもかもを天麩羅にしていく、その「冬の暮」という季節には、人生の終盤ということが意識されているのだろう(晩年意識を持たれるには早いという気もするのだが)。なにもかもを揚げて空っぽになってしまったら、それは寂しいことだろうか。いや、揚げたらそれを盛大に食べるのだから、残っているその時間は、たいへんに豪華、ということになる。

2011年2月9日水曜日

●募集・記事原稿「『超新撰21』の一句」

募集
記事原稿「『超新撰21』の一句」


小誌「週刊俳句」では、「『超新撰21』の一句」をシリーズとして掲載してまいります。
『超新撰21』(邑書林)入集の100句作品を取り上げて御執筆ください。

仕様は昨年の「『新撰21』の一句」と同様です。
【参考】≫当該記事

あくまで仕様上の参考です。一句をメインに掲出いただきますが、他句に触れていただいて結構です。

締切はとくに設けません。
長短ご随意、スタイル・内容ご随意。
また複数原稿も大歓迎です。

ご寄稿は以下に記載の連絡先メールへお願いいたします。
http://weekly-haiku.blogspot.com/2007/04/blog-post_6811.html

『超新撰21』・邑書林オンラインショップ

2011年2月8日火曜日

2011年2月7日月曜日

●カレン忌 中嶋憲武

カレン忌  中嶋憲武


過日はあたたかな立春を迎えた。

2月4日立春大吉。この日はあまり人口に膾炙されていないけれど、カレン・カーペンターの命日でもある。

ときおり、大きな声で「ジョ~ン(犬じゃなくビートルズのね)、どおして死んじまったんだよお~」と叫びたくなる瞬間が人間であれば誰しも人生の中で少なからずあるけれど、カレンもまたかく叫びたい不意の心境に駆られるアーティストのひとりである。

カーペンターズの記憶はぼくのなかでは十代の記憶ででもある。最初に意識したのは中学1年のときだったか。デビューは1969年であるから4年も認識が遅れているのであるが。イエスタデイ・ワンス・モアとかシングとかトップ・オブ・ザ・ワールドとかその辺の楽曲が記憶の底辺にある。トップ・オブ・ザ・ワールドは1972年発売のアルバム「ア・ソング・フォー・ユー」に収録されているから、1973年当時は新曲であり、ラジオなどでよく流れていたのだろう。今は無き旺文社の雑誌「中一時代」のグラビアに、二人のライブの時だろうと思われる写真に歌詞が印刷されていた記憶もかなりぼやけてはいるが、ある。

幼稚園時代同じ組でいまも年賀状をやりとりしている女性と、中学生のころ文通というか書簡のやりとりをしていて、クラブ活動とか受験で大変な毎日だがカーペンターズを聴いていると救われるというような事どもが書かれてあった。その手紙がきっかけとなって、初めて買ったアルバムがファーストの「涙の乗車券」であった。長い間聴いていなかったのでずっと1曲目は「ワンダフル・パレード」というマーチの行進曲から始まる曲であり、この手法はクイーンの「シアー・ハート・アタック」の1曲目のロック史上傑作の誉れ高い「ブライトン・ロック」と一緒だなと思っていたのだが、最近コンパクトディスクを聴いてみるに、1曲目は「祈り」というオーヴァーダビングを駆使した短い曲だった。改めて聴いてみると、じわじわといい。一枚目にして完成度の高さが実感させられる。それはひとえにリチャードの音作りのアイデアとカレンの声の魅力なのかもしれない。歌手は声である。「涙の乗車券」はレノン・マッカートニーの曲だが、まるで別物のように聞こえる。中2か中3のときに買ったシングル「プリーズ・ミスター・ポストマン」の裏ジャケットの解説を湯川れい子が書いていて、「そういえば、カーペンターズの出発点はあの「涙の乗車券」であったと気づき、あとは涙ハラハラ」という一節があった。このシングル盤はたび重なる引越によってどこかに散逸してしまったけれど、確かにそんな一節があった。この曲もジョンの重く引きずるようなイメージの歌唱と違って、春うららのような温かさと程よい軽みがある。そういえばファーストアルバムでニール・ヤングの曲もやっていたけれど、しばらく聴いていても誰の曲なのかまったく分からなかった。すべてカーペンターズ流にしてしまう錬金術がある。この個性はどこから来たか。すべて才能とセンスのなせる技なのか。音楽体験からだろうか。

カレンの声は心を捉えて離れず、生き続ける永遠に。

  立春やまたカレン・カーペンター忌


2011年2月6日日曜日

●『週刊俳句』200号記念 誌上句会のお知らせ

『週刊俳句』200号記念 誌上句会のお知らせ


投句はメールにて 篠宛て  shino.murata@gmail.com

投句締切 2010年219日(土)24:00

■題詠
」   1句
」   1句
」   1句
」   1句
雑詠   1句  計5句
 
■投句一覧をウラハイに掲示。選句要領はその折にご説明いたします(選句期限 2月27日予定)。

以上、奮っての御参加をお待ちしております。

なお、リアル句会(2月19日・20日)のお知らせはこちら▽
http://weekly-haiku.blogspot.com/2011/02/200.html

2011年2月5日土曜日

●2月5日は双子の日

2月5日は双子の日

…だそうです。


遠足の別々にゐる双子かな  岡田由季

牡丹を双子見てゐる山の雨  大木あまり

初鰹双生児同日歩き初む  中村草田男

タクシーのぬくき充満双子の歌  和田悟朗


2011年2月4日金曜日

●立春

立春

あはれげもいとど春立つ朝千鳥  上島鬼貫

春立つや障子へだてしうけこたへ  久保田万太郎

立春の米こぼれをり葛西橋  石田波郷

立春の月の早くもあがりけり  安住 教

春立つや暦に赤き日曜日  吉屋信子

立春の海よりの風海見えず  桂 信子

立春の佛蘭西麺麭の虚かな  小澤實

春立つや一生涯の女運  加藤郁乎

春立つや四十三年人の飯  小林一茶


2011年2月3日木曜日

●ホトトギス雑詠選抄〔42〕節分・下

ホトトギス雑詠選抄〔42〕
冬の部(二月)節分・下

猫髭 (文・写真)


昨年の一月は元日と三十日に二回満月が見られた。三月も満月が一日と三十日に二回見られた。しかし、挟まれた二月は、閏年であれば閏日の二十九日が満月になるが、平年だったので、満月が無い珍しい月となった。だからどうというわけでもないが、なんとなく昨年の一月と三月は得をしたようで、二月は損をしたように感じたのは、新暦と陰暦の狭間をたゆたう俳句の徒の性だろうか。
今年は一月も三月も満月は一回で、二月も満月が戻ってくる。

二月の始めの主な節目はと言えば、三日の「節分」、四日の「立春」、八日の「初午」であり、この中で最も大きな節目になる季題が「節分」である。朔月にあたる。

「節分」とは字義通り季節を分ける日のことだが、東京の昔は「節分」は十二月三十日と、明けて一月の六日と十四日を「節分」として祝ったが、立春の前日のみが「節分」として残ったもので、京都では、元日の初詣は欠かしても節分の厄払だけは欠かさないほどの季の節目になっている。古来よりの神道と中国の陰陽五行説に基づく陰陽道が重なって「節分」が重んじられるようになったのだろう。このため、除夜の「追儺」はじめ、「柊挿す」「豆撒」「厄落」「厄払」「厄塚」など多くの「節分」ゆかりの季題が『虚子編新歳時記』には立てられている。すべて厄落しである。立春前ということで、二月ではなく一月に分類されているのが面白い。昭和17年の『ホトトギス雑詠選集』然り。

また西鶴『好色一代男』巻三の「一夜の枕物ぐるひ、大はらざこ寝の事」には節分の夜「まことに今宵は大原のざこ寝とて、庄屋の内儀娘、又下女下人にかぎらず老若のわかちもなく、神前の拝殿に所ならひとてみだりがはしくうちふして、一夜は何事をもゆるすとかや。いざ是より」と乱交の様子を書いており、語り草となる「大原雑魚寝」も節分がらみの面白い季題である。

節分の夜と言えば、「こいつあ春から縁起がいいわえ」という河竹黙阿弥の名作歌舞伎『三人吉三巴白浪(さんにんきちざともゑのしらなみ)のお嬢吉三のセリフも名高い。

月も朧に白魚の篝もかすむ春の空、冷てえ風もほろ酔の心持ちよくうかうかと、
浮かれ烏のただ一羽ねぐらへ帰る川端で、竿の雫か濡れ手で粟、思いがけなく手にいる百両 、
(呼び声)おん厄払ひませう、厄おとし厄おとし
ほんに今夜は節分か、西の海より川の中落ちた夜鷹は厄落とし、豆だくさんに一文の銭と違つて金包み、こいつあ春から縁起がいいわえ。

このお嬢吉三のセリフは名調子なので意味も判らず聞き惚れてしまうが、よく味わうと春の季感に満ちた季語の生きた宝庫である。朧月に佃島の白魚漁の始まりと、酔い心地に春寒きの風、乞食が手拭を被り張りぼての籠を担いで年玉の扇子を持って「厄払いましょう」と練り歩けば、厄年に当る家々はこれを呼び、年の数の豆と一銭(あるいは十二銭)を紙やふんどし(厄落しを「ふぐり落し」とも)に包んで捨てて厄を落とす。乞食はそれらを拾って、お嬢吉三のように厄落しのセリフを「アララめでたいなめでたいな、めでたい事で祓うなら、鶴は千年亀は万年、東方朔は九千歳、三浦の大助百六つ、いかなる悪魔が来たるともこの厄払がひっとらえ、西の海へさらり」というように唱えて去る、お江戸の習わしを踏まえているのである。ただし、この「節分」は二月ではなく、「月も朧に」なので満月に近い正月十四日の「節分」である。

乞食や厄拾ひ行く手いつぱい 川端茅舎 昭和2年

という茅舎の句は、そういう江戸の習いがまだ残っていた昭和初期の句である。

余談だが、この「月も朧に白魚の篝もかすむ春の空」というのは、那珂湊では「月夜間(つきよま)」といって漁に出ない期間を言う。漁師の家には「月夜間こよみ」を掛ける。写真の毎月橙色の線が引かれた一週間が月夜間にあたる。月夜間とは、満月の前後、旧暦の十三日から十九日を指す。満月の前後は集魚灯の効果が月光で薄れるので巻網が不漁とされる時期なのだ。辞書には載っていない。暦には旧暦が併記され、月齢も載り、裏には全国の潮汐表が付いている。机上の情報と、板子一枚下は地獄で体を張るたつきとの違いがそこにはある。白魚獲りは江戸の春の風物詩だとしても、朧月とはいえ、篝火の効果が余り期待出来ない夜釣ではある。漁師達は祖父母に食べさせるための魚を、この月夜間だけは、今でも市場に購いに行くのである。




2011年2月2日水曜日

●ホトトギス雑詠選抄〔42〕節分・上

ホトトギス雑詠選抄〔42〕
冬の部(二月)節分・上

猫髭 (文・写真)


節分の高張立ちぬ大鳥居 原石鼎 大正3年

虚子が明治41年10月から大正4年3月までの「ホトトギス雑詠」を更に再選して『ホトトギス雑詠集』(四方堂)として一本にまとめ、初めて世に問うたのが大正4年10月であり、掲出句はその「節分」に一句だけ選ばれた石鼎の句である。初出には「大社」という前置が付いている。「大社」とは、「神宮」が伊勢神宮を指すように出雲大社を指す。石鼎は『出雲風土記』に出てくる「やんや」、現在の出雲市塩治(えんや)の生れである。「神宮」が天津神である天照大御神を祀るのに対して、「大社」は葦原中国(あしはらのなかつくに)を平定した国津神である大国主神を祀る。

『古事記』の「大国主神の国譲り」に拠れば、天照大御神の使いである天の鳥船神と建御雷(たけみかづち)神は、出雲の伊耶佐(いざさ)、現在の簸川(ひかわ)郡大社町稲佐(いなさ)の浜に降臨する。大国主神は、天津神に対して国譲りをする条件として、出雲の多芸志(たぎし)、現在の出雲市武志(たけし)町に、壮大な「天の御舎(あめのみあらか)」すなわち「大社」を創建する談判をしたという縁起を持つ。

虚子は同じ年に、稲佐の浜に降臨した天孫のような鷲の句を選んでいる。

磯鷲はかならず巌にとまりけり 原石鼎 大正三年

虚子は磯鷲の句を『進むべき俳句の道』(大正七年)の中で、「鷲のやうな猛鳥が頑丈な岩の上にとまつてゐるといふ、棒を突き出したやうな粗大な叙景であつて、かならずといふ一字を捻出し得てその力強い光景と作者が表はさうと心掛けたところの心持とが適切に出てゐる」と評し、掲出句は「普通の言葉で穏やかに叙して、さうしてそれぞれの趣きを十分に出すことが出来てゐる」と石鼎の句幅を評している。

(明日につづく)

2011年2月1日火曜日

【裏・真説温泉あんま芸者】デュエットする俳句

【裏・真説温泉あんま芸者】
デュエットする俳句  西原天気

承前


先行テクストとか詩歌の遺産とか言うと大仰です。そんなに大袈裟に考えなくとも、シンプルに、句を読むこと、句を知ることは愉しいわけです。

本をたくさん読みまくり、たくさんの句をしっかりと頭に入れる。それができる人は、それだからこその俳句の愉しみを味わうことができるのでしょうが、誰もが勤勉で碩学というわけでもない。しかしそれだから愉しめないというわけでもない。それなりの愉しみがある。

例えば、返歌というのかアンサーソングというのか、ふとしたことで知ったりすると、とても嬉しくなります。

  〔本〕しやがむとき女やさしき冬菫   上田五千石

  〔返〕冬菫しゃがむつもりはないけれど  池田澄子

この組み合わせ、私は「増殖する俳句歳時記」1999年2月19日の記事で知りました。

もうひとつ、例。

  〔本〕てぬぐひの如く大きく花菖蒲  岸本尚毅

  〔返〕手拭ひに似ても似つかぬ花菖蒲  岩田由美

前者は知っていましたが、岩田由美のこの句は、神野紗希「『花束』『鳥と歩く』を読む」で知りました。夫婦(めおと)ならでは掛け合い。これも愉しい。

返歌は、本歌取り、もじり、パロディとはまた、すこし違う。返歌ならではの愉しさがありますね。時間を超えて、デュエットをしているみたいな。

句を読むこと、句を知ること。一句か数句でも、読めば、知れば、愉しさが見つかるのだと思います。