2011年5月7日土曜日

●私が川柳大会について知った二、三の事柄 関悦史

私が川柳大会について知った二、三の事柄

関 悦史


去る四月九日に岡山で川柳雑誌『バックストローク』の大会があり、樋口由紀子さんの招きで、選者の一人として参加してきた。

この選者の話は去年のうちに決まっていて、その後震災が起こり、行けるかどうか危ぶまれたが、当日までには、ともかく常磐線が動くようになったので参加できたのである。

初めて行った岡山は、当然のことながらこちら茨城と違ってブルーシートのかかった屋根もなく、壁の崩落したビルも、崩れたブロックも何もなく、それが却って異様に見えた。皆放射能に注意することもなく、水も普通に飲んでいた。


川柳では俳句でいうところの句会というのはあまりなく、「大会」という形式が一般的らしい。百人から数百人くらいが一堂に会して、複数の兼題全部に対して投句するのである。投句は膨大な量となるので、いちいちにコメントしている暇はない。

そもそも参加者は講評にはあまり関心がなく、自分が採られたかどうかが問題なのだそうだ。選者に採られることを川柳では「抜ける」という。

さらに選句のしかたも、基本的に選者の好き嫌いでいいらしい。選者個人の川柳観と普遍性とのすり合わせを飛ばせるわけで、批評が育ちにくく、文芸ジャンルとしての自律性が得にくいというのは、この辺にも原因がありそうである。


選者自身も投句しなければならないので、会場に着くとまずナンバーを打たれた短冊帳を一部渡される。このナンバーによって、披講の際、誰の投句かが本人にはわかる。


会場でトークショーをやっている間に、選者たちは別室にこもり、選句作業。この日は何百句かある中からの、四十句選だった。並選が四十句、準特選が二句、特選が一句だったと思う。披講ではその後最後に「軸吟」と称し、選者当人がその題で詠んだ句を披露する。「軸」吟というのは、自分の選考基準はこうだという見本ということらしい。


ここで私は選と見直したを終えた後、時間が余ったので、何の気なしに、選んだ句を全部番号順に並べておいた。

これが実は川柳大会最大のタブー(?)であったらしい。

私が披講する番になり、採った句を読み上げはじめたら、五、六句目あたりから、これはどうも番号順に並べられてしまったらしいと悟った会場がザワザワザワとどよめき、笑い始めた。

終わってから樋口さんが、言うのを忘れていた、まさか番号順に並べるとはと飛んできた。川柳大会の披講はランダムに並べるか、後ろの方ほどだんだん良くなるように配列するかのどちらかなのだそうで、番号順の披講というのは私に実際にやられるまで予想すらしなかったらしい。ここが少々不思議なところではあるが、俳句関係者は今後川柳大会の選者を務める機会があったら、一応念頭に置いておいたほうがよいかもしれない。俳句関係の何人かと話したが、川柳大会のこの習慣について聞いたことがあるという人はいなかった。


披講の際の朗読は選者皆堂に入った朗々たるもので、採られたほうは採られたほうで、奇妙な節回しをつけて名乗りを上げる人もいる。

俳句の朗読に関しては、私はかなり難しいのではないかと思ってきたが、同じ五七五でも川柳では普通に朗読が成り立ちそうである。

耳で聞く際、単語全部をしっかり聞き取った上で「行きて帰」って句の中の飛躍や断絶を頭の中で再構成する手間隙をかけなければならない俳句と、行きっぱなしで済む川柳との、構造上の違いが関係しているのかもしれない。

5 件のコメント:

山田耕司 さんのコメント...

たいへん参考になりました!

関悦史 さんのコメント...

結構異文化な感じで面白かったです。
次回は山田さんが選者ですか?

山田耕司 さんのコメント...

選者?いえいえ、そうではありませんが、
俳句と川柳の違いについて多くのヒントをいただきました!

のんき坊主 さんのコメント...

匿名ですが勇気を奮って過去の記事にお邪魔いたします。
川柳歴に於いては若輩者の年寄りです。

確かに大会・行事が多くなって来たようには思いますが、川柳にも句会はあります。
大抵は月に一度のペースです。

近年やたらに出席数を誇る傾向が顕著になっているのを、非常に残念に思っています。
本来の、と言いますか、昔の句会は披講にとても味わいがありました。
好きなことを愉しんで精進している大人の集りでした。

句会終了後も場所を替え、作句のあれこれなど川柳論を活発に戦わせていました。

自分が諸先輩から教えられたのは「選者は『好きな句』を選ぶものではない」ということです。
川柳での選ではそれが鉄則だと、この瞬間まで思っていましたし、今もそうあるべきだと思っています。

時の流れる裡に、誰かの個人的見解が軽やかに歩み始めたのかも知れませんし、
川柳人口を拡張したいとの(浅はかな)思惑からの妥協かも知れません。

「批評が育ちにくく、文芸ジャンルとしての自立性が得にくいというのは、この辺にも原因がありそうだ」とのご指摘がストンと腑に落ちてしまうのが残念です。

突然お邪魔して勝手を申しました。失礼いたしました。

関悦史 さんのコメント...

のんき坊主様>
コメントありがとうございます。
会場で訊いてみたところ、句会も「あることはある」というような回答だったので本文には「あまり」と入れました。
大会は「興行」という雰囲気が残っているようで(景品が出てもおかしくないような)、大会の後の飲み会でも印象的だった句についてのやり取りというのは当然あったのですが、テキストを手元に置いての話ではなくなるので、もうちょっと作品本位の話がしたいという人は小規模な句会のほうが面白いということになるのでしょうね。
選の基準については、そうはいうものの全く誰にも通じない独善的な選というのは実際には見なかったように思います。