2013年10月23日水曜日
●水曜日の一句〔田吉明〕関悦史
関悦史
三千の椿を踏んで訪ねてゆく 田吉 明
逢瀬の句らしいので「白髪三千丈」よりは、都都逸の「三千世界の鴉を殺し…」の方が浮かび上がるが、いずれにせよ、無限に近い誇張表現としての「三千」である。
モチーフが主情的で、その上表現は象徴的という、俳句以外の形式の方が適していそうな抒情の句だが、それでもこの句に俳句的な快感が漂うのは、無限としての「途中」が描かれているからだろう。
宇宙の始まりと終わりにせよ、個人のそれにせよ、あるいは言語の発生と終焉にせよ、ものごとの始めと終わりは曖昧であり、途中だけがひたすら明確である。
「途中」から無限を引きだす句の快楽といえば永田耕衣が筆頭だが、中心にいて全てを自分にひきずりよせる悪魔的興趣に富んだ耕衣句にくらべて、この句は孤独感が強い。心にあるのは逢うべき相手ばかりであり、訪ねてゆく己はそれまでひたすら己の、あるいは数多の人々の想いを踏み殺すように椿を踏み続け、歩き続ける以外にない。
到着を阻むごとく、行く手に無限などを呼び込んでしまったのは想い自体なのだ。
コスモロジーではなく、思慕が生んだ満たされなさのゆえ孤独、その中にあらわれた無限性を、斬首じみた落ち方をする「椿」の断念の形象と自然性において踏みしめていく快楽に親しみ始めたのがこの句なのである。
なお句集では連作ならぬ「組曲」と称する連なりに句が配置されていて、この句の並びは以下の通り。
白日
三千の椿を踏んで訪ねてゆく
椿の火指にともして探しにゆく
白日は幼き霊(たま)のはなやぎや
太秦の佛に逢ひに来て 椿
四句を通覧すると、逢うべき相手は幼くして既に死んでいるようだ。
無限に逢えないのも道理だが、「太秦の佛」と墓の所在が暗示されると当たり前の交通機関で辿りつけることになり、「三千」の無限性も単なる心象風景へと矮小化されてしまうようにも思う。
それが作者のめざしたところであり、そういうものとして享受すべき句ではあるのだろうが。
句集『錬金都市』(2013.7 霧工房)所収。
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パルコでオフパコ死なねば23世紀スピ増
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