2015年4月4日土曜日

【みみず・ぶっくす散歩篇 3】 フランスの本屋で「俳句」をさがしてみた〜後半。 小津夜景

【みみず・ぶっくす散歩篇 3】 
フランスの本屋で「俳句」をさがしてみた〜後半。

小津夜景 

前半

フランスの本屋に俳句の本がどのくらいあるかを調べる【みみず・ぶっくす散歩篇】、後半はFNAC(フナック)という店を訪れた。FNACは文化関連商品&家電製品ブティックとしてフランス全土で展開している大型チェーン店。もっとも近年はあまり文化関連の品揃えが良いとは言えない。誰もがインターネットで物を買うようになって以来、FNACも地方の店舗を相当貧弱化させることを強いられたようで、こと書籍については漫画、学生向け参考書、児童書のコーナー以外は売れ筋の本を中心に揃え、その他のジャンルはネット販売へと移行してしまった。さて、このようなタイプの店にも俳句の本はあるのだろうか?


さっそく詩のコーナーをさがす。フロアはとても広いが、詩のコーナーは棚一列分のみ。さみしい限りだ。とはいえ驚くことに、ここにも俳句は存在した。しかもここでは、なんと分類タグまで掲げて「一領地」を形成していたのだ。




この写真の「Poésie」が詩のコーナー。強調するまでもないことだがフランスは詩人大国である。にもかかわらず売り場はこれっぽっち。そんな厳しい状況なのに、棚の上から2段目、左半分にHAIKUなるタグがついている。しかも実に手にとりやすい高さのスペースを占領割拠しているではないか。一応書名を挙げておく。

俳句本のアップ。漢詩も混じっているが、詩の分類タグを確認したら、他にふさわしい置き場所がなさそうだった。

『一茶』(一件目の本屋にはなかった出版社)
『俳句』(同上)
『俳句365句〜永遠なる瞬間』
『俳句〜日本の短詩アンソロジー』
『20世紀俳句〜今日の日本短詩』
『ハイク・エロティック』
『現代の俳句 黛まどか』
『俳句書き方マニュアル』

興味ぶかいのは『俳句書き方マニュアル』が5冊も並んでいたこと。きっとよく売れるのだろう(ちなみにFNACのサイトでは全部で460種類の俳句本が買える)。俳句を書くフランス人がいることは知っていたが、こんな田舎でもそうなのだから、私の周囲の人間が俳句を読むくらい別段驚くことなどなかったようだ。


こちらは『ハイク・エロティック』の表紙。付録として日本の地図や江戸の地名一覧など、詳しい便覧が付いていて嬉しい。内容は18世紀末から19世紀初頭の「風刺、諧謔、悪漢俳句」を集めたもので、とりわけさまざまな階層の女性の「日常の性生活」に焦点が当てられている。作者のジャン・ショレーは日本古典文法、江戸言葉、川柳の専門家で、歌麿の本や江戸の吉原ガイドも書いている人。また略歴には名古屋大学に15年間勤務とあった。開いて見ると、なんというか、いわゆる良質の書といった感じ。それにしてもこれ、いいタイトルだなあ。

さて、本屋の見学はこれでおしまい。今回2件の店を回って分かったことをまとめよう。

⒈ フランスの本屋にとって俳句は特殊なジャンルではない。
⒉ 本屋であそぶ習慣のあるフランス人にとって、俳句はそう遠くにあるわけではない。
⒊ 詩を読むフランス人にとって、俳句は出会わない方が不自然なほど近くにある。

以上。全く客観写生的なまとめでなくてすみません。でも現場写真も提出したし、とりあえず「ま、いいか」ということにしておく。個人的には、アカデミズムやジャポニズムを経由せずとも、フランス人が俳句に簡単にアクセスできるという現実を知ったのが良かった。

それはそうと今、文章の流れをチェックするために前書きからこの後半まで全部を読み通してみたら、あまりにどうでもよいことしか書いていないことが判明し、たいへん申し訳ない気分になった。なのでお詫びとして、今回目撃した俳句関係のネタをもうひとつ追加しておくことにする。下の写真は一件目の本屋のショーウィンドーだ。

これ、東洋陶器のカタログではなく、ブルバキ派の数学者にしてウリポにも参加している詩人ジャック・ルーボーの『極私的東京案内』という本。芭蕉の『奥の細道』を脱構築した構成(本当か?)で、東京の電車に揺られ、移りゆく駅名を眺めつつ、俳句と短歌と長歌(とTOTO愛)について語りつづける、という非常にチャーミングな俳文である——と、簡単に整理できるような内容では決してないものの、だいたいそんな感じの東京路線紀行だと思ってもらえばいい。

この本の内容に触れているサイトをいくつか探してみた。ここ(http://prose2.blog107.fc2.com/blog-entry-88.html)だと多色刷りの本文をまるごと一頁眺めることができて雰囲気がわかりやすい。あとルーボー自身の説明によると『極私的東京案内』というタイトルの極私的(infra-ordinaire)の部分はジョルジュ・ペレックの書名から拝借したらしいが、これは日本で『家出の道筋』と題されている本のこと。さらに infra- とくれば、一時期ウリポに参加していたデュシャンの infra-mince(極薄)にも連想が及ぶ。実際この本は取るに足りないアンフラ趣味に溢れていて「畳の生活」という題のサビ系短歌(って一体何なの? ルーボーさん…)を詠んだり、TOTOショールームをうろついたりする作者の様子はとてもふわふわしていて、お茶目。

この本は4パターンの表紙が存在する。本屋ショーウィンドーの「TOTOチラシ」の周囲にある4冊は全て同じ本。
錯綜する話が色分け&数字で整理されているため、普通のメタ文学よりも読みやすい。親切な人です。

それはそうと、ルーボーは『もののあはれ』『連歌』(オクタビオ・パス他との共著)『31の3乗』ほか相当数にのぼる和歌、連歌、俳句に関する本を出しているが、実はウリポの有名な「ハイカイザシオン」という俳句産出法を考案したのも彼だったりする(一般には『地下鉄のザジ』を書いたレーモン・クノーの「提唱」と言われる)。そんな彼が日本の詩に興味をもつことになった理由というのがまた個性的で、それらが5 – 7 – 17 – 31といった素数から構成されている不思議さに、詩に内在する美の《形式的・構造的根拠》を思索する契機を得たからなのだそう。

こういうのって、本当に素敵な出会いだと思う。ルーボーはそれについてなにも知らないまま、ただ目の前に存在した詩の、まさに「ありのままの裸の姿」に恋したのだから。長い歴史だの、深い伝統だの、豊かな諷詠だの、そんな家柄自慢の釣書みたいな説明を当の本人(日本人)から聞かされたりせずとも、皆がそれぞれの出会いにおいて、俳句の《外見》に驚き、その《実存》を探り、それを《なお無名のままに》愛することができる、そんな真理を説いたような、とてもキラキラしたエピソードだ。

あ、そうか。今ルーボーの話を書いていて気がついた。私がフランス人にあれこれ俳句について質問された時「何も話すことなんてない」と毎度ためらう理由は、どうやら私が長さとか、深さとか、豊かさとか、伝統文化にまつわるその手のことを口にしたくないから、のようである。

伝統。それは文化資本以外の何ものでもない。そしてそれが価値ある「財」である以上、他人に誇るべきものでは決してないだろう。祖国を捨てざるを得なかった人々。うしなわれた人、家、故郷、遺風、その他あらゆる記憶を日々嘆きつつ抱えて生きる人々。そうした「持たざる者」が山のようにいるこの国で、いま目の前にいる者もまたそんな一人であるかもしれないこの日常で、どうして私ばかりが自国の豊かな恵みについて無遠慮に語ることなどできるだろう?——こんな風にいつも感じていたのだ。

なるほど。それで私は、自国の伝統を紹介するのが大好きな人をみると「うちは文化貴族で…」とか「うちの財産は…」などと血統自慢をしている田舎婆としか思えないのか。よくわかった。だがもちろん俳句は、私の知る限り、かつ今回のささやかな調査で垣間みた限り、状況を一定の枠内で方向づけようとする「文化権力」を免れた場所で、日本文化という血統書をつけずとも、ごく普通に息づいている。そしてまたフランスの愛好家らが口を揃えて言う「はかなさ」「うたかた」「つかのま」などの俳句に対する印象は、一見言うに及ばぬ把握にすぎないようにも思えるけれど、しかし「長さ」「深さ」「豊かさ」といった世間で幅を利かせる価値とは全くあべこべの領域にこそ俳句の本領があるという事実を、いつも私に思い出させてくれるのだ。そう、つまり、私は俳句の、からっぽであることに軽々と絶えうるエキセントリックなところ、が好きなのかもしれない。

そういうわけで私は、今後フランスで俳句についてあれこれ訊かれた場合、それを他の詩型と比べて特別視したり、その固有性を捏造したりしないよう注意を払いつつ、こんな風に説明してゆこうと思う——「俳句が他の国の詩と本質的に違うところなんて一つもないよ。どんな詩も一緒だよ。 死すべき存在である《私》が、だからこそ命を謳いたい、自分がこの世を去る前に、ここにまだ見えているものの命を、或いはもう消えてしまったものの命を謳いたいっていう、それだけのことだよ。花鳥諷詠は、そんなスローガン。ただ長い詩だと書き終わる前に死ぬかもしれない。いやかならず死んでしまうだろう。そこで日本人は短く書くことを思いついた。できるだけ短く。ときに言葉の意味も捨てて。伝えることも止めて。そして俳句は《何も盛らない器》になった。それが俳句なんだ。つまり俳句は《何も持たない人間》の姿とまるきり同じなんだよ」


〈了〉

1 件のコメント:

亀 さんのコメント...

日本では80年代に「軽チャー」なるブームが席巻し、意味も深みもない「文化」を称揚して溢れかえりました。
今ではとうとう首相の言葉にすら意味も重みもなくなってしまい、国民に「何も持たせない」社会の到来のようです。
こんななかで謳うことについて考えこんでしまいますね。