2016年11月8日火曜日

〔ためしがき〕 偶景 福田若之

〔ためしがき〕
偶景

福田若之


改札口から続くコンコースの向こうの、地上の階へ下りるエスカレーターの脇に、喪服の男が立っているのが見える。男の下腹部のあたりで組まれた両手は、白地に黒で「藤村家」と印刷されたプラカードを握っている。プラカードの柄は短く、ちょうど男の胸部のあたりにその「藤村家」が見える寸法になっている。男は無表情で、微動だにせず、ただ立っている。

男の脇を抜けてエスカレーターを下っていくと、その向こうの、タクシー乗り場の前に、喪服の男が立っているのが見える。さっきよりすこし老けた男で、髪は白い。男の下腹部のあたりで組まれた両手は、白地に黒で「藤村家」と印刷されたプラカードを握っている。プラカードの柄は短く、ちょうど男の胸部のあたりにその「藤村家」が見える寸法になっている。男はやはり無表情で、微動だにせず、ただ立っている。だが、その顔はさっきの男とは違っている。

「藤村家」という言葉はなにも意味しない。「藤村家」という語は、そもそもなんらかの意味をもっているわけではなく、単になにかを指し示しているのだろう。だが、僕はその指し示す先を知らない。僕は、彼らが誘導しようとしている葬儀の会場を知らないのと同じように、彼らが指し示そうとしている「藤村家」のなんたるかを知らない。したがって、僕は、この「藤村家」という言葉から、死者の顔も、その血筋の系譜も、思い浮かべることはない。そして、この言葉は、なにより、あれらの看板を持った男たちが「藤村家」の人間であることを意味しない。彼らは、「藤村家」の人間ではなく、葬儀屋の人間ではないだろうか。

彼らの立ち姿は実に形式的である。誰かの「死」は確かであろうが、その出来事への感情は、いっさい顔にはあらわれない。そこには悲しみも晦みもない。おそらく、今夜、どこかで、「藤村家」の誰かのために泣く人たちがいるのだろう。だが、そうしたことのいっさいは、仮にその場かぎりのことでしかないとしても、いま、この無表情からは締め出されている。定型的な表情のなさは、ただ、その顔のかけがえのなさだけを際立たせているのだ。それゆえ、この無表情において、「死」がもつはずの意味はかぎりなく希薄になっている。

その無表情が、きれいに、身体だけを違えて、二度、繰り返される。この立ち姿との遭遇がたった一度であったなら、その立ち姿の完璧さ、出来事の唐突さなどが、ひとつの意味をもつことになってしまっただろう。三人以上と遭遇してしまったなら、それはそれで、読むべき意味を求めて街を探し歩くことになってしまっただろう。僕は第二の男がのいるほうへは進まず、駐輪場へ向かう。


2016/9/29

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