2017年1月18日水曜日

●水曜日の一句〔高野ムツオ〕関悦史


関悦史









生者こそ行方不明や野のすみれ  高野ムツオ


「死者」と確定してしまえば「行方不明者」ではない。法的な失踪期間が過ぎ、宣告がなされれば、「行方不明者」ではなく「死者」の扱いとなる。その意味で「生者こそ行方不明や」は正しい。

しかしこの句が描こうとしているのは、おそらくそうしたことではない。これが東北で大震災を受けた高野ムツオの句であり、震災後を詠んだ句がきわめて多い句集に収録されているという事情を、かりに度外視したとしても、ここに描かれているのは、まず死者の不在を抱え込んだ生者の、見当識の喪失に近い茫然たる浮遊感である。

死者(たち)に置き去りにされ、その記憶と不在に押しつぶされそうになりながら、それ以後の日々を送り続ける生者、つまりわれわれの方こそが「行方不明」なのだ。死者(たち)自体は、今後もう変化することも放浪することもない。「行方不明」とは、死者(たち)の発生という事態をどう呑みこんで消化してよいかがつかめず、いたずらに喪失感や、それが何かの拍子に引き起こすパニックのなかに漂うことを強いられ続けているという事態を指している。

「野のすみれ」。人に植えられたものではなく、野から出たすみれは、そうした過酷な無常のことわりを背負って咲いた、生者にとっての命綱にも似た輝きをはなつものとして現れる。現れるという事象そのものが生者と死者、存在と不在の間をとびこえる働きを担っているのである。一見もっともらしい達観にも似た「生者こそ行方不明や」の茫然のなかで、生者=われわれの正気はこのすみれ一本にかかる。死者たちの方こそを実とし、生者たちの方を虚とするような、この両義的なすみれに。


句集『片翅』(2016.10 邑書林)所収。

1 件のコメント:

野口人史 さんのコメント...

関さんの解釈すごいな。
生者こそ行方不明や野のすみれ 高野ムツオ
この句が、作者名なしで投句されていたら、小生は多分取れなかったでしょう。
「野のすみれ」に引っかかったはず。
それこそ、これって、俳句なのと思ったかも。
でも、「野のすみれ」がすごかったのね。