〔ためしがき〕
曼珠沙華
福田若之
牧野富太郎『植物知識』(1949年に逓信省から刊行された『四季の花と果実』(「教養の書」シリーズ)が講談社学術文庫に収められるにあたって改題されたもの)の「ヒガンバナ」の章には次の記述がある。
本種はわが邦いたるところに群生していて、真赤な花がたくさんに咲くのでことのほか著しく、だれでもよく知っている。毒草であるからだれもこれを愛植している人はなく、いつまでも野の花であるばかりでなく、あのような美花を開くにもかかわらず、いつも人に忌み嫌われる傾向を持っている。
そうだったのだろうか。今日では、たとえば埼玉の高麗の巾着田などが、彼岸花といいまた曼珠沙華というこの花の、名所として知られている。ひとびとが曼珠沙華を愛でるためにわざわざひとつのところへ出向くなどといったことは、もしかすると、歴史的にみて最近の出来事なのかもしれない。
こうしたことが僕にとって気になるのは、僕が俳句をつづけるそもそものきっかけになった一句が曼珠沙華の句だからだ。その句のことは、いまでもはっきり覚えている。
曼珠沙華車内広告に咲き誇る
中学二年のとき、僕らの学年の国語を教えてくれていた先生が亡くなった。その葬儀の帰りに乗った西武線の中吊り広告に、満開になった一輪の曼珠沙華の大写しにされた写真が使われていた。ちょうど授業の課題で句を用意するように言われていたということはもちろんあったけれど、亡くなった先生に贈る気持ちで書いたのだった。
もちろん、弔意は直接句に書き込まれているわけではない。ただ、そのときの僕には、一句を書くということが、それ自体、僕に言葉の面白さを教えてくれた先生に対する弔いだったというのは、一句がどう読まれるかとは全く別のこととして、間違いのないことだ。そして、この句に書いた「車内広告」というのが、まさしく、先に言及した巾着田の曼珠沙華の花期が到来しつつあるのを知らせる広告だったのである。
だから、僕にとって、句を書くことは、そのはじまりの因果において、曼珠沙華がひとびとによって花として深く愛でられていたことに支えられているのだ。あの広告がなければ僕はそのときあの句を書きえなかったというだけではない。たとえば、僕があの曼珠沙華を「咲き誇る」という言葉で叙述しえたのも、おそらくはすでに曼珠沙華が花として愛でられてきた、その過去に支えられてのことだったはずだ(たとえその過去というのが、さほど分厚いものではなかったのだとしても)。
けれど、「車内広告に」というこの無粋な中八は、なによりその無粋さによって、曼珠沙華が花として愛でられるという出来事を、「それは‐かつて‐あった」という仕方での過去に、つまりは、写真的な過去に置き去る言葉として働いているように思う。
句を書くというのは、弔いに弔いを重ねることなのではないかと、ときに思うことがある。過去をそのつど繰り返し弔うこと、それは、ちょうど写真の写真を撮るのに似て、かつての弔いの言葉をいまふたたび言葉によって弔うことを意味する。このとき、僕たちが手で触れることのできるこの表面において、奥行きがそのまま過去の痕跡となる。それは、天文学的な規模において、より過去からの光がすなわちより遠くからの光であることとも似ている。ところで、単に相対的なものであるにとどまる通常の旅に対して、絶対的な旅というものがもしあるとすれば、それはあの光の旅にほかならないはずだ。弔いに弔いを重ねるとき、ひとは、つねにすでに、言葉の表面に生じた奥行きのこちら側にいる。 奥行きから来る光の先端にいる。ひとは、そんなふうにして、光とともに旅することができるのだ。弔いに弔いを重ねることは、絶対的な旅であるだろう。
2017/2/22
0 件のコメント:
コメントを投稿