2017年9月20日水曜日

●昨日は子規忌 橋本直

昨日は子規忌

橋本直


明治35年9月19日は「子規忌」(獺祭忌、月明忌などとも)、旧暦でいうと8月18日にあたる。ちょうど自分がいろいろ俳句を選している最中なので、この句について少し。

  三千の俳句を閲し柿二つ 子規(明治30年)

一読してこの「三千」という句の数字が具体的に何をさすのかよくわからない。わからなくてよく詠んであるのだからリアルな根拠はいらないように思う。〈たくさん〉ほどの意だろう。漢籍でよくやる「万」は俳諧以来のアンソロジーの定番「〇〇一万句」を想起させて「月並」でいただけないし、あまり多いと数自慢の匂いもするので、数と音の調子できめたものだろうか。読者に対するある種の自分らしさの演出、自己演技を感じもする。

実証的な話をすれば、二説あって、一つには『新俳句』(明治30年)の句稿説。『新俳句』を編集した直野碧玲瓏宛書簡で、『新俳句』の版の話題のあったあと、最後にこの句が付してあり、当然碧玲瓏はそう考えていた。

もう一つは、子規の「俳句稿」明治30年秋所収のこの句の前書「ある日夜にかけて俳句函の底を叩きて」を根拠とするもの。「俳句函」は子規宛に送られてきた投句を収めた箱のことらしい。虚子や『子規全集』16巻の「解題」(担当:池上浩山人)はこちらをとる。

特に池上は後者の方が「自然」(前掲文中)とまで書いているけれども、そこまで言ってよいものだろうか。実際に詠んだときは後者がきっかけだったのかもしれないが、確かに碧玲瓏宛に書いて送ったのだから、そのときはその意味も込めてあったに違いない。要は、子規が同じ句を使い分けたのであって、どっちが正しいとかいうのはナンセンスであるだろう。

子規は句に数字を使うのがけっこう好きなのだが、この「三千~」で始まる句は他に、

 三千の遊女に砧うたせばや (「寒山落木」第二)
 三千坊はなれ\/の霞哉  (「散々落木」第四)
 三千の兵たてこもる若葉哉 (「寒山落木」第五)

がある。

なお、虚子の追悼句「子規逝くや十七日の月明に」では日付のズレがときどき指摘される。子規は19日に日付が変わった頃に亡くなったとされているから、実質18日深夜になくなった。どうやら虚子は、旧暦8月17日の深夜の月を眺めたという意味でこの句を詠んでいる。たまたま新旧の日が近いせいで虚子が命日を間違ってるみたいなことになってしまったのだろう。その理由ははっきりしないけれども、この時なぜ虚子が旧暦の句にしたかは、その後の俳句史を考えると、興味深いことではある。

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