2019年11月25日月曜日

●月曜日の一句〔松本てふこ〕相子智恵



相子智恵







雪道を撮れば逢ひたくなつてをり  松本てふこ

句集『汗の果実』(邑書林 2019.11)所載

人々が〈雪道〉のような「何気ない風景」を気軽に撮影するようになったのは、「カメラ付き携帯電話」の普及からだろう。「写メ」という言葉が現れた2000年以降の文化だ。それまでのカメラは(それを仕事や趣味にする人は別として)旅行やイベントの際に撮るものであって、「何気ない日常風景(それも人が写っていない)」は撮る対象として意識されていなかった。

さらにスマートフォンが生まれ、インスタグラムやTikTokなど、写真や動画がメインのSNSが普及して、この20年ほどで写真や動画に対する意識は変わった。それまでの写真は、あくまで「個人か、その写真に写っている人の範囲を超えないパーソナルな物」だったけれど、いつしか「個人的かつ、知らない人にまで見てもらえる地球規模の媒介物」になった。写真を撮る時の意識は、「後から自分で見て楽しむ」から「SNSにアップロードしたり、メールで送って見てもらって一緒に楽しむ」に変わっている。

掲句、〈雪道を撮れば〉には、そんな「写真(動画)が人々を気軽につなぐ時代」の空気感がある。日常の何気ない〈雪道を撮〉ってみた。SNSにアップしようか、恋人にメールやLINEで送ろうか。撮った瞬間から、自然に写真を誰かと共有することを考えている自分がいる。

しかし携帯画面で今撮った雪景色を確認しているうちに、ふと〈逢ひたくなつてをり〉という直球の恋情に気づく。「本当は写真を送って共有するのではなく、恋人と逢って一緒に見たい。この何でもない雪道を」と思ってしまう。雪は、「雪月花時最憶君(雪月花の時 最も君を憶ふ)」という白楽天の頃から変わらぬ普遍的な親愛の情を思い起こさせる存在である。

〈雪道〉+〈逢ひたくなつて〉のつながりには前述のように歴史的に積み重なった普遍的な抒情がある。しかし、「雪」ではなく〈雪道〉という言葉の放つ「日常感」や、〈撮れば~なつてをり〉の、明確な因果関係は見えないのにオートマティックにつながるレトリックの立ち現れ方には、現代的な感覚がある。

俳句における「新しい抒情のかたち」が見えてくるような一句だ。

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