2019年11月28日木曜日

●木曜日の談林〔西鶴〕浅沼璞


浅沼璞








おやの親夕は秋のとま屋かな   西鶴
自筆短冊(年未詳)

新出の西鶴発句。

『東京新聞』(2019年11月17日付)、塩村耕氏の連載「江戸を読む」99回(西鶴とヌケ)より引用。



連句では一昼夜で二万句をこえた西鶴だが、発句は存外すくなく三百ほど。

掲出作品は見たことがないなぁ、と新聞をつぶさに読んでみると、塩村氏蔵の短冊らしく、写真まである。



その塩村氏の解説にそって句をたどると――

「親の親」は歌語として使われてきた表現で、祖父母または先祖のこと。
 
「夕べは秋の苫屋」は定家の〈見わたせば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮れ〉の本歌取り。
 
見わたせば花も紅葉もなかりけり〉が詠みこまれていないのは談林的なヌケ(抜け)の手法。
 
これらに従うと全体の句意は、「祖父母の代は裕福だったけれど、いまや財産という財産はなかりけり。秋風の身にしむ、苫葺きの粗末な家に住んでいる」といった感じになる。

新聞でも指摘されているが『永代蔵』や『置土産』に描かれた当世の俗世間である。



「親の親」は西鶴の好きな歌語だったらしく、連句でも、
親の親その親の親おもひやり(仙台大矢数・1679年)
親の親安達が原へ尋ね行く(西鶴大矢数・1681年) 
などと詠まれている。
 
また定家の本歌取り(あしらひ)については、西鶴に限らず、談林では枚挙に遑がない。



ところで「夕べは秋の苫屋かな」について氏は、「秋の苫屋の夕べかな」を倒置法的に言い換えたもの、と指摘している。
 
けれどこれは、
見渡せば山もとかすむ水無瀬川夕べは秋となに思ひけむ  後鳥羽院(新古今)
の「夕べは秋」の詠みぶりに近いとみたほうが自然ではないだろうか。「秋は夕暮れ」(枕草子)という固定観念を突っぱね、春の夕霞に美を見出した、その後鳥羽院の詠みぶりに。

となるとこの発句、字面は歌語(雅語)を連ねながら、ヌケのコンテクストによって当世の美を表現しえた稀代の新出句、ということになるのかもしれない。

祖父母の財産はなくなったけれど、夕暮れといえば秋のあばら家こそ趣深いものなのである。

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