2021年10月25日月曜日

●月曜日の一句〔中村安伸〕西原天気



西原天気

※相子智恵さんオヤスミにつき代打。




動物園のパンダの近況を伝えるニュースが流れ、街頭インタビューに答える人たちはみな笑顔なのは、この手の報道が、パンダは「かわいらしい」「愛されている」という前提だからであって、しかしながら、パンダについてかわいらしいとも生物種としてとりたたて興味深いとも思わない自分にとっては、画像と音声がただ流れるだけで気に留めることもないのだが、物語にせよ詩句にせよ、そこに登場する事物、まあ、これは話の流れから、生物と限定してもいいでしょう、それはその生き物の、生物学的属性だけでなく、社会学属性もひっくるめ、みながおおむね共有できる内容をともなって読者に伝わる、あるいは、伝わると信じられている。つまり、パンダは、つねに〈パンダ性〉をまとっている。

ところが、そうした〈パンダ性〉、世の中にゆるーく、ふわーっと共有されている〈パンダ性〉という踏み板をずるっと踏み外すように、読者がよろめいてしまう句もあって。

パンダ眠る野球部員に背負はれて  中村安伸

野球部員が背負えるくらいだから、仔パンダ。したがって、パンダ、かわいい! と、むりくり従来的な〈パンダ性〉に直結させる向きもあろうかと存じますが、さすがにちょっと無理筋、眠っている動物はすべてかわいい! という断定も、同様。

つまり、ニュースでよく経験する〈パンダ性〉からは、この句、ずいぶんと遠いところにある。

わざわざこんなことを言うのは、世間に手軽に流通する〈パンダ性〉に(悪く言えば)倚りかかった造作の句も、まあまあ頻繁だから。

それにしても、この句、物語性を強く匂わせながらも事情のわからなさが際立ち、「夕暮なのだろうか」とか「河川敷のグラウンドっぽいな」とか「どこに帰るんだろう?」とか、断片的な思いが気の抜けかけたサイダーの泡沫のようにふつふつ生起するのみで、当初この句の中で存在として突出していたパンダも野球部員も、やがて消え去り、最後は「眠り」だけが残る。

すやすや。

感情の無重力状態の中に放り出された無定形の眠りを提示するためにだけ、パンダや野球部員が駆り出されたのかと思うと、ちょっと愉しくなる。

掲句は『虎の夜食』(2016年12月/邑書林)より。

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