相子智恵
息白く唄ふガス室までの距離 堀田季何
息白く唄ふガス室までの距離 堀田季何
句集『人類の午後』(2021.8 邑書林)所載
この記事を書くにあたって奥付を見て気づいたが、発行日は2021年8月6日であった。あとがきで著者は、〈境涯や私性は、本集が目指すところではない〉と念を押しつつも、堀田家のほとんどが広島の原爆に殺されていることを明かしている。
この奥付にも象徴されるように、本句集は、俳句という詩で、人間の愚かで非道な歴史を、今を生きる我が事として引き受け、粘り強く思考し、痛みを刻み続ける冷静な一書である。と同時に、現代に生きる一人の作家の熱く縦横無尽な俳句に圧倒され、こちらの熱も純粋に反応して、はらわたが冷たくなったり熱くなったりする、稀有な読書体験をくれる句集であった。
各篇には前書きとして先人の言葉や諺が置かれている。掲句の篇に置かれているのは
〈リアリティとは、「ナチは私たち自身のやうに人間である」といふことだ。(ハンナ・アーレント)〉
すべてを奪われ、殺されるまでの身動きの取れない短い距離の中で、最後にできることは、息をすること、話すこと、唄うこと、祈ること。殺されるまでは、生きていること。
この、腹ががねじ切られるような圧倒的な悲しみと悔しさはなんだろう。しかも、殺す方も「ナチは私たち自身のように人間」なのだ。私達はどちらの側にもなりうるのだ。こんなに哀しくて悔しくてしょうがない「白息」の句を、私は初めて読んだ。
冬の句でもう一つ気になった一篇を。
雪女郞冷凍されて保管さる
毆られし痕よりとけて雪女郞
雪女郞融けよ爐心の代(しろ)として
雪女郞融けたる水や犬舐むる
の四句に作者が付した前書きは〈雪女郞、人權なき者。四句〉
『日本国語大辞典』によると、八朔の日に吉原遊郭で白無垢を着た遊女を「雪女郎」と詠んだ例が『柳多留』にはあるが、『図説 俳句大歳時記』の考証(宮本常一)と例句を読むと、意外にも俳諧には「雪女」はあっても「雪女郎」の句はない。「雪女郎」として詠まれたのは近代に入ってからなのだろう。〈人權なき者〉の境遇に置かれているのは女性ばかりではないが、冷凍保管も、〈毆られし〉も〈爐心の代〉も〈犬舐むる〉も、やはり哀しくて、悔しい。
※「雪」は異体字
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