浅沼璞
西鶴ざんまい#32の若之氏の質問、こんかいは以下の部分について番外編として記してみます。
〈……発句に切れ字がないといけないという考えは古くからあるとして、付句に切れ字があってはいけないという考えは、もしかすると俳諧史においてわりと新しいものだったりするのでしょうか〉
仰せのとおり、古くから〈発句は切字と申すこと御入候はで叶はず候。その切字なく候へば平句に相聞えてあしく候〉(連歌至宝抄)とあります。
〈……発句に切れ字がないといけないという考えは古くからあるとして、付句に切れ字があってはいけないという考えは、もしかすると俳諧史においてわりと新しいものだったりするのでしょうか〉
仰せのとおり、古くから〈発句は切字と申すこと御入候はで叶はず候。その切字なく候へば平句に相聞えてあしく候〉(連歌至宝抄)とあります。
一方、付句の切字に関しては後年〈平句に切字を嫌ふ〉(芭蕉庵伝書)などといわれたようです。
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しかし実作面をみると、談林俳諧は言わずもがな、蕉門とて平句の切字が散見されます。何故でしょう。
芭蕉の有名な口伝に、〈切字に用ふる時は四十八字皆切字なり。用ひざる時は一字も切字なし〉(去来抄)がありますが、これを逆に言えば、切字として〈用ひざる時は〉平句に切字あるもよし、ということでしょうか。
恰好の例が『冬の日』第三歌仙(名オ3句目)にあります。
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恰好の例が『冬の日』第三歌仙(名オ3句目)にあります。
おかざきや矢矧(はぎ)の橋のながきかな 杜國
ご覧のとおり「や・かな」がダブル使用されています。
三河・岡崎の宿の、東海道一長いという矢矧川の橋を詠んでおり、「や」は軽い間投助詞として読めますが、「かな」はどうでしょうか。
後年、高桑蘭更はこの句をめぐって、〈平句の哉(かな)の長句にても短句にても一座一句はいだすことなり。長句の哉は発句の哉と差別有ていだすべきか〉(俳諧七部解初篇冬の日)と述べています。
いうまでもなく平句には長句/短句があります。とりわけ長句は発句と同じ音数律をもちます。
仮に一座一句「かな」の使用が許されるにしても発句の「かな」と区別すべきか、という問題提起でしょう。
ひるがえって発句と異なる音数律をもつ短句はどうだったのでしょう。
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ひるがえって発句と異なる音数律をもつ短句はどうだったのでしょう。
無条件で一座一句「かな」を使用できたのでしょうか。
じつは短句の「かな」をめぐっては、有名な貞門・談林論争で興味深いやり取りが残されているのですが、長くなりそうなので、次回にまわそうと思います。
じつは短句の「かな」をめぐっては、有名な貞門・談林論争で興味深いやり取りが残されているのですが、長くなりそうなので、次回にまわそうと思います。
「なんや後回しかいな」
後回しじゃなくて、トリですって。
「また、うまいこといいよる」
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