弥生の鰒をにくや又売る 打越
山藤の覚束なきは楽出家 前句
松に入日ををしむ碁の負(け) 付句(通算50句目)
『西鶴独吟百韻自註絵巻』(1692年頃)
【付句】二ノ折・裏14句目(綴目)。 碁(雑)=勝負事、闘争の範疇。 藤→松(類船集)。
【句意】松に入日を惜しむのは、(時間切れで)碁に負けるのを惜しむからだ。
【付け・転じ】前句の、生魚に執着する出家者の「覚束なさ」を、碁に執着する「覚束なさ」に見立て替え、そこから時間切れを惜しむ勝負の場へと飛ばした。
【自註】此の付かた、「松」は「藤」によせて正風の俳体なり。「入日」は*うちかゝりて、暮を惜しみし*心行(こゝろゆき)也。出家の身として、当座(たうざ)慰みの碁のまけなどに心を残すは、我が身の*一大事、仏の道は外(ほか)になるべし。是ぞ「覚束なき」所、はなれがたし。
*うちかゝりて=夢中になって。 *心行=「入日」の語に見込まれた「心持」「風情」(乾裕幸『俳諧師西鶴』1979年)。 *一大事=悟りを開くきっかけ。
【意訳】この付け方は、「松」を「藤」によせて連歌風の伝統的な俳体である。「入日」は碁に打ち耽って(早くも)日が暮れるのを惜しんだ心持である。出家の身として、座興に過ぎない碁の勝負に未練を残すのは、自分の悟りを開く仏道を外れてしまうであろう。これでは「覚束なき」心を離れ難い。
【三工程】
(前句)山藤の覚束なきは楽出家
当座慰みなれど碁の負 〔見込〕
↓
【句意】松に入日を惜しむのは、(時間切れで)碁に負けるのを惜しむからだ。
【付け・転じ】前句の、生魚に執着する出家者の「覚束なさ」を、碁に執着する「覚束なさ」に見立て替え、そこから時間切れを惜しむ勝負の場へと飛ばした。
【自註】此の付かた、「松」は「藤」によせて正風の俳体なり。「入日」は*うちかゝりて、暮を惜しみし*心行(こゝろゆき)也。出家の身として、当座(たうざ)慰みの碁のまけなどに心を残すは、我が身の*一大事、仏の道は外(ほか)になるべし。是ぞ「覚束なき」所、はなれがたし。
*うちかゝりて=夢中になって。 *心行=「入日」の語に見込まれた「心持」「風情」(乾裕幸『俳諧師西鶴』1979年)。 *一大事=悟りを開くきっかけ。
【意訳】この付け方は、「松」を「藤」によせて連歌風の伝統的な俳体である。「入日」は碁に打ち耽って(早くも)日が暮れるのを惜しんだ心持である。出家の身として、座興に過ぎない碁の勝負に未練を残すのは、自分の悟りを開く仏道を外れてしまうであろう。これでは「覚束なき」心を離れ難い。
【三工程】
(前句)山藤の覚束なきは楽出家
当座慰みなれど碁の負 〔見込〕
↓
仏の道は外に碁の負 〔趣向〕
↓
松に入日ををしむ碁の負 〔句作〕
楽出家の「覚束なさ」を、その場限りの碁の勝負のせいと見て〔見込〕、〈どれほど夢中になっているのか〉と問いながら、仏道の「一大事」を外れるほどであるとし〔趣向〕、「藤→松」と縁語をたどって時間切れを惜しむ「入日」の場を設定した〔句作〕。
やっと五十韻にたどりつきました。
「ご苦労さんやな。他人の独吟、あれこれ穿鑿して何がおもろいのか、わからん」
↓
松に入日ををしむ碁の負 〔句作〕
楽出家の「覚束なさ」を、その場限りの碁の勝負のせいと見て〔見込〕、〈どれほど夢中になっているのか〉と問いながら、仏道の「一大事」を外れるほどであるとし〔趣向〕、「藤→松」と縁語をたどって時間切れを惜しむ「入日」の場を設定した〔句作〕。
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「ご苦労さんやな。他人の独吟、あれこれ穿鑿して何がおもろいのか、わからん」
わからないから、面白いんですよ。
「また禅問答みたようなこと言いよる。当世・政治屋のS構文かいな」
私は政治家ではないので政治屋のようなことは申しません。
「その言いようがSや言うとるんやで」
はい、その誤解は誤解のまま受け取っておきます。
「は? これはあかんがな」
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