2026年1月9日金曜日

●金曜日の川柳〔ながたまみ〕西原天気



西原天気

※樋口由紀子さんオヤスミにつき代打。



おへそから悲しくなると鳴る和音 ながたまみ

からだというのは、悲しいとき、いかにも順当な反応を見せるばかりではない。悲しいとき、悲しい表情で涙する、というばかりでないのだ。臍から和音が鳴ることだってある、と、この句は言っている。この反応は、ちょっと間抜けで場違いで突拍子もない。周囲に人がいたら、不謹慎との誹りを受けるかもしれない。疎んじるような冷たい目を向けられるかもしれない。

で、どんな音、どんな和音なのだろう。そういう興味はとうぜん湧く。悲しいからといって、短調の和音とも限らないと思うが、長調だと、不謹慎さんが増す気がする。ここはそれよよりも、単音ではなく和音というころがミソで、単音だとおならに間違われかねない(尾籠で失敬)。

ところで、構造上になんらかの制約を受ける定型では、伝達という機能上で齟齬ないし不備がしばしば起きる。などと、しちめんどくさい言い方をしてしまうが、つまり、《おへそから鳴る和音》と読むのがしぜんだとは思うが、《おへそから悲しくなる》という事態も、ここにあるとしたら、和音は《おへそ》からでなくともかまわない。「つまり」以降も、しちめんどくさいことには変わりない(おおいに反省)。

で、どう読むか。あくまで散文的な意味の「どう」なわけですが、この手の問題が起きたときは、「どっちでもいい」がとりあえず答えになる。あるいは「どっちも」。

この和音は、ひとまず(一読して受け取ったとおり)おへそから鳴る。でも、おへそから悲しくなることもあるはず。さらにいえば、悲しいから和音が鳴るのではなく/だけではなく、和音が鳴ったから悲しいということもいえる。

結論として、この句の事態・事象は、かなり可笑しい。可笑しいから悲しい。

掲句は『川柳ねじまき』第1号(2014年7月20日)より。

2026年1月7日水曜日

●浅沼璞 西鶴ざんまい #88

 

西鶴ざんまい #88
 
浅沼璞
 

  朝食過の櫃川の橋      打越
 老の浪子ないものと立詫て   前句
  儒の眼より妾女追出す    付句(通算70句目)
『西鶴独吟百韻自註絵巻』(1692年頃)

【付句】
三ノ折・裏6句目。  恋=妾女(てかけ)。めかけ。  儒の眼(じゆのまなこ)=儒教的な見地。  ※〈上の儒の音に応対して、セウヂョと訓むのではあるまいか〉(訳註西鶴全集)

【句意】
儒教的な見方によって(子のできない)妾を家から追い出す。
※当時は独身でも妾を雇った。〈独り寝覚のさびしきに、此の夏より妾女を尋ねける〉(武道伝来記)。

【付け・転じ】
前句の老いた乞食を、妾女を雇う親爺に見替え、その不妊を詫びる態として転じた。

【自註】
年ひさしく*道者㒵して見台に眼をさらし、儒書の**口談などして、中/\物がたき親仁、「子孫のなき事、***先生のをしへに叶はず」迚(とて)、子のない姿を見定め、ひとりの女を暇(いとま)遣はしける付けかた也。

*道者㒵(みちしやがほ)=専門家のような顔付。  **口談(こうだん)=〈「講談」の誤か〉(定本西鶴全集)。  ***先生=〈「先聖」の誤か〉(定本西鶴全集)。

【意訳】
年月久しく専門家ヅラして書見台を控え、儒教本の講談などして、なかなか厳格な親爺、「子孫のないことは先達の教えにかなわない」とて、子ができない様子を見極め、ひとりの妾に暇を出した付け方である。

【三工程】
(前句)老の浪子ないものと立詫て

  道者㒵して妾女見定め  〔見込〕
     ↓
  儒書の教へに叶はぬ妾女 〔趣向〕
     ↓
  儒の眼より妾女追出す   〔句作〕

前句の老いた乞食を、妾女を雇う親爺に見替え、その女を見定めているとし〔見込〕、〈妾女の不妊をどのように考えているか〉と問うて、「儒の教えに則さない」とし〔趣向〕、儒教的見地から「妾に暇をやる」とした〔句作〕。

 

これまでの自註でも〈かたい親仁〉というのが何回か出てきましたね。

「そうやったか、またよう調べはるな」

はい、オモテ8句目〈子供に懲らす窓の雪の夜〉の自註にはスパルタ教育をする「かたい親仁」、つまり厳格な教育パパ(意訳では「親父」)が登場。

二ウラ3句目〈和七賢仲間あそびの豊か也〉の自註では唐土の「かたい親仁ども」、つまり中国の厳格な賢人(意訳では「親爺」)たちが描かれています。

「そうか、知らんうちに作者の人柄がでてしまうんやな」

えっ? 厳格、ですか……。