2010年2月12日金曜日

●ホトトギス雑詠選抄〔6〕梅

ホトトギス雑詠選抄〔6〕
春の部(二月)梅

猫髭 (文・写真)


我れ去れば水も寂しや谷の梅 渡辺水巴 大正2年
朝靄に梅は牛乳より濃かりけり 川端茅舎 昭和12年
梅白しまことに白く新しく 星野立子 昭和13年
来て見れば来てよかりしよ梅椿 星野立子 昭和18年
縁に手をつきて簷端の梅仰ぐ 星野立子 昭和19年
紅梅や人の若さの妬まるゝ 美智子 昭和4年

渡辺水巴(明治15年~昭和21年)は、内藤鳴雪門下で、明治41年10月号の第一回「ホトトギス雑詠」の巻頭12句の栄を26歳で浴し、虚子の雑詠代選も勤めた。虚子句集の選も担当。
掲出句の「水も寂しや」など、独特の情緒を持っている。

水無月の木蔭によれば落葉かな

櫛買へば簪がこびる夜寒かな

窓に月のありけり雛は既に知る

日輪を送りて月の牡丹かな

夜濯ぎの心安さよ螢とぶ

これらは虚子が『進むべき俳句の道』の最初の俳人論「渡辺水巴」に挙げた句だが、「子規居士の主張と、今日の我等の俳句ならびに俳句に対する主張と著しく相違しているのは主観的なることである」という子規との違いを鮮明にする意図を背景にした引用である。最初から虚子は「客観写生」を説いたわけではなかった。子規の「ただありのままの事物をありのままに」(『俳諧大要』)という論を、「客観の写生をおろそかにしないで、どこまでも客観の研究に労力を惜まないようにする」修学の言葉に替えて踏まえた上での新しい「主観的の句」に到達する道筋を先ず説いたのである。

川端茅舎(明治30年~昭和16年)は、藤島武二絵画研究所で絵を学び、岸田劉生に師事して春陽会に入選するほど画家として頭角を現わすが、肺患のため断念、俳句に専念し、虚子から「花鳥諷詠真骨頂漢」と呼ばれたほどの愛弟子。肺患のため44歳で逝去。

余談だが、茅舎亡き後、野見山朱鳥の登場に、虚子は茅舎と似た天分を感じ、その第一句集『曼珠沙華』の序に「曩(さき)に茅舎を失ひ今は朱鳥を得た」と書いたが、朱鳥も茅舎と似て画家を志し、病を得て俳句に専念した経緯を持つ天才だった。その絵は宮崎美術館で見られる。燃えるような暗い赤が特徴的な絵である。朱鳥の鑑賞文の切れ味も素晴らしい(註1)

茅舎の掲出句の元句の「牛乳」にルビはないが、山本健吉編『最新俳句歳時記 春』に「ちち」とルビがある。五七五の定型律に納まるにはこの訓みしかない。詩や小説では常套だが、わたくしは俳句は外連の無い表記の方が俳句に適っていると思うので、「乳」でいいと思う。読者が「牛乳」と取れば「朝靄」は牧場の朝の景になるだろうし、たらちねの母の「乳」を連想する者には、母の温もりの残る幼き日の朝を思い浮かべるだろう。読者を信じていいのだ。

虚子は「選は創作なり」と言った。もとより諷詠は創作である。しかし、読むことも一種の創作なのだ。作者がこういうことを表現したかったということには一理ある。しかし、それは一理でしかない。表現は何であれ、常に作者を裏切る。表現者は表現してみなければ自分が何を表現したかったかを知ることは出来ない。俳句も詠んでみなければ自分の言葉が人に伝わる形に成ることは無い。しかし、表現された途端、それは作者から離れる。離れることで、読者(作者も自作の最初の読者である)の自由な解釈に表現は委ねられ、作者の所有物から読者の所有物に変わる。そして、読者が作者の思い以上に作品を新しい地平に飛び立たせる時、その解釈は一種の創作となる。その時、作品は初めて読者を得たことになる。ああ、自分はそういうことを表現してしまったのかと驚く読みに出会った時、作者の創作は完成するのであり、それまでは俳句は未完の作品としてまだ見ぬ読者を待つのである。

朝靄に梅は乳より濃かりけり

この一句は、このように読むことでわたくしの一句になる。天才茅舎の独特の句の世界は「茅舎浄土」と呼ばれた。

約束の寒の土筆を煮て下さい 茅舎 昭和16年

と並んで(句集『白痴』中「二水夫人土筆摘図」を見ての連作の一句)、わたくしには「茅舎浄土」の一句である。
勿論、こういう「私有化する読み」は例えばの話で、虚子のように本当に自分が選んだ雑詠は自分が詠んだものだとまで入れ上げるつもりはない。それはそれで凄いが。

その茅舎が、

紫の立子帰れば笹子啼く 茅舎

と挨拶句を詠んだ星野立子(明治36年~昭和59年)は、虚子の次女であり、虚子には八人の子供と十九人の孫がいたが、句作を「私の方から勧めたのは、星野立子一人である」(『晴子句集』序文)とあるように(註2)、虚子一族では虚子も「写生といふ道をたどつて来た私はさらに写生の道を立子の句から教はつた」(『立子句集』序)と脱帽するほどの天分を持っていた。虚子の宝石を原石のうちに見抜く目は凄い。

掲出句を読めばわかるが、虚子が「自然の姿をやはらかい心持で受け取つたまゝに諷詠する」と評したそのものである。

梅白しまことに白く新しく

「付き過ぎ」といった御託は引っ込むくらい、というか、そういうことをあげつらうのが野暮なほど「ただありのままの事物をありのままに」詠んだだけであるが、こんな風に詠んで句になることに驚く。眼前に満開の白梅が光る。

二句目は「梅椿」という梅の種類があるわけではない。「梅も椿も」という意味である。これも「季重ね」がどうこうという口先を「来て見れば来てよかりしよ」のあっけらかんとした喜びがチャックをかけてしまう。「梅椿」と言えば、

庭掃除して梅椿実朝忌 立子 昭和8年

これなど季語が三つも季ぶくれているが、季語同士が喧嘩をしていない。「ただありのままの事物をありのままに」「自然の姿をやはらかい心持で受け取つたまゝに諷詠する」だけだから、俳句自慢の邪気が一切ないからだろう。

三句目は「簷端(のきば)」と訓む。高浜年尾が、父は住むところに注文を付けることはなかったが、隠居部屋を建てるときだけは「縁側を広くしてくれ」と一度だけ注文を付けたそうである。立子が父の部屋の縁側に手をついて、梅を仰いで父と話しているような景である。

美智子は、根室の俳人とのみしか判らず。識者の教えを乞う。
掲出句は「疎まるゝ」ではなく「妬まるゝ」であることが「紅梅」のあでやかさと相俟って艶がある。波多野爽波が愛誦した句でもある。



虚子は膨大な「ホトトギス雑詠選」を残しているが、「ホトトギス五百号記念」の刊行物の一つとして、自句を除いて「ホトトギス」の明治41年10月号から昭和12年9月までの雑詠約4万句のなかから3千余句を選抜して中間選集を昭和17年に出している。これが現在絶版に近い朝日文庫の『ホトトギス雑詠選集』全4巻である。虚子は更に厳選して決定版を出したがったが、これは時間的に不可能で、中断されたまま虚子は老年になってしまい、昭和26年3月号から長男の年尾に雑詠選を譲っていた。

年尾は、それ以降も優れた俳人が続出していることから、中断されているのを残念に思い、昭和12年以降から昭和26年までの続編を父虚子に打診した。77歳の虚子は熟考の末、大変な労力を要するところであるがと賛意を表し、昭和27年1月号から「虚子選ホトトギス雑詠選集予選稿」を、昭和34年の死によって打ち切られるまで続けた。それが3年後の昭和37年に刊行された、昭和12年10月号から昭和20年3月号までの再選を収めた『虚子選ホトトギス雑詠選集』(全2巻、新樹社)であり、これが虚子の最後の刊行物になった。

したがって、戦前までで、戦後の俳人は結局虚子の死によって再選されることなく終わったため、虚子の「ホトトギス雑詠選集」は昭和17年と昭和37年の計6冊が定本となり、わたくしの連載もこの6冊を定本とし、つどの「ホトトギス雑詠全集」を参照している。

この虚子最後の『虚子選ホトトギス雑詠選集』の年尾の序文に、虚子の雑詠選にかける思いを表すエピソードが載っている。
当初私は父に毎月二月分づゝの発表を希望した。ところが父は色を作して云つた。
「父さんにそんなに努力を要求するのか。」
私は父のその言葉に驚いた。かほど迄に父は大きな努力を払つて予選して居つたのであつたのかと、選する父の労力を軽く見て云つた私の言葉を恥ぢた。
池田澄子は、キュリー夫人の使用した計算用紙の彼女の指痕が未だにガイガー探知機に反応することを知って「<入れ上げる>ということはこういうことだ」と述べているが(註3)、虚子の「ホトトギス雑詠選」の営為にもまた同じ思いを感ずる。

(註1)野見山朱鳥『忘れ得ぬ俳句』(朝日選書、昭和62年)。名著。
(註2)虚子の末っ子上野章子の回想「父と私」(虚子全集月報)に寄れば、16歳のとき、マルセーユまで虚子と二人で船旅している中でノートを渡され俳句を作ってごらんと勧められ、「玄海の大波の上に春の雨」と詠んで◎を貰ったことが俳句をやる動機だと書いているから、虚子の言葉を字義通りに取る事は出来ないが、立子が別格だったのは間違いない。
(註3)『池田澄子句集』所収「キュリー夫人の指痕」(ふらんす堂、現代俳句文庫29、平成7年)。

1 件のコメント:

猫髭 さんのコメント...

野見山朱鳥の『忘れ得ぬ俳句』は天気さんのアマゾンのロープライスで387円ですが、483ページもあるのに古本屋で500円以上は見たことがない廉価で売られています。ところがギッチョン、惚れ惚れする鑑賞というのには滅多に会わないのですが、いや溜め息が出るほど惚れ惚れする鑑賞です。