春の部(二月)春寒
猫髭 (文・写真)
春寒やぶつかり歩く盲犬 村上鬼城 大正6年
穴掘りて人沈み行く春寒し 田中王城 大正9年
そこらまで出て春寒をおぼえけり 田畑三千女 昭和4年
春寒や乞食姿の出来上がる 中村吉衛門 昭和8年
今日19日は、二十四節気の「雨水」。陰暦正月の中、「立春」から十五日後に当たる。「気雪散じて水と為る也」(『暦林問答』)、「陽気地上に発し、雪氷とけて雨水となれば也」(『暦便覧』)と言われるが、それは明治5年までの旧暦の話で、新暦の今週は、霙あり雪ありと、まさに「春寒し」という日が続いた。この寒さの中で一昨日鎌倉の段葛の桜がほころびはじめたのにも驚いたが、今朝の温度は6:30で3℃。小綬鶏の鳴き声が谷戸の方からチョット来イチョット来イとけたたましい。朝焼けが綺麗だから、昨日よりは温かくなるかも知れない。
村上鬼城(慶応元年~昭和13年)は、若くして耳を患い重度の障害者だったことから、その俳句もそこに関連付けられて、「ぶつかり歩く盲犬」も自画像として読まれやすいが、作品と作家の境涯を過剰に短絡するのは読む者の貧困につながる。特に鬼城の場合は、境涯俳句や療養俳句とは一線を隔している。どこが違うかというと、自分の障害にもたれかかっていないので、読者にももたれかからない。鬼城に境涯句俳人というレッテルを貼ることは、作品の創造的な読みにはつながらないのではないか。
田中王城(明治18年~昭和14年)の句は、自分の墓の穴を掘っているようなブラック・ユーモアすら漂う句で、虚子も新年早々一体何を考えておるのかという、
酒もすき餅もすきなり今朝の春 虚子
といった脱力系の句を詠むが、こういった何も言っていないが、不思議な景の句も飄々と採る。
田畑三千女(明治28年~昭和33年)の句も「そこらまで出て」と無造作に詠んで、俳句になっている只事ぶりに驚く。こういう多くを語ろうとしない、言い換えれば、いろいろ詰め込んで読者を説得しようとしていない、すっと肩から羽織を外す仕種のように肩の力を抜いた句というものは、何も語らない分、こちらも何も言う必要がなく、出されたものを一服のお茶のように味わえばよいというような佇まいを持つ。
中村吉衛門(明治19年~昭和29年)の句も「乞食姿の出来上がる」の「出来上がる」に、歌舞伎役者の役作りの一齣が鮮やかに決まる一句で、この句は名前も作品の内という一句になっている。「大播磨」と呼ばれた名優吉衛門の春寒の乞食姿である。さぞかし、うらぶれながらも花のある乞食姿だろうと歌舞伎ファンならずとも想像する楽しみを名前から手渡される。
俳句に限らず、初めて出会う作品は何であれ無名にひとしい。この場合、人の好奇心は作品主義の目で見られる。そしてその作品に惹かれたとき、人は誰がこれを作ったのだろうという作家主義の目を持つ。もっとこの作家の作品に出会いたいという思いが、やがて、次の無名の作品へ駆り立て、その蓄積がその人の俳句の吃水線の深さとなる。
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俳句には俳句特有の言葉や言い回しがあり、俳句を始めた頃、「春寒」と書いて「はるさむ」と訓読みするのだと知った時は違和感を覚えた。訓読みなら「春寒し」であり、「春寒」と表記するなら「春寒料峭」、いわゆる「春は名のみの風の寒さや」(『早春賦』)といった意の四字熟語があるので「シュンカン」としか音読み出来ないのではないかと思ったからだ。わたくしは「新明解国語辞典第四版」を句会には必ず持参するので、確認すると、やはり辞書には「春寒(シュンカン)」しか載っておらず、【春先の寒さ。〔主として、手紙文の書き始めに使う〕「春寒料峭の候」】と書いてあり、形容詞ク活用の「寒し」の語幹「さむ」と併せて名詞化した「春寒(はるさむ)」という造語が舌足らずな日本語に思えた。まさか童歌の「大寒小寒、山から小僧が飛んで来た」に語呂合わせをしたわけではあるまいが・・・。
今は「春寒(はるさむ)」には慣れた。それぞれの世界には業界用語というか、符牒が付物で、これもまた俳語という符牒なのだと合点したからだ。「春寒」と書いて「はるさむ」と誰が読ませたか、誰が最初に詠んだのか、なぜそれを俳語として受け入れられるかが、今回の話である。
昨年末に出た西村睦子の労作『「正月」のない歳時記-虚子が作った近代季語の枠組み』(本阿弥書店)には、「春暁」と「春潮」の項目で、堀井憲一郎の「ホリイのずんずん調査」顔負けの展開を見せる「春が新年と決別し、本来の春を意味するようになり、何でもシュンと発音するその新鮮な響きが好まれ、明治30年代から流行が始まった。「春暁」、「春光」「春日」「春昼」、「春陰」「春霖」、「春潮」、「春泥」、「春眠」、「立春」などの一連の季語が続く。この「シュン」ブームの仕掛人も虚子である」という、その虚子が、なぜ「春寒」という「シュン」好みの季題を、わざわざまげてまで「ハル」にこだわったのだろう。
吉衛門の句など、「春寒」を「シュンカン」と読めば、「俊寛」を連想して面白いが、確かに「はるさむ」と読んだ方が「はる」という耳になじむ言葉で景が引き寄せやすい。
虚子編『新歳時記』には「春寒(はるさむ)」という季題のみで、傍題はない。したがって、訓読み以外はないということになる。実は歳時記で類似の題を「傍題」としてまとめたのも虚子に因を発したものらしく、虚子は傍題も取捨選択が必要と述べているので、「春寒」から傍題を全く省く独断から、「春寒(はるさむ)」という季題を作ったのは間違いなく虚子ではないかと思えた。
虚子の解説は「春が立つて後の寒さの謂である。余寒といふのと大体は同じであるが言葉から受ける感じが違ふ」とあり、どう違うのかは書いていない。
では、「余寒」はどうかというと、「寒があけてからの寒さをいふのである。春寒といふのとは心持に相違がある。残る寒さ」と、こちらは「残る寒さ」という傍題がある。
「春寒」は「余寒」と言葉から受ける感じが違い、「余寒」は「春寒」と心持ちが違うという。虚子は、あとは例句を見ればわかるといった感じで、最小限しか言わない。
山本健吉編『最新俳句歳時記』では「春寒し」が竪題で、横題(傍題)として、「料峭」「春さむ」「春寒(シュンカン」の三つがあるから、「春寒」をどう読むかは読者の恣意にまかされることになる。もっとも、「ホトトギス」に投句する以上、皆「はるさむ」で詠んでいると思われるが。
歴代の虚子選を見ると、いかにも客観写生という句もあるが、「春寒」という体外の感覚である抽象的な「時候」を季題に立てて、「料峭」という、より肌身に近い具体的な体表感覚を詠むというように「春寒」は詠まれている句の方が興趣があって印象に残る句が多い。掲出句の「ぶつかり歩く」「人沈み行く」「そこらまで出て」「乞食姿の出来上がる」というように。
「ホトトギス」の重鎮、富安風生編『歳時記』は、ふつつかな日本語に五月蝿い点ではゴジラが火を吹くように怒るから「春寒」はどうか見ると、「春寒(はるさむ)」が竪題で、しかし、横題は、「春寒(シュンカン)」「余寒」「料峭」「残る寒さ」を置いて「春寒」に「余寒」を組み入れている。「春寒と余寒は、ほぼ同じことだが、語感に、微妙な差がある」とコメントがあるが、耳目を集めるのは、
春寒を場合により特に「しゅんかん」と読ませて悪いわけでもないが、みだりにすべきではない。と、風生節をぶっていることだ。山本健吉のニュートラルな解釈も認めつつ虚子を立てているといった物言いであるのが面白い。例句も、虚子、碧悟桐、鬼城、草城と並べるところなど、風生でなければ出来ない芸当だろう。
虚子に対するしがらみがなく、しかも虚子の言わんとしたことを的確に述べていると思えるのが、水原秋桜子・加藤楸邨・山本健吉監修の『カラー図説日本大歳時記』(講談社)の「春寒(はるさむ)」の解説を書いている飯田龍太である。傍題は「春寒し・寒き春・春寒(シュンカン)・料峭」。全解説を引く。
古くから用いられている春寒料峭というあの感じである。料峭は春風(東風)の肌にうすら寒く感じさせるさま。つまり、余寒と同じ内容であるが、同じ寒さでも、春の一語にこころを寄せたところがある。また、春さむ、春寒しも全く同義であるが、春寒(しゅんかん)と音読した場合とではそこにおのずからひびきの強弱があり、表現効果に剛柔の微妙なちがいが生まれる。例句の選も永井荷風から「ホトトギス」からの選も多いが、虚子の句は無い。
これをもっと端的にまとめたのが、平井照敏編『季寄せ』(NHK出版)。傍題は「春寒し・寒き春・春寒(しゅんかん)・春の寒さ・料峭」。
余寒と同じことだが、余寒は寒さの方に中心があり、春寒は春の方に中心がある。まだ寒くはあるが、春の気持はたしかに感ぜられる、ほのかな明るさ。例句は一句のみ。
春寒し水田の上の根なし雲 河東碧梧桐
ここで、最初に戻って大正4年発行の最初の『ホトトギス雑詠集』(四方堂、50銭)で、誰が最初に「春寒(はるさむ)」と詠んでいるのかを調べてみる。第一集は、まだ旧暦のままで「春寒」の項目には「余寒」の句も入っている。一句だけあった。
春寒や砂より出でし松の幹 虚子 大正2年
虚子本人である。次に虚子が「春寒」の句を残すのは12年後の、
春寒のよりそひ行けば人目ある 虚子 大正14年
である。
おそらくこういうことだと思う。
「春寒や」と初めて虚子が詠んだ時、「シュンカン」という響きより「はるさむや」の方が、明治30年代に自分が仕掛けた「シュン」という響きが新鮮だと感じたように、大正2年の自句の「はるさむ」の方がより春に添うように感じられて、この句を、大正4年の第一集に、「鎌倉を驚かしたる余寒かな 大正3年」と並べて「春寒」に載せたのである。「春寒」の項に、同じような意味だが、「ヨカン」と「はるさむ」という剛柔の組合せを置いて、詠み分けると同時に読み分けたのである。
そして、掲出句のように、第二集で鬼城の「盲犬」の句が、第三集で王城の「穴掘りて」の句が出て、虚子は「春寒」の季題が秀句を得る事で完全に俳語として認められたことを了解したのである。
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≫上田信治【俳句関連書を読む】西村睦子『「正月」のない歳時記』
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