2010年4月3日土曜日

●ホトトギス雑詠選抄〔12〕花冷・下

ホトトギス雑詠選抄〔12〕
春の部(三月)花冷・下

猫髭 (文・写真)


承前

もともと俳句は和歌の道から生まれ、和歌の雅な「四季の詞(ことば)」を「竪題」とし、俳諧以後の俗の傍題を「横題」として歳時記が編まれたから、「季題」と言っても、京都を中心とする歌の伝統を踏んでいる。「花冷」もそうである。「時雨」と言えば京の北山と同じで、「花冷」に「花篝」と言えば、虚子が「京都祗園の花篝は殊に名高い」と歳時記に特筆したように円山公園の枝垂桜が趣きの深いものとされた。

いずれの歳時記も「花冷」には京都が引き合いに出される。しかし、これだけ雅な季題でありながら、花冷えの和歌を寡聞にして知らない。

春たてば花とや見らむ白雪のかゝれる枝にうぐひすの鳴く 素性法師
霞たち木の芽も春の雪ふれば花なき里も花ぞちりける 紀貫之

といった雪を花と見立てる歌や、

またや見む交野(かたの)の御野(みの)の櫻狩花の雪散る春のあけぼの 藤原俊成
さくら色の庭の春風あともなし問はばぞ人の雪とだに見む 藤原定家
庭の面は埋みさだむる方もなし嵐にかろき花の白雪 津守國助
泊瀬川(はつせがは)凍らぬ水に降る雪や花吹きおくる山おろしの風 細川幽斎

といった花を雪に見立てた歌は枚挙に暇が無いにも関わらず。

山本健吉も『カラー図説日本大歳時記』の解説で、わたくしと同じ疑問を感じたのだろう。「花冷えという言葉自身、京都で言い出したのではないかと思う」と述べた後で、
古俳書には見えず、明治の俳書にも見えないから、大正以降になって盛んに言い出した季語ではないかと思う。だが、華やかで陽気な花の季節におそってくる意外な現象の名として、きわめて適切であり、俳人たちに愛用されている。
と結んでいる。山本健吉が最初に掲げた例句は、

花冷に欅はけぶる月夜かな 渡辺水巴

であり、水巴と言えば「ホトトギス」初期の立役者の一人である。虚子に花冷えの句はない。だが、選は多い。明治41年の雑詠選開始から辿ると、大正4年、8年、9年と「花の冷」で詠まれた句が並び、

山影をかぶりて川面花の冷 西山泊雲 大正9年

は「ホトトギス」6月号の巻頭句の一句である。
これは、西村睦子『「正月」のない歳時記』においても、初出は、明治37年の松瀬青々句集『妻木』に載った、

花の冷雨寂々とふりにけり 青々 

とされ、「花の冷」として最初は詠まれていたということがわかる。子規に師事した青々は膨大な個人句集『妻木』を編んだ大阪の俳人で、青々に師事した右城暮石、暮石に師事した茨木和生の師弟は、師青々の詠んだ季語は当然として、詠まない季語にも挑戦するといった試みをしていたと記憶する。暮石には、

我が家まで勤めもどりの花の冷え 右城暮石 昭和15年

があるが和生句は、全句集には目を通したつもりだが、見当たらなかった。こういう美し過ぎる季語は和生句には似合わないという気もするが。

「花冷」で詠まれた句が出るのは、

花冷の顔うちよせし篝かな 野村泊月 大正15年

からである。野村泊月(のむら・はくげつ)は虚子が命名した銘酒「小鼓」の西山酒造場の主で「ホトトギス」の重鎮、西山泊雲(にしやま・はくうん)の弟で『進むべき俳句の道』でも兄弟で紹介されている。

泊月の句は勿論京都円山公園の枝垂桜の夜桜である。そして、昭和2年の素十の句が「ホトトギス」6月号の巻頭を飾る「花冷」の句の最初の句ということになり、以降「花冷」の季題でほとんどが詠まれている。

こう見て来ると、「花冷」という季題を虚子は詠んでいないが、西村睦子が、
〔ホ雑詠〕では、「花冷」の項目を立て大正4年~昭和9年に47句。両歳時記に載ったことで大きな題になった。
と記したように、虚子が「花の冷え」を「花冷」という題として立てたことで定着した季題であると言えるだろう。

山本健吉もわたくしと同じように、和歌の伝統を踏まえた季題と勘違いするくらい、虚子がそのようにも見える「伝統」を作ったのだという、これは一つの事例である。虚子に言わせれば、勘違いしたのはそっちの勝手ということになるだろうが、こちらとしては、まるで王朝時代から続いている「伝統」のような雅な「季題」の顔つきに、なるほど「伝統」というのはこういう風に作るのかと感心する顔つきをするしかない。

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