2010年6月6日日曜日

●ホトトギス雑詠選抄〔21〕鰹・下

ホトトギス雑詠選抄〔21〕
夏の部(六月)鰹・下

猫髭 (文・写真)


承前

初鰹の句と言えば、人口に膾炙している句は、山口素堂の、

目には青葉山ほとゝぎすはつ鰹

だろう。俳句としては、夏の季語三連発と季膨れている句だが、唯一の例外として名句とされており、これはわたくしが住んでいる逗子の小坪港で詠まれた句である。虚子の言う「相州初鰹」にあたる。

実は、小坪で詠まれたというのは懇意にしている釣船「鮎丸」の船長から聞いた。で、船長は、有馬朗人文部大臣が小坪港に来た時に、この句がここで詠まれたと聞き、ここに素堂の句碑を建てなければならないねと言ったとのことで、あの句碑を建てる話はどうなったかと、わたくしが俳句を詠むことを知って聞かれたが、そんな偉い人と面識があるはずもないし、俳人はおおむね貧乏で、政治家となれば二枚舌が常だから、それは御愛想だろうと言うと、実に心外な顔をする。小坪は小さな漁港で、釣船も数隻しかないが、みな小坪の海を大切にしているので、有馬大臣も罪な戯言を言ったものだ。

ところで、足の速い鰹を、江戸時代の冷凍技術が無い当時は、どのようにして食べていたのだろうか。

赤穂浪士の大高源吾は俳号を子葉といい、芭蕉の弟子宝井其角と交流があり、『松浦の太鼓』という芝居で、両国橋で討ち入りの前夜、元禄15年12月13日に、二人は出会い、

  年の瀬や水の流れと人の世は 其角
  明日待たるるその宝船 子葉

と挨拶を交わす。これは後世の創作だが、実際に二人は交流があり、幕府の赤穂浪士追善供養の厳禁令にも関わらず、其角は子葉を偲んで、

  うぐひすに此芥子酢はなみだかな 其角

と、『五元集』で子葉の初七日に詠んでいる。これは子葉の、

  初鰹江戸のからしは四季の汗 子葉

を踏まえて詠まれている。つまり、江戸時代には小坪沖で獲れた初鰹を江戸っ子は芥子酢で食べていたのである。この話は、柴田宵曲や加藤郁乎や半藤一利が触れている。実際にわたくしも子葉や其角に倣って、芥子に酢を溶いて食べてみたが、なかなか乙な味で、土佐の叩きの板前も、これはいけますねと感心していた。

個人的には、那珂湊で鰹を食べて育ったせいだろうか、土佐の叩きは苦手である。稲藁で焼いて黒酢で表面を叩き、冷してなじませて食べると悪い味では無いが、やはり初鰹は銀皮造りを生姜醤油でさっぱりと食べるのが一番初鰹の香りを楽しめると思う。銀皮造りとは腹の脂が乗った部分を皮付で刺身で食べる事で、初鰹は戻り鰹と違って、まだ皮が薄いのでこの食べ方が出来るのである。戻り鰹は脂が乗り過ぎているので、生姜醤油に大蒜を擂って浅葱を添える。

もうひとつ那珂湊での初鰹でなければ出来ないものは、鰹の塩辛である。内臓を酒で洗って、粗塩と生姜の千切りで漬けたものだが、戻り鰹は脂が強過ぎて腸が溶けてしまうので、これは初鰹しか出来ず、各戸で作る。腸を切らずに丸ごと漬けて、冷所に保存し、三ヶ月ほど毎日一回掻き混ぜて慣らすと、これは史上最強の酒の友である。写真がそうで、一ヶ月ほどの物を待ち切れずに、食べ易い好みの大きさに切って、晩酌に毎晩つまんでいるものである。

塩が少ないと生臭くなり、多過ぎると辛過ぎるので、塩梅が難しいが、今年は我ながら満足の行く出来映えだと思う。行き付けの酒家に持って行って、酒の肴にしてもらう。よほど好きでないと強烈な臭いと味わいなので無理強いはしないが、気に入っていただける呑み助たちと呑むのも一段とおいしいものである。

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