2011年4月23日土曜日

●週刊俳句・第208号を読む 鴇田智哉

週刊俳句・第208号を読む

鴇田智哉

まずは、心に残った句を。

吊り橋へ躍り出でたる孕鹿    矢野玲奈
海市まで雲を連れゆく汽笛かな
(矢野玲奈「だらり」より)

一句目。一瞬の出来事の印象がそのまま物語に、やがては昔話に、そんな雰囲気がある。
二句目。和紙のちぎり絵のような手触りを感じる。ちぎり取られた紙のように、空に、ぼやっ、ぼやっと雲なのか、汽笛なのか、見えている。

さえずりさえずる揺れる大地に樹は根ざし  福田若之
むにーっと猫がほほえむシャボン玉
(福田若之「はるのあおぞら」より)

一句目。色のつるつるとした、漫画のアニメーションを思う。右へ左へ天へ地へ、大きな揺らきが表れている。句自体がきらきら揺れ続けている感じ。止まらない。
二句目。猫の顔が漫画のように印象的に、分かりやすく心に飛び込んでくる。すると思わず自分も笑ってしまう。


「傘Vol.2」を受けて、俳句におけるライト・ヴァースが話題となっており、それに関連した記事を、山田露結氏、生駒大祐氏が寄せている。二人の論の詳しくは、原文を読んでもらうこととして、ここでは、私の感想を少しだけ述べる。
私の考えとしては、「傘Vol.2」は、「ライト・ヴァース」を俳句読解のためのキーワードの一つに引き上げた、ということで意味があると思う。
ただし、キーワードはキーワードである。
生駒氏がまず、
ライトヴァースという言葉をまず定義してそれに見合う俳句を選び出すという行為に「踏絵」以上の意味があるのだろうか(極端な例を出すと「古池や蛙飛び込む水の音」という句に対して、「古池」という言葉を生かすために「蛙」が使われており、季語としての重心がおかれていないのでこの句はライトヴァース的である、などと僕が言ったとして何が生まれるのか)。
と断っていることからも分かるように、「ライト・ヴァース」というキーワードは、使う人の意図によってどうとでも使える。だから、一つ一つの俳句作品について、「この句はライト・ヴァースだ」「この句はライト・ヴァースじゃない」というように、100か0かで決めていくことには、意味がない。生駒氏はそれを確認した上で、「ライト・ヴァース」という定義の有効性を論じている。

また、山田氏が、
「俳句」あるいは「俳諧」はそもそもの成り立ちからして「ライト・ヴァース」的な側面を備えた文芸だったのではないだろうか、ということである。さらにそこから芭蕉が晩年にたどり着いたのは「軽み」の境地だったよなあ、と。
と言っているように、俳句そのものが元々持っている「ライト・ヴァース性」に思い至ってしまうと、一つ一つの俳句作品を、100か0かに判定するのは、余計に意味がなくなってくる。俳句自体がそもそも「ライト・ヴァース」だということになると、「俳句におけるライト・ヴァース」の意味する範囲がとても広くなってしまい、「ライト・ヴァース」というキーワードが多様で多角的になってくるからだ。

「ライト・ヴァース」は俳句読解のためのキーワードだと言ったが、この場合キーワードとは、いわば眼鏡だ。俳句を見るための眼鏡の一つ。眼鏡はほかにもある。「伝統性」とか「写生」とかもそうだ。また、「物語性」とか「脱構築性」とか、(週俳で時々話題になっている)「フェイク性」とか、さらに「フシギちゃん度」とかもそうだ。つまり、俳句の形式にまつわるものから内容にまつわるものにわたって、さまざまな位相でたくさんの眼鏡が存在している。大切なのは、眼鏡を恣意的に一つにしぼって終わりにしてしまわないこと。一つ一つの俳句作品について、「この句はライト・ヴァースだ」「この句はライト・ヴァースじゃない」というように、100か0かでやるのではなく、「この句は『ライト・ヴァース度60%+伝統度30%+フシギちゃん度10%』だね」のようにやる。そんな方向性でいいんじゃないかと、少なくとも私は思っている。
以上は、私が生駒氏、山田氏の文章を読み、「傘Vol.2」を読み返しながら考えたことである。

「傘Vol.2」にちょっとだけ触れておくと、私の感想も含め、「傘Vol.2」は既に多くの波紋を広げているということで、存在感のある本となっている。
「傘Vol.2」にある越智友亮氏の「俳句におけるライト・ヴァース」は、俳句の「ライト・ヴァース」をとても簡潔に定義づけしていてわかりやすい。その上で、複数作者の俳句作品をとり上げて、その一句一句が「ライト・ヴァース」であるかどうかを判定しており、それが、越智氏自身の「ライト・ヴァース」観を伝えるものとなっている。
私はさっき、「100か0ではなく」と言ったが、越智氏がこの文章の後半でやっている「ライト・ヴァース」か否か判定(=100か0か判定)は、「ライト・ヴァース」という新しいキーワードのプレゼンテーションとして、「ライト・ヴァース」を一義的にはっきり定義付けておくという意味では必要なものだと思う。判定に越智氏が苦心しているらしい、ということが何となく透けて見えるところも含めて。
そもそも、キーワードはキーワードに過ぎないのだから、一句一句の判定に苦しむのはしかたがない。そういう意味では、同じ「傘Vol.2」の「『私』の希釈度」の中で、藤田哲史氏が「ライト・ヴァース」という言葉をそのままには使わず(一回も使っていない!)、「ライト・ヴァース」「ライト・ヴァースらしさ」(色字鴇田)という言葉を使っていることが目を引いた。意識してそうしているのか、無意識にそうなったのか、あるいは扱った俳句作品が神野紗希氏のものだったことでそうなったのかはわからないが。

ともかくも、「傘Vol.2」により、「ライト・ヴァース」という言葉は、俳句解釈のための新しいキーワードとして、存在感をもつことになった。「週刊俳句 第208号」を読んで、改めてそう感じたのである。

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