相子智恵
身に馴染むものに微熱も晩夏光 近江満里子
句集『微熱のにほひ』(2012.5/ふらんす堂)より。
「共感覚」という、一つの感覚が他の異なる領域の感覚を引き起こす現象があって、芭蕉の「海暮れて鴨の声ほのかに白し」が「音に色を感じた共感覚の句」として論じられた文章を読んだ覚えがある。
掲句の〈微熱〉と〈晩夏光〉は取り合わせだから共感覚とは違うが、晩夏の強い光が生む白いまばゆさと、体内の微熱の感覚とが絶妙に溶け合い、響きあって、妙な神々しさがある。
共感覚を思い出したのは、句集名にもなった〈髪とけば微熱のにほひ春の雪〉という句もあるからで、「微熱に匂いがある」と捉える鋭敏な感性に驚いたからだ。〈春の雪〉の取り合わせの感覚も鋭い。
長くなるが、あとがきの一部を引きたい。
〈発病と俳句を始めた時期がほぼ同じ頃だったことに、人間の力を超えた宿命のようなものを感じます。季節がひとつ過ぎていくごとに、出来ることが減ってきていますが、最後に残るものが俳句であってくれたら、いや絶対に俳句でなくてはと願わずにはいられません。今しかない、明日は来ないかもしれない――そういう思いを胸に、「心の底からの叫び」が聞こえてくるような俳句を目指していきたいと思います〉「心の底からの叫び」が聞こえる俳句といっても、ただ心情を喚き叫ぶために俳句があるのではないだろう。短い詩型が心情の吐露に適さないのは百も承知で、それでもなお作者が「最後に残るものが俳句でなければ」と願うとき、それはたとえば晩夏の光と体内の微熱とが出合うことなのではないか。感覚まるごとで、世界を生きることに通じているのではないか。私はそう受け取った。
〈献体を決めし腕の汗疹かな〉〈ひと日づつ生きるあそびや竜の玉〉引きたい句は他にもいくつもあった。
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