2014年6月4日水曜日

●水曜日の一句〔宮崎斗士〕関悦史



関悦史








メールが一通夏雲どっさりの少女   宮崎斗士

例えば攝津幸彦が日本映画全盛期の映像体験を核に据えることによって、あり得ないにもかかわらずノスタルジックな記憶を俳句でつむぎだしているとしたら、宮崎斗士はCMやプロモーション・ビデオ、あるいはアニメや、その原作となるライトノベルが遍満した現在の暮らしに特有の抒情を俳句にしているともいえそうだ。

それはしかし、感覚の変容を通じて「現代」を批評的にえぐりだすことを目的にした営みなであるわけではなく、移りかわっていく生活環境と、「言葉」へのフェティッシュのはざまにのみ立ちあがる清新な抒情性を通じて、自分にとってのリアルを探り当てていくことが制作動機の根底にあるようである。

同じ句集に収められた《天文学っておおむね静かふきのとう》《すもも買う破船のように静かな日》その他の句は、その営みのさなかに撮られたスナップ写真のようにも感じられる。つきつめた求道性の息苦しさとは軽やかに距離を取りつつも、できあいの詩因や、言葉だけの上滑りを回避する点においては至って生真面目なのである。

掲句もいかにも何かのアニメ作品で見たことがあるような気がするモチーフが扱われているが、それを視覚的になぞった句には全く終わっていない。一通の「メール」は「少女」から来たのか、「少女」が受け取ったのか判然とはせず、しかもこの「少女」は口語調の「夏雲どっさり」を背景として持っているだけではなく、属性として帯びているのである。さしあたり直接対面しているわけではなく「メール」によって隔てられた「少女」が呼び起こす(あるいは抱えている)不在と期待の感覚が、句のなかでは、そのまま既に「夏雲どっさり」の明るさと量感をたたえている。一句は統辞的な飛躍/圧縮による不在の領域をしなやかに抱え込むことで、はじめて夏雲=少女の輝かしさをインターネットというインフラともども取り込むことに成功したのだ。

そしてこの句において語り手の視点は「少女」の位置にもなければ、「少女」と出会う少年なり何なりの位置にあるわけでもない。その両者を包摂しつつも、「メール」が飛び交うネット空間のようなはざまの位置に空漠と浮遊しているのである。そこから来る、物欲しげでない開放感が心地よい。


句集『そんな青』(2014.6 六花書林)所収。

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