2014年7月30日水曜日

●水曜日の一句〔岡本紗矢〕関悦史



関悦史








寒卵扉を開けるまで一人   岡本紗矢

心象性の強い句だが、無駄な物が置かれていない建築空間のような清潔さがある。

「寒卵」は閉じた扉を前にして一人でいる人物の喩的形象でもあるが、同時に、その人物とともに室内にある唯一の明示された具体物でもある。

つまり隠喩=心情の中に閉じこもることと、いつでも自由にそこを出て人に会いにゆけるような単なる物件として提示された建築との、ちょうど扉のような位置にこの寒卵はある。そして「扉が開くまで」ではなく、「扉を開けるまで」である。この扉は自発的に開けられるのだろう。一人であってもべつに孤独をかみしめているわけではなく、それはそれで全き寒卵と同様、静穏に充実しているのである。「寒卵」で一度切れており、扉を開けることを、卵の殻を破っての誕生・成長とそれにまつわる不安や期待などと重ねるべきではない。

寒卵と語り手の関係はもっと付かず離れずのものだし、それ以前にこの句の語り手はどこにいて、視点がどこにあるのかは思いのほかつかみがたく、カメラアイのように対象と離れているようでもあり、それでいてまなざしは寒卵や扉その他の内奥にまで夢の中のように静かに浸透しきっているようでもある。モランディの絵に近い感触である。

寒卵という物件がもたらす詩的感興のみを引き出し、敷衍する、その過程のなかに作者の何かが映り込んだ、一見ただの直線と見えるものがそのまま迷宮であるような句なのだろう。「寒卵」「扉」「一人」(及び語り手)の関係が、簡単に映像に置き換え得る単純明快なもののようでいて、じつは意外とたちが悪い。この「一人」がもし扉を開けて出て行ってしまった時、「寒卵」はただの取り残された物品となるのか、それとも「寒卵」こそが「一人」であることを生きている当の者なのだという真の姿が明らかになるのか。彼らは相互にもたれ合って存立しており、もし関係がほぐれたらその途端、筒井康隆『虚人たち』のラストよろしく「寒卵」も「一人」も「扉」も消滅してしまいそうな気配もある。そして扉が今のところ開けられないでいるのは、まさにそのために他ならないのだ。

初心の頃を過ぎると却って出来にくい性質の句かもしれない。


句集『向日葵の午後』(2014.6 ふらんす堂)所収。

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