2015年3月3日火曜日

〔ためしがき〕 夜の形式とは何かなのか 昼の部 福田若之

〔ためしがき〕
夜の形式とは何かなのか 昼の部

福田若之


以前(とはいえそれほど昔のことではない)、夜の形式とは何かという問いが立てられたとき、僕はすこし遠くからそれを眺めていた。四ツ谷龍さんの講演「田中裕明『夜の形式』とは何か」がまさにその問いであったのだけれど、僕はこれを直接聞くことはなかった。ただ『週刊俳句』ふらんす堂のサイトで、このシンポジウムのごく断片的な記録を読んだだけである。

田中裕明「夜の形式」は、そのシンポジウムのとき以後、幸いにもずっと全文が『週刊俳句』に掲載されているので、ふと、夜の形式という言葉が思い出されて気になるということがあると、それを読み返す。しかし、夜の形式とは何か、僕には、それを読んでもどうにも答えようがないと感じる。それもそのはず、四ツ谷さんの講演についての上田信治さんの報告と感想のなかに、四ツ谷さんの発言として次のような指摘が引用されている。

これはきわめてふしぎな文章で「夜の形式」と言いながら、どこにも「夜の形式」とは何かが書いてありません。
だから、僕としては、こう問い直してみたい。すなわち、そもそも、夜の形式とは何かなのか、と。以下、引用について、特に断りを入れない場合は、田中裕明「夜の形式」からのものである。
以前(ほんとうにずいぶん昔のことになってしまった)、夜の形式ということを考えていたときがある。
裕明は、この最初の一文で、思考を過去においている。それを、記憶から引き出している。「夜の形式」についての思考は、ここではまず、「ほんとうにずいぶん昔のこと」なのである。

続く一文はこうだ。
芸術における形式と内容について思いをこらしていたある夜に、ふと夜の形式という言葉が浮かんでしばらくのあいだ頭を離れなかった。
「夜の形式とは何か」という問いに始まる議論は、そのタイトル自体にひっぱられて、もっぱら形式の議論になってしまっていたか、すくなくとも、そのような議論として受け取られて来てしまった感が否めない。「夜の形式」の問題を、単に形式の問題と捉えるわけにはいかないのではないだろうか。これはおそらく「形式と内容について」の問題だ。

そして、ここではまず、「夜の形式という言葉」が、そういう言葉として確認されている。これはあたりまえのことだが、重大なことでもあって、さしあたり言葉でしかない以上、夜の形式が実体としての何かであるかどうかは、分からない。

さらに、裕明はこう続ける。
夜の形式に対して昼の形式という言葉もあり、
いや、なかったはずだ。すくなくともこれまでは。それは、おそらく裕明の中でだけ、「あり」、それはここでようやく発せられて、読者のもとに伝わる。単純な二項対立と捉えてよいかはさておき、ここではとりあえず、「昼の形式」は「夜の形式に対して」の言葉であることを確認しておく必要があるだろう。

続く文章では、「昼の形式」についての短い解説がある。
こちらのほうはわかりやすくて、たとえば何人かの印象派の絵を思いうかべればよい。あるいはバロックと呼ばれる音楽のあるものは聞いていて森の中にぽっかりと日向があってそこに座りこんでいるような気がする。
いや、わかりやすくはない。「何人かの印象派の絵」だって? ここで、僕らが誰のどの絵を思い浮かべるかで、ずいぶんとイメージは変わってしまうだろう。たとえば、同じモネの絵としても、『睡蓮』か『印象――日の出』かで全然違う。

そもそも、この「印象派」という言葉の由来になった『印象――日の出』は、まさしく日の出であって、少なくともその内容に関して言えば、明らかに夜と昼のあいだに属しているのではないだろうか。内容は夜と昼のあいだなのに、形式だけが昼のそれだなどと言いうるのだろうか。

だが、おそらく、ここで重要なのはそうしたことではないのだろう。

重要なのは、むしろ、「何人かの印象派の絵を思いうかべればよい」という言葉から思いうかべられる任意の複数の絵において、明らかに共通した何らかの形式が、明確に定義づけすることは難しいとしても、ひとまず了解されてしまうという、そのことなのではないだろうか。「バロックと呼ばれる音楽のあるもの」という言葉から思い浮かべられるものについても同様だ。僕らはこの言葉のもとで、全く任意の曲を思い浮かべながら、そこに明らかに共通している(ように思われる)何らかの形式を、自然と認めてしまうだろう。

このとき、僕らが思い浮かべている任意の作品は、もちろん任意の内容を持っているに違いないのだが、それにもかかわらず、形式を共有しているように感じられる(印象派の歴史的意義のひとつは、どんなに取るに足らない風物さえも、ひとつの形式のもとで、たちまち芸術の題材としてみせたことだった)。このことは、これらの作品を僕らが受容するときにその形式と内容が分裂していて、その分け目がはっきり確認できることを意味している。

ここで、もうひとつだけ、夜の形式が「考えていた」という過去形で叙述されているのに対して、昼の形式は「あって」、「わかりやすくて」、「思いうかべればよい」、「気がする」ものとして、現在形で叙述されていることは、のちの議論のために指摘しておく必要がある。ただ、いまはまだ、このことに深入りできないので、ひとまず先に進みたい。
では夜の形式とはいったいどのようなものであろうか。
夜の形式について、ここではじめて、問いが発せられる。しかし、「夜の形式とは何か」ではない。「どのようなものであろうか」である。これに対する答えは、しかじかのようなものだ、というに留まるだろう。だからこそ、裕明の文章には最後まで「夜の形式とは何か」という問いの答えが書かれていない。では夜の形式とはいったいどのようなものであろうか。

続きは、また今夜に。

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