2016年8月10日水曜日

●水曜日の一句〔池田澄子〕関悦史


関悦史









まさか蛙になるとは尻尾なくなるとは  池田澄子


オタマジャクシ=カエルを意識や記憶のある存在として扱っている句で、その意味では擬人法と呼べるかもしれないが、その立場になりきり、オタマジャクシを内在的に経験したらこうも思うだろうということを想像して描いている点がやや特殊である。

しかしこの句は、オタマジャクシ=カエルであるということを想像的に追体験しているというだけではない。それと同時に、オタマジャクシが全く別の姿のカエルに成長してしまうことの驚異を、あくまで人の立場から観察した上で、その疎隔感を一挙に飛び越えてしまう口語調のレトリックで表現してもいるのである。

つまりこの句は、想像力によるオタマジャクシ=カエルとのアニミズム的な一体化と、ルナール『博物誌』にも通じる、人の立場からなされたアフォリズム的な言葉によるクールな考察と彫琢との、両方に通じる回路を持っている。統合と分離が同時になされているというべきか。統合と分離は、優しさと節度というふうに置きかえることも可能だろう。

このオタマジャクシからカエルへの驚異的な変態、それに近い事態が、見ている人間の側にも起きていないとは限らない。生死のなかで起こる変化をわれわれは何ほども理解できていないであろうからだ。アフォリズム的な緊張に満ちた言葉の洞察は、そうしたことをも一瞬で感じさせる。その総体をつらぬく洒脱さ。


句集『思ってます』(2016.7 ふらんす堂)所収。

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