2016年8月9日火曜日

〔ためしがき〕 『寒林』について書くことができないでいること 福田若之

〔ためしがき〕
『寒林』について書くことができないでいること

福田若之


髙柳克弘『寒林』(ふらんす堂、2016年)について、書こうとしたが、うまくできない。

僕は、この句集にニーチェの『ツァラトゥストラかく語りき』と近いものを感じずにはいられないのだが、それをうまく書くことができないのだ。それが何であれ、とにかく何かがその後に書かれることを望んでいるに違いないこの句集に対して、僕は、直接的には、せいぜいこの「ためしがき」で応えるぐらいのことしかできないと思う。

僕がこの句集をツァラトゥストラ的だと書くのは、《神は死んだプールの底の白い線》といった句が収められているからというような、単純な理由によるのではない(僕はこの一句については、むしろ、その奥に、田中裕明の《爽やかに俳句の神に愛されて》とのかかわりを見てとらずにはいられない)。

僕がうまく書くことができないでいるのは、次のようなことだ。

第一に、《花曇あさましき書を売つてをり》や《愚かなるテレビの光梅雨の家》といった句に典型的にみられる、文語の積極的な意味づけ。この句集の文語は、今日、文語が身にまとう一種の尊大さ・時代錯誤による世間から隔絶された雰囲気に自覚的である。文語は、この句集において、ツァラトゥストラ的なものを感じさせることに積極的に貢献しているのである。これらの文語は、定型に敗北した結果としての消極的な文語ではない。積極的な価値を持っているのだ。

第二に、たとえば《新宿は春ひつたくりぼつたくり》や《冬帽子森は思索を促しぬ》といった句に、ツァラトゥストラの「わたしは森を愛する。都会は住みにくい。そこには淫乱な者が多すぎる」(フリードリヒ・W・ニーチェ、『ツァラトゥストラかく語りき』、佐々木中訳、河出書房、2015年、91頁)という言葉と通じあうものを感じるということ。

第三に、これは《見る我に気づかぬ彼ら西瓜割》 に典型的に表れていることだが、語り手の特権性。「多くを見るためには、みずからを度外視することが必要だ――この苛酷さが、すべての山を登る者に必須である」(『ツァラトゥストラ』、前掲書、263頁、強調は原文では傍点)。

第四に、《人間は道に素直や揚雲雀》における「人間」という語についての考察。上昇する雲雀とニーチェにおける「超人」との関連。『寒林』には《人は鳥に生まれかはりて柿の空》の句があり、《寒林を鳥過ぎ続くもののなし》には孤高の存在を暗示するように「鳥」のモチーフが表れている。いま引用した「寒林を」の句を、「あとがき」の以下の文面との一見矛盾したつながりを意識しながら読むこと――
古人たちもこの寒林の道を歩いてきたのだろう。そしていま、私の歩んでいる道を、同じ気持ちで歩いている、同時代の若者もきっといる。未来の誰かもまた、ここを通るはずだ。
道を歩くことと空を飛ぶこと。ツァラトゥストラはこう語った――「わたしは歩くことをおぼえた。それから気の向くままに歩いている。わたしは飛ぶことをおぼえた。それから飛ぶために、ひとから背を突いてもらいたくはなくなった」(『ツァラトゥストラ』、前掲書、66頁)、「君は彼らを超えていく。だが君が高く昇るほどに、妬みの眼は君を小さい者と見る。そして、飛ぶ者が、もっとも憎悪されるのだ」(同前、107頁)、「孤独な者よ、君は創造者の道を行く」(同前、108頁)。『寒林』の書き手とツァラトゥストラは、ともに、孤独な者として、高みを目指すものであるように思う。

第五に、《桃剝ける指よ誰にもかしづくな》の「誰にもかしづくな」という命令を、ツァラトゥストラ的なものとして読むこと。「いつまでもただ弟子のままでいるのは、師に報いることにはならない」(『ツァラトゥストラ』、前掲書、132頁)、「いま諸君に命ずる。わたしを捨て、みずからを見出せ。そして君たちがみな、わたしのことなど知らぬと言うようになったときに、わたしは諸君のところに帰ってくる」(同前、132頁)。

さらに、女、友、火などのモチーフについても、『ツァラトゥストラ』との読み合わせのなかで、捉え返すことができるように思うのだが、このあたりもうまくまとまらない。

結局、問題は、『寒林』の書き手とツァラトゥストラとをこんなふうに重ね合わせて、他人事のように一篇の批評を仕立てることが、僕にはどうにも破廉恥なことに思われてならないということにあるのだろう。なぜだかうまく説明できないけれど、それは僕にはとても破廉恥なことに思われるのだ。

こうして、僕は、この句集のなかで僕がもっとも心動かされたのは、上にあげた句のどれでもなく、《わかりあへず同じ暖炉の火を見つめ》 であるという、そのことさえも、うまく書くことができないでいる。『寒林』について書くことではなく、『寒林』の後で何かを書くということが、結局はこの句集に応えることになるのだろうか。


2016/7/10

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