〔ためしがき〕
自分の書いた句を読みなおす
福田若之
てざわりがあじさいをばらばらに知る 福田若之
僕がこの句を読むときに思い出すのは、《あぢさゐはすべて残像ではないか》(山口優夢)や《紫陽花は萼でそれらは言葉なり》(佐藤文香)のことだ。
像や言葉として理解されたあじさい。それらのあじさいが、まなざしによらない、てざわりというものからの出直しによって、生成変化する。そのとき、それらは、ばらばらなるもの(ばらばらなもの/ばらばらというもの)として把握しなおされることになる。知ることは、もはや、すでによく知られたあの知ることではない。すなわち、断片的なものの組織化による体系の獲得のことではないのだ。知ることは、これはあじさいだ、という認識を獲得することではなく(「あじさいと知る」ことではなく)、むしろ、世界についてのそうした認識を失調させ、解体し、それによって、ある引き裂かれた裸性へと到達することなのである。それこそが、ばらばらに知るということだ。
しかし、そうである以上、ばらばらに知るということについてのこの統合的な認識もまた、知ることそのものの生成変化とともに、ただちに失効するのでなければならない。それゆえ、認識の失調は、この句において、言葉の片言性によって表現されるほかはない。通用されている助詞の機能の失調によって。言葉が、書かれ、読まれながらばらばらになることによって。
2017/9/9
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