2017年11月7日火曜日

〔ためしがき〕 『ファイアボール』シリーズと口のない口唇性 福田若之

〔ためしがき〕
『ファイアボール』シリーズと口のない口唇性

福田若之


ウォルト・ディズニー・ジャパン制作、荒川航監督のアニメーション作品、『ファイアボール』シリーズの一作目では、お嬢様であるロボットのドロッセルが、執事のロボット、ゲデヒトニスの名を繰り返し呼びまちがえる。たとえば、第一話では次のとおりだ。
ドロッセル おい、シシカバブー、シシカバブーはどこだ?
ゲデヒトニス はい、お嬢様。
ドロッセル イルカが見たいわ、シシカバブー。
ゲデヒトニス イルカでございますか。ちなみに、私の名前はゲデヒトニスでございます。
ゲデヒトニス イルカよ、シシカバ。
このあとも、話数を重ねるたびに、ゲデヒトニスは、「タンホイザー」(ワーグナーの作曲したオペラの主人公)、「デュラムセモリナ」(小麦粉の一種)、「クセルクセス」(アケメネス朝ペルシアの王の名)、あるいは、「パッキャマラード」(童謡「クラリネットこわしちゃった」の歌詞の一部。なお、もとのフランス語は«Au pas, camarade.»で、意味上の切れ目はむしろ「オーパッ」と「キャマラード」のあいだにある)などと、さまざまに呼ばれることになる。それにしても、こうした脈絡のない誤った名の数々は、いったいどこからくるのだろうか。

ドロッセルは、どうやら故意に違う名で呼んでいるのではなく、ほんとうにゲデヒトニスの名を忘れてしまっているらしい。シリーズ二作目にして一作目の前日譚にあたる『ファイアボールチャーミング』の第七話で、ドロッセルに物忘れ機能が備わっていることが明らかにされている。また、同じく最終回では、眠りにつこうとするドロッセルが、次に目覚めたときにはゲデヒトニスの名を忘れてしまっているかもしれないということを示唆していた。ゲデヒトニスGedächtnisはドイツ語で「記憶」を意味する。シリーズ一作目のドロッセルは、まさしく記憶を失くしているので、その名をうまく呼び出すことができないのだ。

だが、話数を重ねるにつれてはっきりしてくるのだが、彼女はどうやら自らの呼びまちがいを楽しんでいるようでもあるのだ。

ドロッセルはロボットだが、言葉に対して情緒的にふるまうことがある。たとえば、一作目の第七話で、ドロッセルの亡き父、ヴィントシュティレ卿が残した書物に記されていた人類の会話サンプルをもとにしたゲデヒトニスの発話(「チーッス、ドロちゃん」、「ドロってばチョーウケるし、もうアゲアゲ」)に対し、彼女は「微妙にむかっ腹が立ったわ」、さらに「腹に据えかねるわ」といった感想を述べ、「人類との共存は無理ね」と結論付けている。語調は、ドロッセルにとってそれほどまでに重要なことがらであり、ここで彼女はそれに対する感情的な反応を示しているのだ。これは、『ファイアボールチャーミング』の第一話で「気持ちを伝える言葉さえ見つければ、人類とも仲直りできるはず」と語っていたドロッセルの、悲しい帰結である。人類との共存の可能性を否定する彼女は、亡き父の教え――人類の言葉は常に変化しているため、その本来の意味に注目せよ、という趣旨の教え――を、もはや思い出すことはない。

さて、「サンチョ・パンサ」と呼んでおきながらさらにそれを「サンチョパ」と略したり、「タンホイザー」を「ホイサッサ」に言い換えたりしているところからしても、ドロッセルは、人類の言葉にいらだつのとは対照的に、呼びまちがいを楽しんでいることは明らかだ。そして、こうした省略や言い換えからすると、どうやら彼女の楽しみは言葉を発するときのくちびるの動きに関わっているようだ。

言葉は、ゲデヒトニスを呼ぼうとするとき、それ自身が担うはずの記憶とは無縁のものになっている。「ワンダーフォーゲル」という語が、本来の意味とは無関係に、容易に「ワンダフォー」に転化してしまうのはこのためだ。そして、ゲデヒトニスを呼ぶためだけに「マンゴスチン」や「チグリスユーフラテス」といった語彙が召喚され、しかもそれが「ゴッチン」や「チグリッパ」というかたちに省略されるとき、そうした本来の記憶を失った言葉を発することでもたらされる楽しみは、なによりもまず口唇的なものにほかならないはずである。

だが、ドロッセルのような存在がいかにして口唇的な楽しみを感じうるというのか。というのも、彼女には口が、すくなくとも一般的な人類のそれと同じようには存在していないからである。その顔には口腔も唇も見当たらないのだ。彼女は、内蔵されたスピーカーか何かから音声を発しているにすぎないように見える。それはゲデヒトニスについても同様である。

たしかに、ドロッセルは、イルカについて「愛でてよし、食べてよし」と言い、文通相手のユミルテミルを芋煮会に誘おうとし、ゲデヒトニスの言葉を「あなたは口を挟まないで」の一言で制止する。また、ゲデヒトニスはといえば、眼にゴミが入ったときの苦痛について、「喩えるなら、食事中にやにわ咳きこみ、ご飯粒が鼻のほうに入ったとき、鼻のほうから出そうと努力いたしますものの、忘れた頃に出てくるのは、決まって口のほうからでございます」とさえ述べており、しかも、ドロッセルはこの言葉に「分かるわ」と返している。

だが、こうしたことの一切にもかかわらず、やはり、彼女たちには口がないというこの事実に目をつぶるわけにはいかない。シリーズ三作目の『ファイアボールユーモラス』を観てみよう。その第一話では、あたかもこの不在を埋め合わせるかのようにして、笑った口が描かれた紙がドロッセルによってゲデヒトニスの顔にマグネットで取り付けられる。ドロッセルもまた、彼女を図書室まで連れて行ってくれるはずだったロボットのハラヅモリ3000がうまく働かないとわかると、口の代わりに表情をあらわすための絵を顔の下方に貼り付けている。そのとき彼女たちがこうした絵を用いるのは、まさしく口がないからにほかならない。ちなみに、このハラヅモリ3000には口らしきものが見受けられるが、逆に、このロボットのほうは言葉を話すことができず、ただ「ボエー……」という言葉にならない叫びをあげるばかりだ。

面白いことに、このアニメーションにおいては口のないものだけが言葉を発することができ、口のあるものは言葉を発することがないのである(口がないからといって、必ずしも言葉を発することができるとは限らないが)。たとえば、『ファイアボールチャーミング』の第七話に登場する記憶装置のレジナルドも、口なしに発話している。

言葉にかかわるものとして、いわば、口のない口唇性とでもいったものを考える必要があるだろう。なにより、エクリチュールの口唇性とはそうしたものではないだろうか。文字には唇がない。しかし、文字がそれ自体において口唇性と呼びたくなる何かを帯びることはたしかにある。

実際、『ファイアボール』シリーズのロボットたちはどこか文字的な存在なのだ。一作目の第五話には、そのことを端的に示唆するこんなやりとりがある。
ゲデヒトニス 失礼をお許し下さい、お嬢様。私このままでは非常に……頭〔ず〕が高い。
ドロッセル そうね。
ゲデヒトニス その頭〔ず〕の位置の高さたるや、「ざじずぜぞ」が「ずざじぜぞ」になる始末。
ドロッセル 縦書きね。
ゲデヒトニスはここで自らの身体性を縦書きの文字列になぞらえているのである。次の第七話でドロッセルがゲデヒトニスのことを「サンチョ・パンサ」と呼んでいるのは示唆的だ。ドン・キホーテとサンチョ・パンサは、まさしく文字の世界から抜け出て来たかのような二人組である。

ドロッセルには、おそらくは彼女の亡き父によって、停電のときに目が光る機能が授けられていた。彼女自身がいうには、それは「便利」である。ただし、「でも、これではまぶしくて、私には何も見えないわ」。何かを照らしていながら、自分自身では何ひとつ見ることができない。文字とはそうしたものではないだろうか。文字のまなざしは、見るためにではなく、見せるために機能する。

ドロッセルとゲデヒトニスの暮らす屋敷は、ブリューゲルの描いたバベルの塔を思わせる外観をしている。データベースを備え付けているこの屋敷は、それ自体が巨大な書物のようでもある。『ファイアボールユーモラス』の第一話によれば、西の彼方には図書室もあるらしい。要するに、この屋敷はボルヘスのバベルの図書館を思わせるものなのだ。彼女たちは書物に住むもの、一冊の書物としてのバベルの図書館に住むものとして、そのなかにある書物を読むのである。

ドロッセルとゲデヒトニスが触れる書物のなかでいちばん重要なのは、ゲデヒトニスがしばしば大事そうに取り出す『プロスペロ』という名の書物であろう。ドロッセルによってシャーデンフロイデと名付けられた猿型ロボットが、この書物について語ったヴィントシュティレ卿の言葉を記憶していた。

第一作の最終話で再生されたその言葉によれば、『プロスペロ』は「この世界の始まり、はたまたその世界とあの世界、あるいは科学と迷信、そのあいだに横たわる何某、などについて書かれている」という(もっとも、ゲデヒトニスに言わせれば、これは「主にテーブルマナーについて書かれた本」だそうだが)。

シャーデンフロイデもまた口をもたないが、ヴィントシュトレ卿の言葉をそのままに再生する機能を授けられているのである。しかも、その言葉の一部は『プロスペロ』の一節重なり合うものだった。「遠い昔、世界は一つだった。機械とヒトは、同じ言葉を話し、花は歌い、木々は踊り、砂漠は生きていた」。『ファイアボール』シリーズにおいて、ロボットと人類はどこまでも言葉の差異によって隔てられている。その意味で、ドロッセルたちはバベルの塔の崩壊以後のバベルの塔に住まう存在だともいえるのだが、いま重要なのはこの点ではない。

ヴィントシュトレ卿の言葉を一字一句正確に記憶し、『プロスペロ』と重複する役目を担うシャーデンフロイデは、その意味で、書物そのものなのである。ならば、同じように『プロスペロ』に書かれていることを口のない口唇性において読みあげるゲデヒトニスもまた、書物であるといえるのではないだろうか。実際、ドロッセルはゲデヒトニスの読み聞かせによってはじめて『プロスペロ』の本文に接触するのである。

そして、読み聞かせにおけるドロッセルとゲデヒトニスの役回りは容易に入れ替わる。ドロッセルに対してゲデヒトニスが書物であるのと同様に、ゲデヒトニスに対してドロッセルが書物であるということがあるのだ。

たとえば、彼女は、『ファイアボールユーモラス』の第一話において、手にしている書物に記されているらしい、イソップの『アリとキリギリス』とは似て非なるアリとキリギリスの物語をゲデヒトニスに伝えている。「いいこと、アリさんが熱心に働く一年間、キリギリスさんはバイオリンを弾いて歌って暮らしました」、「その結果、キリギリスはどうなったか」、「バイオリンと歌がチョーうまくなりました」、「そのままメジャーレーベルと契約して全米デビュー」。ドロッセルもまたゲデヒトニスに対して書物なのである。

もちろん、彼女たちの口のない口唇性というのは、実際には、18世紀のチェスの自動人形の思考に近しいものだとも言えないことはない。「トルコ人」と呼ばれたその機械には、実は、チェスの名人が見えないように入りこんでいた。同じように、口のないドロッセルの代わりに、声優の川庄美雪が「中の人」として唇を動かしているのだ――こうした見方を否定することはできない。

とはいえ、『ファイアボール』シリーズが、いわばそのフィクションにおいて、口のない口唇性という概念を呼びよせるものであるということもまた、否定しようのないことだろう。それは、文字についての考えにもつながるひとつのアイディアをもたらしてくれているのである。

2017/10/26

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