〔ためしがき〕
意味は存在するか
福田若之
意味、という名詞を認めることによって、仮にその存在を確かなものだとしてみよう。意味が、ときによって、あるいは、ところによって、あったり、なかったりするのだとしてみよう。すると、非意味は、ドーナツの穴のように、意味にとりまかれながら、場合によってそこに虚ろに現れうる何らかの感じとして理解される(非意味であって、無意味ではない。無意味とはある特別な種類の意味にすぎない)。ドーナツのないところにドーナツの穴などありえない。それはドーナツによって作り出される、ドーナツでない空白のことだ。それと同じく、意味のないところに非意味はありえない。ただし、この場合、意味は、そのありようによっては、非意味を伴わないことがある。あんドーナツには穴がない。
だが、意味する、という動詞のみが許されるのだとしたらどうだろうか。物とは別に意味なるものが存在するなどと信じることをやめてみると、どうだろうか。その場合は、ただ数々の物だけが存在し、意味するということは、それらの物に割り振られた、ある特別な演技にすぎないということになる。この場合は、物は基本的には意味しないのであって、それらの基本的には意味しないものたちによって、意味することの演劇がなりたつことになる。
だから、そもそも、意味という名詞によって考えるか、意味するという動詞によって考えるかによって、世界はがらっと変わってしまう。だが、肝心なのは、どちらかひとつを選ぶことではない。ひとは、意味という名詞によって考えられる世界と、意味するという動詞によって考えられる世界との、どちらをも同時に信じうるような現実を生きている。意味という名詞による考えも、意味するという動詞による考えも、結局はその現実にあてがわれた一面的な見方にすぎないのであって、現実そのものではないということだ。
2017/12/12
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