2018年2月13日火曜日

〔ためしがき〕 電話にあてがわれたメモ・パッド7 福田若之・編

〔ためしがき〕
電話にあてがわれたメモ・パッド7

福田若之・編


電話や、携帯電話というもっとも新しいその化身は、人類の歴史の中で他に類を見ない特有の位置を占めている。自動車と飛行機が馬車や鳥によって予示されたように、適切なテクノロジーが見つかれば、次に待ち受けるものが何であるのか、人々は少なくとも熟知していたのである。それに対して、動物の世界の中に、電話によって授けられるパワーを人々が予想することができるものは存在しなかった。人間の想像の歴史の中で、遠距離でのリアルタイム相互作用のオーラル・コミュニケーションのパワーは、最も神聖な存在でさえ不可能であると考えられてきたほど偉大なパワーであった。ギリシャ神話の神々の王であるゼウスとパンテオンの神々は、メッセンジャー・ボーイであるマーキュリーに頼らなければならなかった。今日、かなり多くのメッセンジャー・ボーイたちが、自分の携帯電話を持っているのである。
(ジェームズ・E・カッツ、マーク・A・オークス「序論――議論の枠組み」、ジェームズ・E・カッツ、マーク・A・オークス編『絶え間なき交信の時代』、立川敬二監修、富田英典監訳、NTT出版、2003年、4頁)



世界最長寿者のジャンヌ・カルマンが、この一二〇年ほどの間にいちばん驚いた技術上の出来事は何かと訊ねられた時、彼女はためらうことなく「映画でも飛行機でもないわ。電話よ」と答えた。あらゆる発明の中で電話が最も驚くべきものであったのは、それが最も超自然的なものであるからだ。映画は、写真や万華鏡の延長線上にあった。飛行機は、凧や鳥の飛行を観察することから生まれた。しかし、目の前にいない数十キロ先の人間の声を聞くこと、距離を隔てた場所にいる人にそこにいない自分が言葉を伝え会話をすること、そして話相手から自分の肉体が見えなくなり自分の肉体を消滅させること、こういったことはここ一〇〇年ほどの時代が経験した、日常生活とは全く違う性質のものだった。
(ポール・ヴィリリオ『情報エネルギー化社会――現実空間の解体と速度が作り出す空間』、土屋進訳、新評論、2002年、88頁。太字は原文では傍点)



一八八〇年代から一九二〇年代までの電話セールスマンは、住宅用電話では緊急時の有用性をこそ勧めていた。今やその機能は自明のこととみなされている。彼らはまた、電話は買物にも役に立つと主張した。この機能も残ってはいるが(「あなたの指でお散歩を」という広告)、住宅電話加入者にはあまり重要な機能とはならなかった。明らかに社交性こそが、今日の電話利用法の主流となった。電話の歴史で最初の半世紀というもの、業界はこれを無視あるいは敵視してきた。
(クロードSフィッシャー『電話するアメリカ――テレフォンネットワークの社会史』、吉見俊哉ほか訳、NTT出版、2000年、112頁)



眠る肉体やシャーマンの体験をとおして、人類はすでに電話の発明を予知していたのだ。目覚めている肉体のままに体験される、テレプレゼンス現象。その神秘は、ぼくたちの机の上に、なにげなく放置されてある。電話はぼくたちの時代における、もっとも謎にみちた発明品なのだ。
(中沢新一「テレプレゼンス――電話・夢・霊媒」、中沢新一『幸福の無数の断片』、河出書房新社、1992年、77頁)



ぼくには電話友達がいる。電話の関係がもう6年も続いている。ぼくはマンハッタンの上の方で彼女は下の方に住んでいる。うまい組み合わせだ。朝相手の口臭を嗅がずに、幸せな夫婦みたいに朝食は一緒。ぼくは台所でイングリッシュマフィンを狐色のカリカリに焼き、マーマレードをのせ、ペパーミントティーを入れる。彼女はコーヒーショップに電話注文してミルク入りコーヒーと丸パンをトーストしたのに蜂蜜とバターをつけてもって来てくれるのを待っている。ミルク多め、蜂蜜とバターはたっぷり、丸パンはゴマがいっぱいついてるのよと念を押す。ぼくたちは朝のきれいな時間、受話器を頭と肩のあいだにのせて喋って過ごし、そのまま放っておいてもいいし、切ってもいい。子供はないし、延長コードだけを気にかけていればいい。ぼくたちは理解し合っている。彼女はホッチキス狂のおかまと12年前に結婚して別居し、早く時効になればいいのにと勝手に思ってるらしいが、訊いてくる人には土砂崩れで死んだわと言っている。
(アンディ・ウォーホル『ぼくの哲学』、落石八月月訳、新潮社、1998年、66-67頁)



「きみがイくのを聞いたら、ぼくもすぐにイッちゃったよ」と彼は言った。
「ヒュウ! どれくらい話したかしら?」
「何時間もだよ、きっと」
「何時間も何時間もよ」彼女は言った。「もう口の中がカラカラ。イきすぎたせいね」
「声がかれた?」
「ほんとに。ふう! これで明日も仮病つかわなくちゃ。そして一日じゅう眠るの。ウーン、気持ちよさそう。ねえ、電話の雑音がすごく大きくなったと思わない? 心がなごむ、いつもの音。電話の終わりぎわにはいつも、この音が大きくなるような気がするわ」
「ああ、もう終わりなのかな?」彼は言った。「このままずっとしゃべりつづけて、フェイドアウトできたらいいのに。一生ぶんの貯金をこれに使えたら、こんなに素敵な使い道はないのにな。もちろん、そんなに貯蓄能力があるわけじゃないけれど」
「でも、電話能力は最高よ」
「きみこそ! いや、真面目な話、今日のは、ぼくが今までにした会話のベスト3に入るよ、きっと」
(ニコルソン・ベイカー『もしもし』、岸本佐知子訳、白水社、1996年、176頁)

2018/1/6

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