小津夜景
無駄
この年始、まだ乗ったことのない市バス路線の、始発から終点までを何線か旅してみた。
もともとバスに乗るのが好きなのだ。今月もバスで4時間かけてミラノまで行く。田舎のバスは列車よりも佇まいが素朴で遠足っぽい。また始発から終点までの間に、隣村のお祭りに出くわしたり、山の上に達してしまったり、よそ者が決して来るべきではない地区に迷い込んだりと、しょっちゅう思いがけないことが起きる。
もっと遠くへ行くのも昔はバスが多かった。周囲からは時間が無駄な上に体に悪いと言われ、また実際一人で乗れる体ではなかったのだけれど、旅上の心もとなさが好きだし、明日死ぬかもしれないし、夫も別にいいよと言うので、合理性は無視してしまう。パリからだとフィレンツェは片道13時間。プラハは片道16時間。これだけ長時間バスに乗るといわゆる求道的な何かを極められそうな気分になるが、何かがどうかなった兆候は今のところない。
もっとも私のしていることはささやかな、あまりにささやかな遊興だ。パラダイス山元『パラダイス山元の飛行機の乗り方』(新潮文庫)を読むと、実力派の無駄とはここまでくだらないものなのかと感慨する。
マンボミュージシャンの著者はヒコーキに乗るのが大好き。それで乗り方の指南書を書いたということなのだけれど、ヒコーキに年間1022回も搭乗してみたり、一日11便に乗ってみたり、東京から名古屋までフランクフルト経由で行ってみたり、一年間ほぼ機内食だけで生きてみたりと全く役に立たない指南ばかり。おまけに本書のエッセイも全篇機上で執筆したとのこと。どうかしている。
しかし年間1022回ともなるともはや「乗っている」というより「住んでいる」と言ったほうがよく、浮世離れしたお金の使い方込みで、これほどまで文字通りの「雲の上の暮らし」を綴った本は稀であろう。なかでも唸ったのは、到着空港から一歩も出ずに、乗ってきたヒコーキで同じ客室乗務員とそのままトンボ帰りするという遊びだ。著者はこれを「タッチ」と命名しているのだが、このタッチ、バスであれば自分も数え切れないほど経験しているから心境はよくわかるものの、乗り物がヒコーキとなると無駄加減が半端じゃない。
遠くへ移動したからといって、いちいち旅情を感じなければならない、なにかその土地のものを味わったりしなければいけない、という呪縛から解放されると、移動そのものが途端にとてもラクになり、「純粋な飛行機の移動」に集中することができます。ううむ。さようでござるか。あ。これを読んで、ドライヴも似たようなものだと思った人に一言。バスや鉄道や飛行機のわくわくは、「時刻表」と「乗り継ぎ」といった二つの装置が絡んでいることをお忘れなく。これらが絡まなければ、妄想の翼は天国への飛翔を決して試みないのである。
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