2019年7月13日土曜日

●土曜日の読書〔リハビリルームの雲〕小津夜景




小津夜景







リハビリルームの雲

ブレンダーに人差し指をつっこんだまま、間違ってスイッチを入れたら、人差し指が消えた。

あたりは血の海である。ひい、と唸ったがあとのまつりだ。血の海をほっといたまま急いでタクシーにのり、町で一番と噂される総合病院の救急にかけこんで診てもらうと、これはどうしようもありません、と真面目な顔で言われる。匙を投げられたのかと思いきや、

「さいわい近くに手足専門の外科医がいますから、そちらにお願いしましょう」
「手足専門なんているんですか」
「ええ。F1やモトクロスを専門とする手術チームです。このままそこへ行ってください。いいですか。先方に連絡しておきますからね」

翌日、人差し指を螺旋に縫い上げつつ形をととのえ、その数週間後にリハビリが始まった。が、3ヶ月経っても指が曲がるようにならない。こんなに時間がかかるんだなあと半ば飽き飽きしながら、ある日もリハビリルームで先生を待ちつつ指の縫い目を眺めていたら、

あれ。これなんだっけ?

と、とつぜん脳が混乱におちいった。

これは、どうしたら、どうなるものだったかしら。てゆーかなにをどうしたら、これが治ったことになるんだっけ。

わからない。ほんの軽い混乱だったはずのものが、考えるごとに深みにはまってゆき、またたくまに四方が闇になった。わ。なんで目まで見えないの。なにこれ怖い。怖いよう。

と、そこへ先生が来た。いま起こったことを急いで先生に伝える。あっはっは。頭の中がこんがらかったんだね。先生に笑われ、すうっと不安がほどけて、今日のリハビリを開始する。私たちのほかは誰もいないパステル色の室内。窓の外を夏の雲がながれてゆく。
おお、雲よ、美しい、ただよう休みなきものよ。私はまだ無知な子供だった。そして雲を愛し雲をながめた。そして私も また雲のようにさすらいながら、どこにもなじまず、現在と水逮とのあいだをただよいながら人生をわたって行くであろうことを知らなかった」(ヘッセ『郷愁 − ペーター・カーメンチント』岩波文庫ほか)
私もまた、雲が教えてくれた大きな物語を忘れていない。そしてこれからも忘れはしないだろう。ああ、今日は本当にいい天気だなあ。そう思いながら深呼吸したとき、先生のてのひらに包まれた人差し指から、まだ目には見えないうごめきが、ぴく、と萌したのがわかった。


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