浅沼璞
跡しら浪となりし幽霊 宗因(前句)
世の中は何にたとへんなむあみだ 仝(付句)
『宗因千句』(寛文13年・1673)
前句は謡曲取りで、〈怨霊は、又引く汐に、揺られ流れて、跡白波とぞなりにける〉という『船弁慶』からのサンプリング。
「見るべき程の事は見つ」と壇ノ浦で入水した勇将・平知盛の霊を描き、〈白波〉と「知らない」が掛詞になっているのは謡曲ゆずり。
「白波がたち、行方の知れなくなった知盛の幽霊よ」といった感じ。
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付句は、〈世の中を何にたとへん朝ぼらけ漕ぎゆく舟のあとの白波〉(拾遺集・沙弥満誓)の本歌取り。
前句〈跡しら浪〉→付句〈世の中は何にたとへん〉
前句〈幽霊〉→付句〈なむあみだ〉
という二つの連想経路をカットアップ、そのイメージギャップで笑いを誘発する。
「世の中を何にたとえたらいいだろう……南無阿弥陀仏」といった感じ。
(本歌の、出家・満誓に対する念仏への連想もあろう)
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この付合を集英社版「古典俳文学体系3」で初めて読んだとき、すぐに次の句を思いだした。
明易や花鳥諷詠南無阿弥陀 虚子いわゆる「句日記」――昭和29年7月19日、千葉県・神野寺での連泊稽古会で詠まれた作。
早朝の勤行への挨拶だろうが、句の仕立てはサンプリング&カットアップの宗因流といっていい。
これは仁平勝氏が『虚子の近代』(弘栄堂書店、1989年)で指摘済みだけれど、収録句に日付を記すという「句日記」の形式を〈連句に代わるフォルム〉として捉えかえすことだってできるのだ。
子規に松永貞徳のような勤勉さを感じる一方、虚子に宗因的な奔放さを感じてしまうのは、きわめて俳諧的なのかもしれない。
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