2022年11月9日水曜日

西鶴ざんまい #33 浅沼璞


西鶴ざんまい #33
 
浅沼璞
 

さて久々に西鶴の自註絵巻を再開するにあたり、新たな試みをしようと思います。
 
 
というのも、これまで連句作品と自註との落差を埋める過程を、第一形態から最終形態へと辿ってきたわけですが、自註を頼りとしながらも、恣意的な側面がないわけではありせんでした。

そこで何がしかの客観的指標のようなものがないか、とずっと考えていたのですが、灯台下暗し。芭蕉研究の第一人者・佐藤勝明氏が予てより提唱されている「見込・趣向・句作」という三工程がそれに相応しいのではないかと、今さらながら思い至りました。[註1]
 
 
もともとこの三工程は、蕉門連句の多様すぎる評釈にあって、「何か客観的な基準のようなものはないか」という命題のもと、佐藤氏が模索・案出したものです。
 
しかも佐藤氏の独断というわけではなく、中村俊定・山下一海など先達の優れた業績をアウフヘーヴェンしており、客観性はじゅうぶん担保されています。
 
(最近では永田英理氏が捨女の恋歌仙・注解でこの方法を見事に援用。[註2]
 
付句作者の脳内活動を追うこの三工程を具体的に記すと――
 
前句への理解である「見込」、それに基づき付句では何を取り上げるかという「趣向」、実際に素材・表現を選んで整える「句作」ということになります。
 
さらに最近では「見込」から「趣向」を導く際に、一種の自問自答を想定しているようです。[註3]
 
 
ではこれを、西鶴ざんまい#31で想定した第一形態~最終形態に当てはめてみましょう。

心持ち医者にも問はず髪剃りて(前句)

形見分けなど一時のこと  〔見込〕
  ↓
仏ごころも一時のこと   〔趣向〕
  ↓
高野へあげる銀は先づ待て 〔句作〕

前句の、医者にも問わず剃髪した人物が、形見分け(遺産分割)を一時考えているとみて〔見込〕、〈そんな一時の思いは何によるのか〉と問いかけながら、仏への信心と思い定め〔趣向〕、「高野山へ寄進を思いついた病人を諫める隠居老人のせりふ」という題材・表現を選んだ〔句作〕わけです。
 
 
「なんや、わしの脳みそ、見すかされとるみたいで気色わるいな」

いや、鶴翁がそう仰るなら、さらにこの方法で自註絵巻を読み続けたいと思います。

「嗚呼、口は災いのなんとかや、呵々」
 
 
[註1]『続猿蓑五歌仙評釈』佐藤勝明・小林孔(ひつじ書房、2017.5)
[註2]「近世文芸 研究と評論」101号(2021.11)
[註3]日本文学芸術学部文芸学科「特別講座」(2022.10)
 

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