西鶴ざんまい #86
浅沼璞
野夫振揚げて鍬を持ち替へ 打越
其道を右が伏見と慟キける 前句
朝食過の櫃川の橋 付句(通算68句目)
『西鶴独吟百韻自註絵巻』(1692年頃)
【付句】
三ノ折・裏4句目。 雑。 朝食過(あさめしすぎ)=時分(じぶん)の仕立。 櫃川(ひつがは)=山科川の古名。其場の仕立。 櫃―飯・川(類船集)。
【句意】
朝めし過ぎ時分の櫃川の橋(にさしかかった)。
【付け・転じ】
前句で農夫に道を尋ねた旅人の目線へと転じ、その後の旅の朝景色に照準を合せた。
【自註】
*古哥に「ふし見につゞく櫃川のはし」と読み残せし。都出でて、東福寺の前に渡せし**一の橋の事也。前句の旅人、道いそぐ甲斐ありて、はやくも爰(こゝ)に来て、此あたりはいまだ朝景色を見し一体也。句作りは食の櫃(めしのひつ)として、いやしからぬやうにいたせし。しかし、此句のはたらきは、***中古句むすび也。
*古哥=出展不明。ただし藤原俊成に「都出でて伏見を越ゆる明け方はまづ打渡す櫃川の橋」(新勅撰集)の作あり。 **一の橋=〈東福寺門前、伏見街道の今熊野川に架かる橋。三の橋まであり。これを「櫃川の橋」と呼ぶこと所見なし〉(定本全集・頭注)。西鶴の誤りか(下記【テキスト考察】参照)。 ***中古(の)句むすび=貞門的な古風な付け方。具体的には「伏見→櫃川のはし(箸)←朝食」の縁語仕立て。
【意訳】
古い歌に「伏見に続く櫃川の橋」と詠み残したのがあった。都を出て東福寺の前に渡した一の橋のことである。前句の旅人は道を急いだ甲斐があって早くもここに来て、あたりを見るに未だ朝景色の様子である。句作りは飯櫃(めしびつ)を素材に、卑しくないように表現いたした。しかしこの句の技法は貞門的な古風な付け方である。
【三工程】
(前句)其道を右が伏見と慟キける
道を急げば櫃川あたり 〔見込〕
↓
朝景色とて櫃川あたり 〔趣向〕
↓
朝食過の櫃川の橋 〔句作〕
前句で農夫に道を尋ねた旅人の目線へ転じ、伏見に続く櫃川あたりとした〔見込〕、〈どのような時分か〉と問うて、朝景色とし〔趣向〕、「朝食→櫃川のはし(箸)」の縁語を貞門風に駆使した〔句作〕。
【テキスト考察】
『新編日本古典文学全集61』には〈京都から伏見街道への出口にあたる「一の橋」と、「都出て……」と詠まれる「櫃川の橋」とを錯覚したようである〉と書かれています。
真偽のほどは不明ですが、もし錯覚だとしたら、その要因は何なのでしょうか。
談林時代の『両吟一日千句』(1679年)では青木友雪との次のような付合がみられます。
櫃川わたれば樗最(サイ)中 西鶴
眠りては落るもしらぬ一のはし 友雪
樗の花の咲く最中、櫃川から一の橋へと向かう途中、我知らず眠りに落ち、花が落ちるのすら意識にない、というような付合でしょうか。
「櫃川」→「一の橋」の付筋に錯覚の遠因があるのかもしれません。
今後、他の作例にも当ってみたいと思います。
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