
西原天気
※樋口由紀子さんオヤスミにつき代打。
おへそから悲しくなると鳴る和音 ながたまみ
からだというのは、悲しいとき、いかにも順当な反応を見せるばかりではない。悲しいとき、悲しい表情で涙する、というばかりでないのだ。臍から和音が鳴ることだってある、と、この句は言っている。この反応は、ちょっと間抜けで場違いで突拍子もない。周囲に人がいたら、不謹慎との誹りを受けるかもしれない。疎んじるような冷たい目を向けられるかもしれない。
で、どんな音、どんな和音なのだろう。そういう興味はとうぜん湧く。悲しいからといって、短調の和音とも限らないと思うが、長調だと、不謹慎さんが増す気がする。ここはそれよよりも、単音ではなく和音というころがミソで、単音だとおならに間違われかねない(尾籠で失敬)。
ところで、構造上になんらかの制約を受ける定型では、伝達という機能上で齟齬ないし不備がしばしば起きる。などと、しちめんどくさい言い方をしてしまうが、つまり、《おへそから鳴る和音》と読むのがしぜんだとは思うが、《おへそから悲しくなる》という事態も、ここにあるとしたら、和音は《おへそ》からでなくともかまわない。「つまり」以降も、しちめんどくさいことには変わりない(おおいに反省)。
で、どう読むか。あくまで散文的な意味の「どう」なわけですが、この手の問題が起きたときは、「どっちでもいい」がとりあえず答えになる。あるいは「どっちも」。
この和音は、ひとまず(一読して受け取ったとおり)おへそから鳴る。でも、おへそから悲しくなることもあるはず。さらにいえば、悲しいから和音が鳴るのではなく/だけではなく、和音が鳴ったから悲しいということもいえる。
結論として、この句の事態・事象は、かなり可笑しい。可笑しいから悲しい。
掲句は『川柳ねじまき』第1号(2014年7月20日)より。
●
0 件のコメント:
コメントを投稿