2026年7月5日日曜日

★週刊俳句の記事募集

週刊俳句の記事募集


小誌『週刊俳句』がみなさまの執筆・投稿によって成り立っているのは周知の事実ですが、あらためてお願いいたします。

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そのほか、どんな企画でも、ご連絡いただければ幸いです。

2026年7月3日金曜日

●金曜日の川柳〔蟹口和枝〕まつりぺきん



まつりぺきん





かたちから入るタイプのぐりとぐら  蟹口和枝

『ぐりとぐら』は、双子の野ねずみを主人公にした有名な絵本のタイトルで、5音ということもあり、川柳でもよく使われます。
世代を超えてインストールされている言葉、と言っていいかもしれません。「ぐりとぐら」という響きそのものに、どこか懐かしく親しい感覚を覚えます。
そしてこの句は、その既知のリズムを巧みに利用しています。

まず、「かたちから入る」という上五は、「a」と「i」という明るく開かれた母音のみによって構成され、中七がさらに「aiu」の反復を添えることで、軽やかな律動を生み出しています。
一方、「ぐりとぐら」は母音だけを見れば決して単純ではありません。しかし、その不均質さは、むしろ共有された記憶の力によって自然に受容され、違和感を生じさせません。

「かたちから入るタイプ」という表現には、少し揶揄するようなニュアンスがあります。それを、あの純粋で愛らしい『ぐりとぐら』に重ねてしまうところに、この句のユーモアがあります。
少し皮肉でありながら、どこか優しい――そんな川柳らしい味わいを感じます。

「中途半端な」(『川柳EXPO2025―柳―』2025)より

2026年6月29日月曜日

●回文俳句 春夏コレクション 手に文庫 井口吾郎

回文俳句◆春夏コレクション
手に文庫 井口吾郎

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昼は濃いタンメン明太子春陽

手に文庫目の利く木の芽昆布煮て

佐賀広し他駅に消えた白日傘

茎とキス兄御ベゴニア好きと聞く

むかついた梅雨更衣場タイツ嚙む

蟬生るフシギ詐欺師振舞う店

ギヤマンと知らす雄らしトンマ山羊

川蜻蛉留まる窓と盆と和歌

よき旅の締めに雲丹飯ノビタキよ

永遠に子は美し苦痛箱庭と

2026年6月28日日曜日

【新刊】小林恭二『三鬼』

【新刊】
小林恭二『三鬼』

2026年06月25日/講談社




2026年6月26日金曜日

●金曜日の川柳〔広瀬ちえみ〕なかはられいこ



なかはられいこ






晴れた日のこっばみじんの黄色です  広瀬ちえみ

洗濯物を干していた。洗濯バサミをつまんだとたん、ばちーんとはじけた。経年劣化した洗濯バサミはもろい。

あー、こっぱみじんやなあと思った。

こっぱみじんになったのは、あくまでも「黄色」であって、それはモノではなくて、黄色的な感情や情動なのかもしれない。

それでも思う。洗濯バサミみたいに終われたら、いっそ清々しいのにと。なんにせよ、「こっぱみじん」とは、あっぱれである。あっぱれは天晴れと書く。

青空と粉々の黄色いかけらのなんとあざやかなことか。

『現代川柳の精鋭たち』 2000年(北宋社)

2026年6月25日木曜日

〔週刊俳句1000号記念転載〕理念はない、熱情を信じない 西原天気

〔週刊俳句1000号記念転載〕
「グルーヴィーでチョイゆる」改め
理念はない、熱情を信じない

西原天気

『つくえの部屋』第5号(2020年4月)より
転載〔大幅改稿〕

俳句の集まりに出かけると、「毎週たいへんでしょう?」とよく訊かれます。創刊二〇〇七年四月のウェブマガジン『週刊俳句』の話です。運営をやっている私へのねぎらいなのか、社交辞令なのか、あるいはすなおに驚かれているのか、それはわかりませんが、いつも答えは同じ。「いいえ。じつは、あんまりたいへんじゃないんです」

理由はいろいろあります。まず、一人ではなく複数での運営であること。

これ、かなり重要。スタートは一人でした。理由は、一人のほうが始めやすいから。合議でコンセンサスを図ったりするのは時間がかかります。すぐに一人で始めて、始まったものをおもしがってくれる人がそのうち加わってくれるだろうという楽観もありました。実際、運営はしだいに増え、現在五名。

一人では絶対に続いていなかったでしょう。仲間、というとスウィートすぎますが、複数運営は、作業量等の負担のシェア以上に、精神的なメリットが大きい。一人じゃないってだけで心強い、愉しいってことはたくさんあるものです。

たいへんじゃない理由は、まだあります。仕組み。スタイル。かっこよくいえば、週俳運営という仕事をデザイン(いわゆる意匠ではなく、仕事の設計面)するのに、「ラク」というのを第一のテーマにしました。じゃないと続かない。

週俳運営には、無料のブログサービスの操作性やらページの構成やら記事の企画・原稿依頼・作成やらさまざまな作業・仕事が関わってきます。それらを「ラク」という基準でつくりあげていく。さらにいえば、「決めない」ことも、ラクをするには大事だったりもします。ぜんぶを決めておくことはない。必要が生じたときに決めればいいという考え方です。

エネルギー効率を重視したということです。クルマでいえば燃費の良さ。週俳運営の要諦は、そこに換言できるかもしれません。

熱意を信じない、ということもあります。

なにかをスタートさせるときは、一般論としてね、なにがしかの希望に燃え、気分は高揚する。だから、いろいろと夢がふくらむ。心身の負担に無理がきく。でも、そうした薔薇色の感情はいつか衰退する。となれば、負担が重圧となり嫌気がさす。熱意の増減にかかわらず続けていく。その意味でも、ラクな仕組み・ラクなスタイルが必須です。

一方、例えばの話、私自身の熱意がゼロになったら、どうするか。週俳運営に対するというだけでなく、俳句への熱意が皆無になったとき。

そのときは、俳句から離れ、週俳運営からも離れればいいわけです。誰かが抜けても、続けていく気のある人がもしいれば続いていくし、いなければ終わる。

ところで、週俳には理念がありません。

理念を掲げて、その実現をめざすというやり方も世の中にあるのですが、週俳はそうではない。特定の理念に俳人・俳句愛好者が蝟集するというのはなんだか大仰だし、ちょっと皮肉にいえば、理念を掲げることは、その欠落を表明しているようなもの、という側面もあります。つまり、ないものねだり。そうではなくて、週俳が続いていくうちに実現してゆくものがおのずと理念をかたちづくっていくという考え方です。

基本方針は、求心力ではなく遠心力。

例えば結社に必須の求心力は、週俳には不要です。求心力をもてば、望むと望まざるとにかかわらず、一つの党派になります。媒体である週俳は、党派と無縁であるべき、というか、無縁でいたい。

「俳句」と誌名に謳いながら、川柳の記事がある、さらには音楽の記事があるのも、遠心力の一端です。


と、ここまで、週俳について書いてきて、私自身の俳句との関わり方に思いが到りました。つまり、それが週俳のあり方になんらかの影響を与えているという可能性。

私の個人的な信条や資質、趣味嗜好などを週俳に反映させてはいけない。創刊当初から現在にいたるまでずっとそう思ってきましたが、どうも、そのへんはあやしい。どうしてもそうなってしまう部分もあるかもしれない(他の運営の人たちも、それは同様でしょう。例えば、いちばん古くから週俳に関わっている上田信治さんにしても、そう。週俳には上田信治的成分も含まれているにちがいありません)。

週俳が始まるおよそ十年前、ふとしたきっかけで俳句を身近にするようになって、いまだに俳句を遊んでいるわけですが、いちばんだいじにしてきたのは、気ままということでした。

俳句と、気ままにつきあう。つくるのも気まま、読むのも気まま。心地よく機嫌よく俳句とつきあうには、気ままがいい。

もともと面倒くさがりなので、そうなってしまうのですが、例えば〈所属〉は要らない。というよりむしろ邪魔。結社や同人に参加したことはありますが、長く続けるものではないという気分。現在は「はがきハイク」という二名からなる俳誌(業界最小最軽量の俳誌)〔*〕のみが所属といえば所属。週俳が所属だろうとおっしゃる方がいそうですが、所属ではない。強いていえば、週俳運営を〈担当〉しているという感じでしょうか。

つくるなら、まぬけな句、ねごとのような句、と今は思っていますが、この先はどうかわからない。つくりつづけるかどうかもわからない。

自分の句を読んでくれる人が、いてほしいとは思いますが、たくさんの必要はない。一人あるいは数人、自分の読者がいてくれれば幸せです。この人数は、自分以外ということです。自分は、自分の句や散文を最初に読む読者であり、だいじな読者です。誰でもそうでしょうけれど、自分の書いたもの、とくに句は、自分で読んで愉しめるものでありたい。ともかく、一人あるいは数人の読者だけを念頭に置くと、書くものが気ままでいられます。

私的〈気まま〉と週俳はいっけん相性が悪そうです。日曜日ごとに更新され(驚くべきことに一度として休刊がない。ウェブサイトの右にバックナンバーへのリンクがありますから、見ていただけるとわかります。二〇一一年三月一一日の直後にも変則的なかたちで更新しています)、たくさんの人がそれぞれの頻度でかかわりつづけていく週俳は、〈気まま〉と遠い存在という見方もできます。気ままでやっていけるのか、続くのか? でも、それで続いているのだからしかたがない。

週俳にはどこか脱力、というか、肩肘張った感がまるでない感じがしませんか。この媒体にも〈気まま〉成分が含まれていると思うのですよ。

グルーヴィーでちょいユル。週末のファンクバンドのような『週刊俳句』であってほしい。私個人はそんなふうに考えています。


まとめ

1 すぐに旅立ちたければ、ひとりで。遠くまで行きたければ、複数で。(どこかで聞いた諺のよう)

2 理念は邪魔。熱情に頼ってはいけない。

3 しくみはだいじ。長く続けるものほど。 

4 求心力ではなく遠心力。

5 気ままがいちばん。力を抜く。


〔*〕「はがきハイク」は2026年3月・第27号をもって終刊。

2026年6月24日水曜日

●西鶴ざんまい#98 浅沼璞

 
西鶴ざんまい #98
 
浅沼璞
 

  小車の錦八重の幕串    打越
 伽羅割の捺忘れ行く野は暮て 前句
  初夜にかならず燃る恋づか 付句(通算79句目)
『西鶴独吟百韻自註絵巻』(1692年頃)

【付句】
名残ノ折・裏2句目=恋。
初夜(しよや)=戌の刻。現在の午後8時頃。

【句意】
夜更けに必ず(鬼火が)燃える恋塚。

【付け・転じ】
前句で鉈を忘れて行ったその原因を「地元の言い伝えを恐れたから」として転じた(結果に原因を付ける逆付)。

【自註】
其の野のすゑにひとつの塚のありしを、里人の申し伝へて、*むかし男をこがれ死にせし美女の墓所(むしよ)、かならず雨の夜などは、**執心の火となつて燃えてあがりける、と物語りせしに、女心におそろしく、暮の道をいそぎ、手道具もわすれし***心行を付け侍る。

*むかし男=昔いた男。在原業平を思わすか
**執心(しふしん)の火=嫉妬心の鬼火。
***心行(こゝろゆき)=内容主義の心付(今栄蔵『初期俳諧から芭蕉時代へ』笠間書院、2002年)。

【意訳】
野末に一つの塚のあったのを、地元の人が言い伝えて、昔いた男を慕って焦がれ死にした美女の墓で、きっと雨の夜などは、嫉妬心が鬼火となって燃え上がるのだ、と物語りしたのだが、(それを聞いた人が)女心に怖ろしく、暮れかかった道を急ぎ、手回りの小道具も忘れてしまった(そのような)心持ちによって付けています。

【三工程】
(前句)伽羅割の捺忘れ行く野は暮て

  里人申すことおそろしく  〔見込〕
     ↓
  こがれ死にして燃る恋づか 〔趣向〕
     ↓
  初夜にかならず燃る恋づか 〔句作〕 

前句で鉈を忘れて行ったその原因を、地元の言い伝えを恐れたからとし〔見込〕、〈どんな言い伝えか〉と問うて、焦がれ死にした美女の鬼火が墓所に燃えるとし〔趣向〕、前句「暮て」を受け「初夜」と時分を定めた〔句作〕。


【テキスト考察】
前回の自註「野遊び」に関してですが、やや説明不足だったかに思え、あらためて歳時記類を繙いてみました。以下、連句的な気づきもあったので記しておきます。

まず西鶴も見たと思われる『増山井』(1663年)では人事の「非季詞」に分類されおり、やはり雑の扱いであったようです。

下って『増補俳諧歳時記栞草』(1851年)になると「兼三春物」に分類されており、近現代と変わりません。ただ『栞草』の同項目には芭蕉の伝書といわれる『貞享式』(俳諧古近抄)からの引用も記されていて、こうあります――〈野遊と云ふことは、もとより川狩の名類(なくひ)ながら、平句の雑は勿論にて、春秋の二に用いることは、例の衆議によるべき也〉。

さきの『増山井』以降「川狩」は夏(六月)に分類されており、事情は複雑そうですが、ときに季の衆議が行われていたという記述は「座の文芸」として一考に値するでしょう。

2026年6月23日火曜日

〔ネット拾読〕Tomorrow Never Knows 縁暈・自虐・岡田一実・細村星一郎 西原天気

〔ネット拾読〕
Tomorrow Never Knows
縁暈・自虐・岡田一実・細村星一郎

西原天気


おひさしぶりです。2018年8月22日以来の〔ネット拾読〕です(≫labels)。わけのわからないタイトルを習わしとしていましたが、それは体力を使うので、曲名にすることにします。ひきつづき、記事内容とは無関係です。

それでは行きます。

岡田一実:季語の縁暈(えんうん)――私は本当に蛍を観ているのだろうか 2026年6月14日
リンクはこちら https://note.com/suisei13/n/n709fb3d302c1

米国の心理学者ウィリアム・ジェームズ(1842-1910)の概念を話のとばぐちに、季語について根源的に考察。
私たちは季語を経験しているようでいて、実は季語だけを経験していない。/このことを考えていて、ウィリアム・ジェイムズの「縁暈(えんうん fringe)」という概念に出会った。(岡田一実)
俳人としての(と言っていいのかどうか)感受性や洞察が、アカデミックな成果の一端と出会って、論を明確化・深化させていく例。
もし本意を季語の中心にある核だとするなら、「縁暈」はその周囲に広がる経験の層と言えるかもしれない。/(略)/そして、その「縁暈」は人によって異なる。同じ人のなかでも変化する。/(略)/季語は本意によって共同体と結びつく。/しかし同時に、「縁暈」によって個人とも結びつく。(岡田一実)

季語の動態的な働きをシンプルに把握。

本意だけなら歳時記になる。
「縁暈」だけなら日記になる。

俳句はその両者のあいだに成立しているのではないだろうか。

細村星一郎:巨大俳句時評─2026/2

リンクはこちら https://haiku.monster/contents/commentary-h5

前半(=はじめに:自滅する俳人)と後半(=あらためて角川「俳句」の作品欄を読んでみる)で別のふたつの論考が合わさったような記事(つなぎの工夫はあるものの)。前半は、ざっくり言うと、俳句ジャンルへのネガティヴな思いばかり募らせるのってよくないよね、といった把握(ざっくり過ぎるわ)。
問題は俳句と向き合う上での必要悪ともいえる自虐が、自分でも気づかないうちに「自滅行為」へとすり替わってしまうことの恐ろしさである。(細村星一郎)
ただ、この部分はどうも本旨ではなく、前半の後半にある《「伝統を敵視する」ことにかんする病的な傾向》に関する事柄が、ほんとうに言いたいことのようだ。

俳句における伝統敵視について、実体なく人々の心に広がっている社会不安になぞらえる。このあたりは腑に落ちないこともない。伝統というより、有季定型派(はんぶん造語)かな? 非=有季定型派の、俳句エスタブリッシュメントを形成しているかに見える有季定型派への恨みつらみ。

こうした心情的な部分(論理に回収できない気持ちの部分)の複雑さは、細村自身に深く関わっていることも軽く吐露されている。曰く、《これらの言葉の行き先がどれも、かつての自分自身であるということだ》。

ここまで読むと、最初に提示された《自虐》《自滅》が、俳句世間全体をいうものではなく、伝統的な有季定型(の厚遇)を恨む人たちにもっぱら属する、という、細村氏の把握がはっきり見えてくる。

そうした、いわばルサンチマン的な言説を目にしないわけではないが、それもまた仮想敵ではないのか。お互いがお互いの仮想敵。

で、後半です。

いやいや、こんなことに拘泥して部屋にこもりっきりのような心持ちではいけないというわけで(それでかまわないと私は思うけどね)、
では、どうすれば僕らは妄想に取り憑かれることなくこの弱味と向き合っていけるのだろうか。それはきっと、いま目の前に提示されているものを誠実に読んでいくことのほかにないのだろう。僕のようなものがこうしてウジウジしている間にも俳句は無数に作られ、世に出され、そして論じられているのだから当たり前だ。(細村星一郎)
むりやりつないだなあ、とは思うけれど、「定期」リリースを優先させた時評なので、事情はわかる。

ここでは、《俳句は無数に作られ、世に出され、そして論じられているのだから》という進行上の定型文に、ちょっと引っかかっておきたい。《俳句は無数に作られ、世に出され》に異論はない。これでもかというくらいに《無数》に作られまくっている。昨今のSNSを含めれば《世に出され》る量もかつてよりもはるかに多い。しかし、《論じられている》か?

それよりまえに、読まれているか? 俳句って。
高山れおな 俳句など誰も読んではいない
2008年8月9日、ウェブサイト「俳句空間 豈weekly」創刊のことば
この状況は18年経った現在も変わってはいないと思う。俳句は読まれない。俳人諸氏がもっぱら読むのは自分の句でありせいぜい近所の句。

俳句など誰も読んではいない。読まれないものは論じらない。よしんば論じられとしても、誰もそれを読まない。

まあ、それでも、読み、論じる以外、ない。その覚悟は必要とばかりに、この論考も、後半、そこに向かって突き進む。角川『俳句』2026年2月号に掲載された俳句作品(しばしばハード極まりない荒野)を、細村氏はどんどん読んでいく。

ていねいな読み方。示唆に富む箇所もある。

仁平勝の箇所では、
坪内稔典もそうだが、あれほどクリティカルな論考を飛ばしていた彼らが揃いも揃ってこうした平易性や通俗性といった方向に向かっていくのはどうしてなんだろう、としばしば考える。(細村星一郎)
とある。論考と作句は切り分けるべき、といった一般論よりも、俳句作品上の「通俗性」ってなかなかに手強い概念ですよね。「ただごと」や俳句的脱力とも関わるし。といった私の軽い懸念はさておき。

ともあれ、丹念な読みが展開されている。読者諸氏におかれましては、ぜひとも原文(リンク先)をお読みくださいませ。


それではまた。次はいつになるかわかりませんが。


2026年6月19日金曜日

●金曜日の川柳〔ヒロハシサギ〕暮田真名



暮田真名





まな板の裏を見せ合う恋人たち  ヒロハシサギ

見せ合っている、ということは、一人一枚まな板を持ち、まな板は最低でも二枚以上あるということだ。所有するまな板の枚数には個人差があるだろうが、わたしは一枚である。だからだろうか、この句の「恋人たち」はまだ同棲はしておらず、それぞれの家にあるまな板を持ち寄っているような気がする。

両面使うことにしているというのでなければ、まな板の裏をまじまじと見る機会はなかなかない。伏せられているものを持ち上げて見るという動作は、石の裏のダンゴムシを観察する行為をも想起させる。とくべつ美しくもない、秘められた領域を見せ合うという意味では、まさしく恋人たちにふさわしい行いと言えるかもしれない。

おもしろいのは、立てられたまな板は、恋人たちを隔てる壁にもなっているところだ。さながら、盾のように。近づきつつ遠ざかる、遠ざかつつ近づく。平熱の恋の句である。

2026年6月16日火曜日

【新刊】鴇田智哉『高屋窓秋の百句』

【新刊】
鴇田智哉『高屋窓秋の百句』



版元ウェブサイト



2026年6月12日金曜日

●金曜日の川柳〔天谷由紀子〕八上桐子



八上桐子





櫛の歯は等間隔で逃げられぬ 天谷由紀子

手に取った櫛の歯の等間隔を意識したとき、まるで檻のようなその内側に閉じ込められている自分を発見したのだろう。

この句は、誰(なに)が、どこから逃げられないのか書かれていない。窮屈な社会や組織、家庭のことかもしれないし、櫛の歯自身としても読める。

作者本人のことと読んだのは、句集のなかに、どこか危うい状況を冷静に書きとめた作品が多いせいだ。

おはじきと鍋の間にある扉

満月になるまで鉛筆を削る

ひなげしが折れないように受話器おく

目に映るこの世界の歪みと、そこにいる私を淡々と見つめている。

石には石の力があって、ぎゅっと握りしめると安心するように、折々にひらいてしまう句集なのだ。

『白いみしん』 (2001年/私家版)

2026年6月8日月曜日

★週刊俳句の記事募集

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小誌『週刊俳句』がみなさまの執筆・投稿によって成り立っているのは周知の事実ですが、あらためてお願いいたします。

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時評的な話題

イベントのレポート

これはガッツリ書くいていただくのはなかなか大変です。それでもいいのですが、寸感程度でも、読者には嬉しく有益です。



そのほか、どんな企画でも、ご連絡いただければ幸いです。

2026年6月5日金曜日

●金曜日の川柳〔千春〕西原天気



西原天気





どうしよう赤信号が幻に 千春

《赤信号が幻に》なった瞬間からの、この人のこの状態から推測するに、信号機のサインは、なんらかの標/導(しるべ)であったにちがいない(信号機側からすると、それは本懐だ)。

ここで、読者たる私が、この人に向かって告げることは、もう決まっている。

赤が幻になった以上、そこには青しかない。否、青も黄色もない。どうしようもないくりあ、どうにでもしていい、何をしようがかまわない、ということだと思いますよ、はい。

世界ぜんぶが、この人の意のままになる。この人のものになる。その一瞬手前の「どうしよう」。一歩手前の不安や逡巡。それは、歩き出す、駆け出す前の足踏みなのだと思います。

掲句は千春句集『こころ』(2024年4月15日/港の人)より。

2026年6月3日水曜日

●西鶴ざんまい#97 浅沼璞

 
西鶴ざんまい #97
 
浅沼璞
 

 神軍春の丸雪におどろかせ  打越
  小車の錦八重の幕串    前句
 伽羅割の捺忘れ行く野は暮て 付句(通算79句目)
『西鶴独吟百韻自註絵巻』(1692年頃)

【付句】
名残ノ折・裏1句目=折立。雑。
伽羅割の捺(きやらわりのなた)=香木を割る鉈。

【句意】
香木を割る鉈を忘れた(野遊びの後の)野原は暮れていく。

【付け・転じ】
神軍の錦や幕串を、女官たちの野遊びのそれと取成した転じ。

【自註】
*見わたせば都はにしきの幕うちて御所の女中の野あそび、**萩も薄も手折りて***捨草となれり。万のむしを追ひまはし、しどもなく日を暮し、今朝とは替り、道いそぐ風情、姿まばらになつて足音高く爰を立ちて、かへさの跡を、其の里の子、千種わけ行くに、つかひ捨てし楊枝に伽羅割の道具を取りおとされし。

*見わたせば都は=〈見渡せば柳桜をこきまぜて都ぞ春の錦なりける〉(素性法師・古今集)
**萩も薄も=自註では秋の設定だが、付句では雑。
***捨草(すてぐさ)=抜き捨てた草。無用物のたとえでもある。

【意訳】
「見渡せば……」の古歌のとおり錦の幕を張り、禁中の女官たちの野遊び、萩も薄も手折って無用のものとなる。さまざまな秋の虫を追い回し、わけもなく一日過ごし、(往路の)今朝とは違い、帰路は急ぐ様子で、姿もまとまりなくばらけて足音を高く響かせ、ここを出て、その帰った跡を、村里の子供らが雑草を踏みわけて行くと、使い捨てた楊枝に、伽羅割の道具まで取り落とされたようで。

【三工程】
(前句)小車の錦八重の幕串

  見わたせば御所の女中の野あそびか 〔見込〕
     ↓
  しどもなく野あそびしては道いそぎ 〔趣向〕
     ↓
  伽羅割の捺忘れ行く野は暮て    〔句作〕

前句の錦や幕串を女官たちの野遊びのそれと取成し〔見込〕、〈どんな一日か〉と問うて、わけもなく乱雑な様子を描き〔趣向〕、挙句の果てに「伽羅割の捺」を忘れた、その夕景をクローズアップした〔句作〕。

【テキスト考察】
1686年刊『好色五人女』巻一ノ三には当世(江戸時代)の野遊びが描かれており、ここでも里の子が出てくる。時代設定は違っても、「野遊び→里の子」の流れは西鶴の好みであったのだろう。
原文を引いておこう。

「但馬屋の一家(=姫路のとある商家の女たち)、春の野遊びとて、女中籠つらせて、(中略)松も若緑立ちて、砂浜の気色、またあるまじき詠めぞかし。里の童子、さらへ手毎に落葉かきのけ、松露(しようろ)の春子を取るなど、菫・茅花を抜きしや……」

松露とは、海辺の松林に生える食用キノコ。

そういえば本作・独吟百韻33句目〈色うつる初茸つなぐ諸蔓(もろかづら)〉の自註にも地元の子供たちがキノコ採りをする描写があった。

2026年5月29日金曜日

●金曜日の川柳〔宇佐美眞一〕まつりぺきん



まつりぺきん





柔らかな拒絶の上に建てる塔  宇佐美眞一

「塔」と聞いて、何を思い浮かべるでしょう。五重塔、エッフェル塔、今なら東京スカイツリーでしょうか。
ただこの「塔」は、もっとプリミティブなもの――たとえばバベルの塔を連想させます。

単一の言語を奪われ、言葉を分かたれた人々が、相互の理解を断たれ、その共同性を失った物語。
そう考えると、「拒絶」という言葉にも納得がいきますが、この句はそこに「柔らかな」という形容を添えています。
拒絶という本来は硬い印象の行為が、なぜか柔らかい。断ち切りたいのに断ち切れない、人間の曖昧さが垣間見えます。

そして、その「柔らかな拒絶」の上に、また「塔」を建てるというのです。人間とは懲りないものですね(笑)
分断し、距離を取り、それでもまた新しい何かを築こうとする。まるで「今度こそ」と言いながら、結局は何度も同じ場所を歩いているように。

私たちは前進しているつもりで、実はメビウスの輪の上を歩いているだけなのかもしれない――そんな静かな問いを、この一句は投げかけているように思えます。

「フードコートへ放牧」(『ときどき放課後、ときどきパラソル』2025)より

2026年5月24日日曜日

【BOOK】 『音数で引く俳句歳時記・夏』『俳句講座 季語と定型を極める』

【BOOKS】
『音数で引く俳句歳時記・夏』『俳句講座 季語と定型を極める』


岸本尚毅監修・西原天気編『音数で引く俳句歳時記・夏』

岸本尚毅『俳句講座 季語と定型を極める』


2026年5月22日金曜日

●金曜日の川柳〔青砥和子〕まつりぺきん



まつりぺきん





副作用かもしれないプリン食べたい  青砥和子

「副作用」という言葉は、歩んできた人生経験や過ごした時間によって捉え方が変わりやすい、デリケートな言葉のひとつだと思います。

そういった少し重い語を頭に置いておきながら、軽やかにパロール味たっぷりな「プリン食べたい」。

重さをほんの少しやわらげています。何となくホッとしませんか?

前後の落差を考えると、破調でありながら口語的リズムがむしろ奏功しているように思います。

もし今後、「副作用」という言葉に多くの方がナーバスになる時代があったとしても、この句を思い出せば、少し気持ちも楽になるのではないでしょうか。

『雲に乗る』(2023)より。

2026年5月20日水曜日

●西鶴ざんまい#96 浅沼璞

 
西鶴ざんまい #96
 
浅沼璞
 

  山吹しぼむ岸の毒水    打越
 神軍春の丸雪におどろかせ  前句
  小車の錦八重の幕串    付句(通算78句目)
『西鶴独吟百韻自註絵巻』(1692年頃)

【付句】
三ノ折・裏14句目。綴目。雑(其場の付)。
小車の錦(をぐるまのにしき)=牛車(ぎつしや)をデザインした大和錦。
幕串=幕を張るための支柱。

【句意】
(伊勢神宮の)小車錦の帳(とばり)、(それを張りめぐらすための)八重の幕串。

【付け・転じ】
神軍の勝利を伊勢の神によるものと取成し、その陣営の具体的な描写へと転じた。
※内外宮(うちとのみや)伊勢 ― 神風(類船集)。

【自註】
かけまくもかたじけなしや、小車の錦は伊勢太神宮の*御戸帳といへり。此ひかり、日本にかゝやき、是を其時の**陣幕にして付よせたり。

*御戸帳(みとちやう)=神仏の厨子などに垂らす帳。  
**陣幕(じんまく)=陣屋に張り渡す幕。軍幕。

【意訳】
言葉に出して言うことさえも恐れ多いけれども、小車の錦は伊勢の皇大神宮の神前の帳に用いられているという。この御威徳の光は日本中にかがやき、これをその戦時の陣幕に思いなして付け寄せたのである。

【三工程】
(前句)神軍春の丸雪におどろかせ

  伊勢太神宮ひかりかゝやき 〔見込〕
     ↓
  伊勢の陣幕ひかりかゝやき 〔趣向〕
     ↓
  小車の錦八重の幕串    〔句作〕

勝利は伊勢の神の御威光よるものと取成し〔見込〕、〈戦場はどんな風景か〉と問うて、陣幕も光りかがやくとし〔趣向〕、その錦や幕串をクローズアップした〔句作〕。


【テキスト考察】
『訳注西鶴全集2』ではこの付句に関し、〈八重は備への十分を現はすと共に、八重の潮路を兼ねて示したものか〉と問うだけでなく、〈こゝは神軍で、想像上のものであるから、海上の陣幕と見るべきであらうか〉とも問うている。となれば、船の描写は一切ないから「幕串」は海から突き出て八重に屹立したものと解せる。かなりSFチックな光景だ。

そういえば西鶴には高屋城跡を詠んだ「月しろのあとや見あぐる高屋ぐら」という発句もあった。月の出の空が白む頃、城跡の空を見上げると、かつての高櫓が……といったタイムスリップ詠である。

2026年5月19日火曜日

【新刊】 小津夜景『漢詩の手帖 書庫に水鳥がいなかった日のこと』

【新刊】
小津夜景『漢詩の手帖 書庫に水鳥がいなかった日のこと』

2026年5月7日・素粒社




2026年5月18日月曜日

【新刊】神野紗希『俳句は肯定の文学 口語・他者・偶然』

【新刊】
神野紗希『俳句は肯定の文学 口語・他者・偶然』

2026年4月1日・朔出版




2026年5月17日日曜日

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2026年5月15日金曜日

●金曜日の川柳〔西田雅子〕暮田真名



暮田真名





ある夏の白いページに二泊する  西田雅子

みじかい滞在である。「白いページ」はホテルの一室のよく磨かれた床のようでもあり、洗い替えられた清潔なシーツのようでもある。

「二泊」という単語選びは、「白」を含む「泊」という漢字の上でも、「ハク」という音の上でも、「白いページ」のまばゆさを確かなものにする。夏の強い太陽光の照り返しが、目に見えるようだ。

ところで、白いページとはどのようなものだろう。単行本、文庫本ならば、乱丁本かもしれない。「ある夏」だから、アルバムや日記の可能性もある。その場合は、記録することがなかった、あるいは記録のための時間がなかった、宙に浮いた期間である。いずれにせよ、白いページは人間の作為から解き放たれて無防備だ。そこを気に入った何者かが、すこしのあいだ寝泊まりをして、やがて去っていく。長居をしないところもいい。

白いページは開かれたまま、次の訪れを静かに待っている。

2026年5月8日金曜日

●金曜日の川柳〔柴田午朗〕湊圭伍



湊圭伍





いやな世が来て新聞がおもしろい  柴田午朗

『柴田午朗句集―伯太川』(日本現代川柳叢書題18集)芸風書院、1990年。

今まさに「いやな世」が来ているが、べつに新聞は面白くならない。

という意味でこの句は嘘だなあ。

川柳は社会性や政治性から評価されることも多いけれども、その社会性や政治性は各時代のもろもろの状況にもたれ過ぎていて、時間が経つと雲散霧消する程度のものだ。同時代の、だいたい同じイデオロギーの人間の儚い共感を呼ぶために、社会や政治が使われてきたのだ。

掲句はしかし、そうしたベタな川柳の社会性、政治性からは辛うじて距離をとって、したがって、少なくとも今の時代でも興味をもって読み得る句になっている。「いやな世が来」たなあ、それと、「新聞がおもしろい」なあと、二つの印象がそれなりの納得をもってつなげられた時代があったのだという、現在からの発見が、現在にこの句を読むことにはある。

その発見の感覚が生じるのは、「いやな世が来て」まで7音、「新聞がおもしろい」の10音での2句の切れになっていて、2つの認識にそれぞれ一つのまとまりが充てられているからだ(それとは別に575音でも切れる安心感もあるが)。この2つの言葉=認識のまとまりに飛躍があることが句構造で明示されているのである。

そこから、「いやな世が来」たのに、「新聞がおもしろ」くはないという、私たちの実感が、句の内容へのいささかの反発とともに立ち上がってくる。じゃあ、今、何が面白いのか。代わりになる面白いものがないように感じるとして、それがどうしたのか。

そもそも、掲句で「おもしろい」と言っている主体は、本当に「おもしろい」と感じているようには思えない。多重に屈折したイロニーがそこにはあり、私たちの読みも最後には「おもしろい」という感情の社会性や政治性へと至る。この句と同じ視点に立てなくとも、私たち自身のメディアや言説の環境において、私たちは何を面白がらされているのか、について考えるのである。

2026年5月6日水曜日

●浅沼璞 西鶴ざんまい #95

 

西鶴ざんまい #95
 
浅沼璞
 

 此の夕孤猿身を断つ峯の花  打越
  山吹しぼむ岸の毒水    前句
 神軍春の丸雪におどろかせ  付句(通算77句目)
『西鶴独吟百韻自註絵巻』(1692年頃)

【付句】
三ノ折・裏13句目。花の定座だが前述のとおり二句引き上げられている。  春(春の丸雪・あられ)。  神祇(神軍・かみいくさ)=神々の戦い、または神の軍勢。

【句意】
神々の軍勢は(時ならぬ)春の霰を降らせ(敵を)おどろかせる。

【付け・転じ】
毒魚による水の有毒化を、神軍によるものと見替えての転じ。

【自註】
*古代もろこしより**嶋人の数かぎりもなく海船に乗りつゞきて日本(に)渡りしを、***住吉明神をはじめとして、風の神、****番袋の口をあけて、俄に大風を吹かせ、雨の宮は時ならぬあられをうら/\にふらせ給へば、是(これ)皆毒液となつて、是はならぬとにげて行くとぞ。

*古代もろこしより……=奈良絵本「八幡本地」、謡曲「白楽天」などによる。 
**嶋人(しまびと)=外国人。ここでは唐土人。
***住吉明神=海の神として信仰された。〈住吉の神、近き境をしづめ守りたまふ〉(源氏・明石)。〈すみよしも力一ぱい神軍〉(大矢数・第二十一)。
****番袋(ばんぶくろ)=雑多なものを入れる大きな袋。ここでは風神の持つ風袋。

【意訳】
むかし唐土から唐土人が数限りなく船に乗ってつぎつぎ日本にやってきたのを、住吉明神をはじめとして(神々が集まり)、風神が風袋の口をあけて突然強風を吹かせ、雨の宮の神が季節外れの霰を浦々に降らせなさると、それによって海水はみな有毒化されて、これはいかんと(唐土人は皆)逃げ帰ったとか。

【三工程】
(前句)山吹しぼむ岸の毒水

  あらたかな住吉の神なし給ふ 〔見込〕
     ↓
  もろこしの海船つゞく神軍  〔趣向〕
     ↓
  神軍春の丸雪におどろかせ  〔句作〕

海水の有毒化を、住吉の神によるものと見替え〔見込〕、〈なにが目的か〉と問うて、唐土との海戦で相手の船を追い払うためとし〔趣向〕、春の霰による撃退法を素材とした〔句作〕。

【テキスト考察】
神風の元ネタとして、前述のとおり「八幡本地」や「白楽天」を諸注はあげている。くわえて元寇に言及しているものもある(『訳注西鶴全集2』、『新編日本古典文学全集61』等)。しかし自註にある「あられ→毒液」の出どころは判然としない。元寇で毒矢が使われたのは知られているけれど、使ったのは敵側だし、霰とは関係がない。「あられ→毒液」は前句の「毒魚→毒水」を転じた西鶴の創作であろうか。元ネタの有無についてはもう少し調べてみる必要がありそうだ。

 

2026年5月1日金曜日

●金曜日の川柳〔西沢葉火〕まつりぺきん



まつりぺきん





ライターの音を一切消した窓  西沢葉火

静謐です。

ライターの点火音のような小さな音さえも聞こえない、密閉された空間。

それを成し遂げる「窓」の存在感。

「一切」には、内と外とが完全に切り離された、隔絶の風景を殊更に強調するニュアンスがあり、内面的世界の象徴のようにも感じます。

しかし「窓」である以上、音は聞こえなくても、外からライターの炎が見えてしまいます。

むしろ、聴覚を遮断することで、わざと注目させようとしているのかもしれません。

火はまだ消えていませんよ、と。

『クラドフレビス・レインボー』(2022)より。

2026年4月24日金曜日

●金曜日の川柳〔宮井いずみ〕暮田真名



暮田真名





ボヨンボヨン大王お見舞いにざぼん  宮井いずみ

「ボヨンボヨン大王」なる人物が、お見舞い品に果物の「ざぼん」を提げてやってきた。あるいは、「ボヨンボヨン大王」へのお見舞い品として「ざぼん」を持参した。おおむね、そのように読める句である。

この句の骨子を抜き出すならば、やはり「ボヨンボヨンざぼん」になるだろう。三拍の繰り返しが作る、ゴムまりのような弾み。「ボヨンボヨン大王」のビジュアルは、きっと「ハクション大魔王」のようではないだろうか。顔の輪郭も、お腹も、豊かに張り出ているだろう。

では残りの「大王お見舞いに」は蛇足かといえば、そうではない。全十八音のうち七音を占めるO音の二音を抑えつつ、「大王」の「大」という文字によって、世界最大級の柑橘類である「ざぼん」の大きさをも予感させているのだ。

さらに、「ざぼん」の「ぼん」は、「ボヨン」をコンパクトに収納したようでもある。「ざぼん」は、あるいは「ボヨンボヨン大王」の身代わりかもしれない。

2026年4月22日水曜日

●浅沼璞 西鶴ざんまい #94

 

西鶴ざんまい #94
 
浅沼璞
 

  詩人時節の露を哀み    打越
 此の夕孤猿身を断つ峯の花  前句
  山吹しぼむ岸の毒水    付句(通算76句目)
『西鶴独吟百韻自註絵巻』(1692年頃)

【付句】
三ノ折・裏12句目。  春(山吹)。  毒水(どくすい)=有毒の水。

【句意】
山吹をしぼませる、岸の有毒な水。

【付け・転じ】
猿の声を聞いて身を断つ詩人の伝統的哀感から、猿そのものが身を断つ状況へと転じた。

【自註】
湖の入江の流れを*毒鳥・毒魚のわたりて後、諸/\の**鱗も爰にすみかね、***うき波に沈めり。猿も子猿をつれて、不断、此の流れに口をそゝぎしに、毒水と成り、岸の草木までも枯れはつるを見てなげく有り様にしての付かた。

*毒鳥=〈異形異色の者、皆毒有り。恐らくは之を食ふ可からざるなり〉(『和漢三才図絵』44山禽類「諸鳥毒有る物」)。  **鱗(うろくづ)=魚類。いろくづ。  ***うき波=憂き波。

【意訳】
湖にそそぐ入江の流れを有毒の鳥や魚が渡った後は、諸々の魚類もここに生息できなくなり、汚染水に沈んでしまった。猿も子猿をつれて、いつもこの流れを口にしてきたが、有毒な水となり、岸の草木までも枯れはて、それを見て(猿も)なげく状況を想定した付け方(=元禄疎句体)である。

【三工程】
(前句)此の夕孤猿身を断つ峯の花

  口をそゝぐに憂き波となり 〔見込〕
     ↓
  毒魚わたれる入江の流れ  〔趣向〕
     ↓
  山吹しぼむ岸の毒水    〔句作〕

前句を猿自身がなげくほどの飲料水の汚染状況であるととらえ返し〔見込〕、〈なにが原因か〉と問うて、毒魚によるものとし〔趣向〕、結果として山吹まで枯れたことを素材とした〔句作〕。

【テキスト考察】
『訳注西鶴全集2』では、前句の句意を〈一匹の猿がその身を断つが如き悲痛な聲で叫んでゐる〉とし、もともと身を断つのは猿自身であると解している。

しかし前回参照した〈猿を聞く人捨子に秋の風いかに〉の芭蕉句のように、猿を聞く詩人の側が「猿の声に対して断腸の思いを詠んだ」という伝統がすでにあったことは明らかである(角川文庫版『芭蕉全句集』など)。

よって冒頭の「三句の渡り」における、打越の「詩人」を受けた前句にも同様の伝統がはたらいていたとみるのが自然だろう。『新編日本古典文学全集61』でも、前句は〈聞く人に断腸の思いをさせる、の意〉であり、付句は〈前句の「身を断」つ主体を、聞き手側でなく、猿自身とした付け〉としている。つまり「主体の転じ=三句の転じ」と解しているのである。

 

2026年4月17日金曜日

●金曜日の川柳〔北川絢一郎〕湊圭伍



湊圭伍





どの糸からもマリオネットは血を貰う  北川絢一郎

操り人形が活き活きと動いているとして、その活力は人形をぶら下げた糸を通じて操っている人物から来ている、というのは当たり前である。ただその活力を「血」と表現し、「血を貰う」として人形とそれを操るものの関係を示すと、急に状況が不穏に見えてくる。「どの糸からも」に示された人形の貪欲さも、この句の怖さを増幅している。

人形は生を持たないモノであり、操るひとは意志を持つ生き物である。この割り切りは分かりやすい。また、人形とそれを見事に操るひとは芸として一体で、共に私たちの視線に向けて生きてある。これも心地よい把握だ。ただ「マリオネット(操り人形)」が動くのを見るとき、上に張り詰めたり緩んだりして垂れている糸、人形に集中しているときは背景にぼんやりとしている操る人の影が見えている。この背後の影や、糸の捉えがたい動きが、私たちの無意識に働きかけている。

「マリオネットは血を貰」っているとしたら、その「血」は操り手のみから来ているものだろうか。人形に流れてゆく血はただその動きのみにきれいに置き換わるものだろうか。また、血を際限なく要求する「マリオネット」を、私たちは操り人形芸という気味の悪さはあるがあくまで優しい演芸以外にもあちこちで見る気がするのだが、どうだろうか。

北川絢一郎『泰山木』(私家版、1995年)より。

2026年4月10日金曜日

●金曜日の川柳〔藤井智史〕まつりぺきん



まつりぺきん





マヨネーズ1本分の陽気です  藤井智史

さて、どうとらえましょうか。

マヨネーズ1本まるごと一気に使おうとするとなかなか難しいものですが、一生に使えるマヨネーズがたった1本とすれば、慎重にならざるをえません。

また、陽気も「春の陽気」のような気候・時候なら、限られた、貴重なあたたかさにも感じられますが、陰気に対する陽気のように性格を言い表すなら、それはそれで心中お察しいたしますという気分にもなります。

後者で読めば、場に水を差さないようにと、無理して陽気に振る舞っているようでなかなか辛いものがありますが、こう詠まれるとコミカルに感じられます。

「マヨネーズ1本分」というサイズ感で表すのが、絶妙ですよね(笑)

『十三月の追い風』(2024)より。

2026年4月3日金曜日

●金曜日の川柳〔細川不凍〕湊圭伍



湊圭伍





春の夜の不思議なものに家族の眼  細川不凍

家族のまなざしはそのまま日常の関係だ。お互いによく知っていると思っているから、見ているつもりでも実はぜんぜん見ておらず、すでに観念になっていて、だからこそ、家族として平穏に暮らせているのかもしれない。

掲句では、「春の夜」という漠とした設定によって、一家は少しだけこうした関係から遊離し、即物的な「家族の眼」がすぐそこに浮かんでいる。それは同時に、語り手自身の身体がとりあえずは安定した日常的あり様からごろんと投げ出される体験であろうか。「不思議」とは元は仏教用語で、「人間の認識・理解を越えていること。人知の遠く及ばないこと。」という意味だそうだ(コトバンク)。家族の視線という日常が即「不思議」であるという体験が、この句の内容と言えるだろう。

というような読みをした上でこの句の読み味の核は何かと考え直すとそれは、唐突でかつ日常にはとり立てて影響もなく忘れられるだろうこの認識が、身体を欠いてぽかりと浮かぶ言葉として実現されている事態への驚きである。「不思議なもの」は実は珍しくもないのだろうが、私たちが剥き出しのそれに触れるのは稀である。『細川不凍集』邑書林、2005年。

2026年3月27日金曜日

●金曜日の川柳〔高橋レニ〕まつりぺきん



まつりぺきん





スナックの隅で宿題してました  高橋レニ

題は「生い立ち」(真島久美子選)。

一読明快で一見簡単そうに見えますが、そう簡単には詠めない句。

川柳の題詠において、ほぼ句の景のみで読ませるには、景の具体性と見つけの驚異が必要で、なおかつ、それを一七音、五七五という形式の制限の中で効果的に表現しなければなりません。

地域性、世代、性別などの影響も受けにくい間口の広さと、物語性・ドラマ性を両立した景を、共感という引き出しから上手く取り出しています。

下五の「してました」の「い」抜き言葉もここでは子供の発話感を強めていて、非常に効果的。

『らくだ忌』第2回川柳大会より。

2026年3月25日水曜日

●浅沼璞 西鶴ざんまい #93

 

西鶴ざんまい #93
 
浅沼璞
 

 平調の笙の息つぎ静にて   打越
  詩人時節の露を哀み    前句
 此の夕孤猿身を断つ峯の花  付句(通算75句目)
『西鶴独吟百韻自註絵巻』(1692年頃)

【付句】
三ノ折・裏11句目。  春(峰の花)=13句目・花の座の二句引き上げ。  季移り(前句の秋の「露」を春の「露」と見替える常套手段)。  孤猿=群れを逸れた猿。

【句意】
この夕べ、孤独な猿の声を聞く人は身を断つような気分だ(と伝え聞く)が、峰の桜は咲いている。
・参考〈猿を聞く人捨子に秋の風いかに〉(芭蕉・野ざらし紀行)

【付け・転じ】
前句の詩人の露への哀感を、猿の声を聞く人のそれへと響かせ、山猿の取合せとして「峯の花」へと転じた。

【自註】
此の付けかたは、前句に、詩人、其の時節に消え行く露までもあはれみたるありさまを請けて、*詩の言葉を以て、「孤猿身を断つ」と一句に仕立てし。されば**巴峡の猿の鳴声、すぐれて物がなしく、哀れなる事、聞き伝へし。則ち***花所なれば「猿」の****取合せに「峯の花」也。
*詩の言葉=〈孤猿更ニ叫ブ秋風ノ裏、是レ愁人ニアラザルモ亦腸ヲ断タン〉(唐詩選・載叔倫・七絶)
**巴峡(はかふ)=揚子江の急流地帯における三峡のひとつ。
***花所(はなどころ)=花の定座。前述のとおり二句引き上げ。
****取合せ=「峯― 猿の声」(類船集)

【意訳】
この付け方は、前句の詩人がその時節に消えていく露までも哀れむ、そのありさまを受けて、漢詩の言葉を以て「孤猿身を断つ」と一句に作りあげた。そういえば揚子江の巴峡の猿の鳴声はとても物悲しく、哀れであることは既に聞き伝えていた。それに花の座も近いので「猿」に「峯の花」を取合せたのである。

【三工程】
(前句)詩人時節の露を哀み

  聞き伝ふ孤猿身を断つほどにして 〔見込〕
     ↓
  此の夕孤猿身を断つほどにして  〔趣向〕
     ↓
  此の夕孤猿身を断つ峯の花    〔句作〕

前句の詩人の露への哀感をうけ、猿の声への断腸の思いを詠んだ詩を引き〔見込〕、〈どのような時分か〉と問うて、「此の夕」と時分を定め〔趣向〕、花の座も近いので「猿」に「峯の花」を取合せた〔句作〕。

【テキスト考察】
『新編日本古典文学全集61』では〈「露」は秋季に限られないというので「花」を付けたのであろうが、秋から春への季移りもやや気になるところ〉とある。しかしこの面のように月の座と花の座が近い場合、秋から春へと季移りになるケースは珍しくない。『新版・連句への招待』(泉書院)では歌仙(=百韻の略式)でも似たケースのあるのに言及し、「月」「露」「雁」などが春季に見替えやすい言葉として「季移り」に多用される由、解説がある。

 

2026年3月20日金曜日

●金曜日の川柳〔樋口由紀子〕暮田真名



暮田真名





強い女になろうと蛸の足洗う  樋口由紀子

「強い女」を、ひとまず「自立した女」と言い換えてみる。「自ら立つ」と書いて「自立」である。他のもの、たとえば男性や、家族に頼ることなく、自分の二本の足で地面を踏みしめて立つのだ。

でも、立っているそばから、地面がずぶずぶと沈んでいったらどうしよう。もはや立っていられないほど、ぐらぐらと揺れたらどうしよう。みしみしと音をたてて、まっぷたつに割れたらどうしよう?

人生にはしばしばそういうことが起こりうる。それならば、砂の隙間に潜り込めるような軟らかい足がいい。それも二本では不安だが、八本もあれば十分だ。いざというときのために、強力にくっつく吸盤があればなおいいだろう。

「蛸の足洗う」のはひとまず食べるためだろう。しかし、足を洗うという動作には、相手を敬う、奉仕するという意味もある。どこか蛸への憧憬や、一体化願望のようなものも感じられるのである。

掲句は『樋口由紀子集』(邑書林)所収。抄出を読むかぎり、『ゆうるりと』は「足」の句集です。

2026年3月13日金曜日

●金曜日の川柳〔本間美千子〕湊圭伍



湊圭伍





遠い国のあかい血を見たうたにした  本間美千子

戦争や非業の死をメディアで見て、強い感情を喚起されるのはありふれたことだ。詩的技巧に習熟した人間であれば、情報と感情からたちまち「うた」が成るかもしれない。ただし、出来事を「うた」にしてしまうことについてのためらいを持たない表現は危うくもある。

掲句は、上五での字余りにある溜めから、「遠い」「あかい」「血」「見た」「した」の i 音の連鎖、「見たうたにした」の3連の「た」による締めまで、あまりに見事すぎるリズムで整えられている。「遠い国」とぼやかした設定、「あかい」と「うた」のひらがな、「見た」「した」の過去形も合わさって、くりかえし読むうちに「あかい血」の印象は、まずはメルヘンチックな領域へと回収されていく。しかし、さらに読んでいくと、「うた」へと回収された出来事が、「うた」ってしまった人間にとって取り消しがたい認識、くり返し訪れる疼痛として浮き上がってくる。

ためらいながらであっても、出来事を「うた」にしてしまうことを、分かりやすく称揚することはできない。同時に、ためらいを乗り越えてゆくリズムによって、受け入れがたい事実と共にあることを自らと読者へと突きつける、これこそが詩という体験だろうという気もする。『本間美千子川柳集』(私家版、2005年)所収。

2026年3月11日水曜日

●浅沼璞 西鶴ざんまい #92

 

西鶴ざんまい #92
 
浅沼璞
 

  鴻の巣おろす秋の夜の月   打越
 平調の笙の息つぎ静にて    前句
  詩人時節の露を哀み     付句(通算74句目)
『西鶴独吟百韻自註絵巻』(1692年頃)

【付句】
三ノ折・裏10句目。  秋(露)。  述懐(哀み・あはれみ)。

【句意】
漢詩人は時節柄、秋のはかない露を哀れんでいる。

【付け・転じ】
笙の演奏からその奏者である詩人の述懐へと転じた。

【自註】
詩を作りてうたひ、*林間に酒好き老人、何か世に心にかゝる秋もなく、月の入(いる)山を惜しみ、朝日に露をあはれみ、明暮(あけくれ)たのしみを極め、有る時はまた笙をふきて**秋風楽の舞の袖、***同じ心の友のおもしろし。

*林間に酒好き老人=白楽天・李白などのイメージ。「詩 ― 盃の友」(類船集)。
**秋風楽(しうふうらく)=雅楽の一曲。四人舞。〈秋風楽舞ひたまへるなむ〉(源氏・紅葉賀)
***同じ心の友=〈同類や同じ心の友千鳥〉(大矢数・第27)

【意訳】
漢詩を作って自ら吟じ、林間にあって酒好きの老人は、何か浮世に心懸かりな秋とてなく、月の山の端に入るを惜しみ、朝日に消える露を哀れみ、明け暮れ遊楽を極め、ある時はまた笙を奏でて秋風楽を舞う袖の、おなじ心の友がいるのも面白い。

【三工程】
(前句)平調の笙の息つぎ静にて

  詩をつくりてはうたふ老人 〔見込〕
     ↓
  詩人朝日に露を哀れみ   〔趣向〕
     ↓
  詩人時節の露を哀み    〔句作〕

前句の笙の奏者を漢詩人と見立て〔見込〕、〈どのような心情なのか〉と問うて、「朝日に消える露を哀れむ」と秋の述懐にし〔趣向〕、「時節」という措辞で句をととのえた〔句作〕。

【テキスト考察】
このたびの自註ですが、〈月の入る山を惜しみ〉というのは、〈桜も散るに歎き、月は限りありて入佐山(いるさやま)〉という『一代男』冒頭を思わせるというだけではありません。〈明け暮れたのしみを極め……同じ心の友のおもしろし〉とつづく自註は、やはり『一代男』冒頭の〈寝ても覚めても「夢介」と替へ名呼ばれて、名古屋三左(さんざ)、加賀の八(はち)などと、七つ紋の菱に組して、身は酒にひたし〉の展開に似ています。隠遁詩人を描くに際し、傾き者「夢助」の文脈をもってするとは、さすがに西鶴というほかありません。

 

2026年3月8日日曜日

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●金曜日の川柳〔森砂季〕まつりぺきん



まつりぺきん





プニヨンマ・プニヨンマ・ンマ・プニマンマ  森砂季

連作「プニヨンマ」の最後の句。

間寛平さんのギャグに「アメマ」というものがあります。(もちろん、芸として発話方法が面白いという部分はあるものの)なぜ「アメマ」という言葉が面白いのかを説明するのは難しいのではないでしょうか。

「アメマ」同様、謎の言葉である「プニヨンマ」は、この連作の中で挨拶だったり、万事休すの意味だったり、姉の名だったり、様々な可能性を示します。

とかく「ロジックが~」「エビデンスが~」と言われる時代、世の中の全てに意味があるという考え方自体が怪しく感じられてきます。

本来、何事にも意味なんてないのに、受け取る側が勝手に意味づけしているだけなのかも…と思わせてくれる一句。

『現代川柳句集プニヨンマ』(2024)より。

2026年2月27日金曜日

●金曜日の川柳〔佐賀山亮太〕湊圭伍



湊圭伍





よくきけばさくら色した鐘の音  佐賀山亮太

鐘の音がどこか遠くから聞こえてくる。耳を澄ませてみると、その音はほんのりと桜色をしていた。

音(聴覚情報)に色(視覚情報)を感じとるというと、「共感覚」という語が思い浮かぶ。ただし、この句はそれとは違う。桜が満開に咲く時期の空気感が、遠くからやってくる音にふんわりと桜色をまとわせている。大きな時間の流れのなかにいることの気づきがここに、俳句の季語のようには整理されていない感覚として保存されているようだ。

「よくきけば」は一見、冗長のようだが、「よくきけばさくら」までのひらがなだけの流れとちょっとした読みにくさ(「聞く」に変換するまでの間)と、それ以降の漢字・体言止めのわずかな重さ(鐘?)の対比もあって、読者を「よくきく」ことに寄り添うことへ誘っている。

音と色彩をクロスさせる句といえば、「海暮れて鴨のこゑほのかに白し」が想起される。「よくきけば」と芭蕉句の「ほのか」(派手な句またがりの技巧性も含め)のどちらがより冗長かなどと、どうでもよいことを考えた。

愛媛・今治の作家、佐賀山亮太(1918-2009)の句は、安野かか志『川柳句文集 二人羽織』(あゆみ出版、2021年)の巻末にまとめられています。

2026年2月20日金曜日

●金曜日の川柳〔翠川蚊〕まつりぺきん



まつりぺきん





ここ 見てて ロバが立てなくなるシーン  翠川蚊

題は「星月夜」。

イメージの幅が広く難しい題で、月は出ていないが星が明るく輝いている夜を指します。
そこにロバという経済動物がいて、立てなくなってしまう光景。

「ここ 見てて」は映像作品を観ながら、視聴済みの主体が初見の相手に対し、これから流れるシーンを注視するよう促すイメージ。

そこには不能へと変化する何かに対する哀感や憐憫とともに、若干の嗜虐的興奮が滲んでいます。

また、差し込まれる一字空けには、どこか未熟な発話を感じます。

漆黒の闇ではなく、少し明るい夜だからこそ見えしまう残酷な何か。

かなりの飛躍を感じつつも、叙情性高く仕上がっており、味わい深い句になっているのではないでしょうか。

「海馬万句合」第二回より。

2026年2月18日水曜日

●浅沼璞 西鶴ざんまい #91

 

西鶴ざんまい #91
 
浅沼璞
 

 八徳を何のうらみに喰割れ   打越
  鴻の巣おろす秋の夜の月   前句
 平調の笙の息つぎ静にて    付句(通算73句目)
『西鶴独吟百韻自註絵巻』(1692年頃)

【付句】
三ノ折・裏9句目。  恋離れ。  秋=平調(ひやうでう)=雅楽十二律の一つ。陰陽五行説により秋季に対応する調子。  笙(しやう)=雅楽の管楽器。15本の竹管の根元にあるリード(簧・した)を吸気・呼気で振動させて音を鳴らす。  息つぎ=息継ぎ。

【句意】
平調を吹く笙の息継ぎは静かである。

【付け・転じ】
鴻の巣材のうち、笙の演奏に役立つ石に注目し、視覚表現から聴覚表現へと転じた。

【自註】
笙をしめすに鴻の巣にある石にて心よき事、古き書に見えたり。是に、むかしは楽人(がくにん)、此の鳥の巣おろしして、彼の石をさがし、重宝となしける。平調は秋の調子なれば、前句の月によせて一句にむすび侍る。

【意訳】
笙(の簧)を湿らすのに鴻の巣にある石を以てすると快い音色になる事が古い書物にみえる。これにより、むかしの雅楽の演奏家は此の鳥の巣をおろして、その石をさがし、貴重なものとした。平調は秋季の調べなので、前句の月に付けて一句にするのです。

【三工程】
(前句)鴻の巣おろす秋の夜の月

  笙の簧しめすに石の重宝し 〔見込〕
     ↓
  湿らせて笙の息つぎ静なる  〔趣向〕
     ↓
  平調の笙の息つぎ静にて    〔句作〕

鴻の巣材から、笙の簧を湿す石に注目し〔見込〕、〈どのように石は役立つのか〉と問うて難しい息継ぎもすんなりできるとし〔趣向〕、前句の月にあわせて秋季の「平調」とした〔句作〕。

【テキスト考察】
『新編日本古典文学全集61』には〈笙の演奏でもっとも難しいのが息継ぎのときで、それが笙石のお陰でスムーズにいく〉とあります。

ちなみに『西鶴名残の友』(巻四ノ四)にも、〈此の巣の中にありける石は、笙の舌(=簧)をしめすによしと、古人つたへける〉とあり、鶴翁に雅楽への知識があったことが知られます。

 

2026年2月16日月曜日

●追悼・樋口由紀子 週刊俳句関連リンク集

追悼・樋口由紀子 週刊俳句関連リンク集



金曜日の川柳:ウラハイ
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