2026年1月26日月曜日

●月曜日の一句〔斉田仁〕西原天気



西原天気






冬の空どんみりと坂垂らしけり  斉田仁

《どんみり》は「色合いが濁っているさま。空の曇っているさま」。語感にほぼ一致する意味合い。芭蕉に《どんみりと樗(あふち)や雨の花曇》がある。

空と坂を詠むにおいて、その垂直の関係のなか、この句は、空から坂へ、上から下への視線の移動。

動詞「垂らす」は、冬空と坂道、双方の重ったるさを伝え、《坂》が《冬の空》の一部、あるいは延長であるかのよう。となると、色も同じグレー系。句全体がモノトーンに。

掲句は句集『異熟』(2013年2月/西田書店)所収。

 

2026年1月25日日曜日

●寒泳

寒泳

寒泳のかたまり泳ぐ日の真下 細川加賀

寒泳のみな胸抱いて上がりくる 斉田仁

寒泳の田中小実昌ではないか 西原天気

寒泳の見るに忍びぬ画面かな 相生垣瓜人

2026年1月21日水曜日

●浅沼璞 西鶴ざんまい #89

 

西鶴ざんまい #89
 
浅沼璞
 

 老の浪子ないものと立詫て   打越
  儒の眼より妾女追出す    前句
 八徳を何のうらみに喰割れ   付句(通算71句目)
『西鶴独吟百韻自註絵巻』(1692年頃)

【付句】
三ノ折・裏7句目。  恋=うらみ  八徳(はつとく)=胴服の一種。儒教では仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌を八徳という。  喰割れ(くひさかれ)=食い裂かれ。

【句意】
八徳をなんの恨みによってか食い裂かれ。

【付け・転じ】
親爺が妾女を追い出した原因はなんであれ、これまで費やした年月への女の恨み・辛みへ焦点をしぼり、儒者の象徴である「八徳」が「食い裂かれる」と転じた。

【自註】
儒者の衣類なれば「八徳」と付け出だし、追い出さるゝかなしさに、年月のうらみをいふて、何国(いづく)も女の業(ごふ)とて、面(おもて)に角のはえぬ計(ばかり)。「此の執心、外へは行くまじ」と所さだめずかみ付きて、「道をしれる人の、今となつて人を迷はす事やある」といへる心付ぞかし。

【意訳】
(前句の)儒者のその衣服から「八徳」を出して付け、(その儒者に)追い出される悲しさに、年来の恨みを言って、(そのように)どこでも女の業は深くして、額に角の生えてしまいそうなほど。「この執着心は外にはいくまい」と所かまわず噛みついて、「儒の道を知る人の、今さら人を路頭に迷わすことがあろうか」という心持ちを以ての付けである。

【三工程】
(前句)儒の眼より妾女追出す

  年月のうらみは業の深くして  〔見込〕
     ↓
  うらみにて所定めず噛み付きて 〔趣向〕
     ↓
  八徳を何のうらみに喰割れ    〔句作〕

親爺が妾女を追い出した原因はなんであれ、これまで費やした年月への女の恨み・辛みに焦点をあわせ〔見込〕、〈どれほど恨んでいるのか〉と問うて「所定めず噛み付くほど」とし〔趣向〕、ほかでもない儒者の象徴である「八徳」が食い裂かれるまでと強く表現した〔句作〕。

【テキスト考察】
『新編日本古典文学全集61』では〈打越の「子ないもの」から離れなければならないので、前句の「妾女」を「追出」した本当の原因は、男の側の浮気心にある、とほのめかした付けとなる〉としています。けれど付句では「何のうらみに」と謎をかけており、自註をみても「浮気心」への言及はありません。自註ではただ「年月のうらみ」とあり、加えて「今となつて人を迷はす」ともあります。ここは原因はなんであれ、無駄になった(女ざかりの)歳月への恨み・辛みが根幹にあるのではないでしょうか。

 

2026年1月16日金曜日

金曜日の川柳〔岸本水府〕湊圭伍



湊圭伍

※樋口由紀子さんオヤスミにつき代打。



右の灯が左になつて船が着き  岸本水府

近代川柳の六大家のひとりである水府の昭和23年(57歳)の句。

「時間性の抹殺」(山本健吉)が俳句の本質かどうかはさておき、俳句と比べて川柳では、描かれる世界において、また言葉の運びにおいても、時間性が活かされ、また、強調されることが多いようだ。

掲句、夜の川をやってきた船が船着き場手前でのんびりと向きを変え、ゆったりと着岸する、そのあいだの間延びした時間の流れこそが句の内実と言い切ってよい。あるいは、この光景を思考はからっぽに、固定カメラのように映し出し続けている視線の無為を味わう、とも言えようか。

さらには、「右の灯が左に」から上の光景を読み解くまでの読者の頭のなかでの遅延も、この句から受ける時間感覚に寄与しているようにさえ思われる。

『岸本水府川柳集』(有文堂、昭和23年)より。

2026年1月9日金曜日

●金曜日の川柳〔ながたまみ〕西原天気



西原天気

※樋口由紀子さんオヤスミにつき代打。



おへそから悲しくなると鳴る和音 ながたまみ

からだというのは、悲しいとき、いかにも順当な反応を見せるばかりではない。悲しいとき、悲しい表情で涙する、というばかりでないのだ。臍から和音が鳴ることだってある、と、この句は言っている。この反応は、ちょっと間抜けで場違いで突拍子もない。周囲に人がいたら、不謹慎との誹りを受けるかもしれない。疎んじるような冷たい目を向けられるかもしれない。

で、どんな音、どんな和音なのだろう。そういう興味はとうぜん湧く。悲しいからといって、短調の和音とも限らないと思うが、長調だと、不謹慎さんが増す気がする。ここはそれよよりも、単音ではなく和音というころがミソで、単音だとおならに間違われかねない(尾籠で失敬)。

ところで、構造上になんらかの制約を受ける定型では、伝達という機能上で齟齬ないし不備がしばしば起きる。などと、しちめんどくさい言い方をしてしまうが、つまり、《おへそから鳴る和音》と読むのがしぜんだとは思うが、《おへそから悲しくなる》という事態も、ここにあるとしたら、和音は《おへそ》からでなくともかまわない。「つまり」以降も、しちめんどくさいことには変わりない(おおいに反省)。

で、どう読むか。あくまで散文的な意味の「どう」なわけですが、この手の問題が起きたときは、「どっちでもいい」がとりあえず答えになる。あるいは「どっちも」。

この和音は、ひとまず(一読して受け取ったとおり)おへそから鳴る。でも、おへそから悲しくなることもあるはず。さらにいえば、悲しいから和音が鳴るのではなく/だけではなく、和音が鳴ったから悲しいということもいえる。

結論として、この句の事態・事象は、かなり可笑しい。可笑しいから悲しい。

掲句は『川柳ねじまき』第1号(2014年7月20日)より。