2025年11月21日金曜日

●金曜日の川柳〔月波与生〕樋口由紀子



樋口由紀子





斎藤と齋藤の夫婦別姓

月波与生(つきなみ・よじょう)

私の本名はワタナベで、いろいろな渡邊、渡辺、渡邉、渡部があるが、どのワタナベも戸籍上と異なる。市役所で正確に書いてくださいと注意されたが、その漢字は市のパソコンに出て来なくて、便宜上、渡邊にした。以後、渡邊と渡辺とパソコンに出ないワタナベをその都合で使い分けている。

「斎藤」普段使いしている夫と「齋藤」と普段使いしている妻はそれも夫婦別姓なるのか。疑問を呈して、皮肉を込めて、呟いている。その皮肉に共感する。法務省のホームページには「現在の民法のもとでは、結婚に際して、男性又は女性のいずれか一方が、必ず氏を改めなければなりません。」と明記されている。夫婦別姓はいまだに認められていない。「What‘s」(9号 2025年刊)収録。

2025年11月19日水曜日

●浅沼璞 西鶴ざんまい #86

西鶴ざんまい #86
 
浅沼璞
 
   野夫振揚げて鍬を持ち替へ  打越

  其道を右が伏見と慟キける  前句

   朝食過の櫃川の橋    付句(通算68句目)
『西鶴独吟百韻自註絵巻』(1692年頃)

【付句】 
三ノ折・裏4句目。  雑。   朝食過(あさめしすぎ)=時分(じぶん)の仕立。  櫃川(ひつがは)=山科川の古名。其場の仕立。  櫃―飯・川(類船集)。

【句意】
朝めし過ぎ時分の櫃川の橋(にさしかかった)。

【付け・転じ】
前句で農夫に道を尋ねた旅人の目線へと転じ、その後の旅の朝景色に照準を合せた。

【自註】
*古哥に「ふし見につゞく櫃川のはし」と読み残せし。都出でて、東福寺の前に渡せし**一の橋の事也。前句の旅人、道いそぐ甲斐ありて、はやくも爰(こゝ)に来て、此あたりはいまだ朝景色を見し一体也。句作りは食の櫃(めしのひつ)として、いやしからぬやうにいたせし。しかし、此句のはたらきは、***中古句むすび也。

*古哥=出展不明。ただし藤原俊成に「都出でて伏見を越ゆる明け方はまづ打渡す櫃川の橋」(新勅撰集)の作あり。  **一の橋=〈東福寺門前、伏見街道の今熊野川に架かる橋。三の橋まであり。これを「櫃川の橋」と呼ぶこと所見なし〉(定本全集・頭注)。西鶴の誤りか(下記【テキスト考察】参照)。  ***中古(の)句むすび=貞門的な古風な付け方。具体的には「伏見→櫃川のはし(箸)←朝食」の縁語仕立て。

【意訳】
古い歌に「伏見に続く櫃川の橋」と詠み残したのがあった。都を出て東福寺の前に渡した一の橋のことである。前句の旅人は道を急いだ甲斐があって早くもここに来て、あたりを見るに未だ朝景色の様子である。句作りは飯櫃(めしびつ)を素材に、卑しくないように表現いたした。しかしこの句の技法は貞門的な古風な付け方である。

【三工程】

(前句)其道を右が伏見と慟キける

  道を急げば櫃川あたり 〔見込〕
   ↓
    朝景色とて櫃川あたり 〔趣向〕
     ↓
   朝食過の櫃川の橋   〔句作〕

前句で農夫に道を尋ねた旅人の目線へ転じ、伏見に続く櫃川あたりとした〔見込〕、〈どのような時分か〉と問うて、朝景色とし〔趣向〕、「朝食→櫃川のはし(箸)」の縁語を貞門風に駆使した〔句作〕。

【テキスト考察】

『新編日本古典文学全集61』には〈京都から伏見街道への出口にあたる「一の橋」と、「都出て……」と詠まれる「櫃川の橋」とを錯覚したようである〉と書かれています。

真偽のほどは不明ですが、もし錯覚だとしたら、その要因は何なのでしょうか。

談林時代の『両吟一日千句』(1679年)では青木友雪との次のような付合がみられます。

   櫃川わたれば樗最(サイ)中   西鶴
  眠りては落るもしらぬ一のはし   友雪

樗の花の咲く最中、櫃川から一の橋へと向かう途中、我知らず眠りに落ち、花が落ちるのすら意識にない、というような付合でしょうか。

「櫃川」→「一の橋」の付筋に錯覚の遠因があるのかもしれません。

今後、他の作例にも当ってみたいと思います。

 

2025年11月14日金曜日

●金曜日の川柳〔なかはられいこ〕樋口由紀子



樋口由紀子





鯖、鰆、鮭、鯛、鮪、然るべく

なかはられいこ(1955~)

寿司屋の湯飲みに書かれている魚の漢字で寿司が出るまでの時間をつぶした。魚の読み方を覚え、こんなにも魚の種類があるのかを知った。「然るべく」とは、「それにふさわしい」「当然そうなるはず」の意味だが、何が「然るべく」なのか、さっぱりわからない。「読点」で魚の名を列挙したあとの突然の着地は「然るべく」の意味だけを取り残した。

急に話を変えて視点を変えずにアナーキーな世界を形作る。一般の言語期範に収まってくれない。SABA・SAWARA・SAKE・TAI・MAGUROと[A]音がとんとんと連続し、SIKARUBEKUで「I」音になり、別モノになるように音韻に工夫もされている。「川柳ねじまき」(11号 2025年刊)収録。

2025年11月7日金曜日

●金曜日の川柳〔大野美恵〕西原天気



西原天気

※樋口由紀子さんオヤスミにつき代打。



ひとりだよ ふ どんがばちょをまっている  大野美恵

「どんがばちょ」をご存じない方も多いと思いますが、わたくしは「ひょっこりひょうたん島」世代なので、彼、ドン・ガバチョが、あの、国境や国籍といった土にまつわるものから切り離され/解放され、海をさまよう浮島の大統領であることをよく知っている。いちおう確認のために調べてみると(例によって、安易にウィキペディア)、出身は「デッパソッパヨーロッパの牧之原市ドンドン市ふくら小路1番地」とある(原作の井上ひさし、やりたい放題に遊んでいらっしゃる)。牧之原感は希薄で、欧州的な胡散臭さはふんだん。帽子と髭が記憶に残る。蝶ネクタイは、声を務めた藤村有弘とも重なる。

と、そのことしか言わないのは、《ひとりだよ》も《まっている》も、まるっきり事情がわからにないから。そう言うんだから、そうなんだろうなと。事情のわからなさは、たいていの場合、気持ちがよくて、「お願いだから、そんな事情がわかることばかり言わないで、書かないで」というのが、川柳(ときに俳句)へのお願い。

で、最後になったが(最後になっちゃいけない)、「 ふ 」だ。このわけのわからなさは、別種であります。全角1字アキに挟まれ、浮かんでいるような(「ふ」は「浮」?)、漂うような。

答えは、ないのかもしれないし、あるのかもしれない(あっても、聞きたいような聞きたくないような)。

「ふ」は不思議の「ふ」とでも言わんばかりに(否、ぜんぜんそうでもなく)、わたくしのなかの不思議として、ゆらゆら揺れ続けている。

ドン・ガバチョ氏なら、なんとかしてくれるのか。そういえば、彼には、大人物と詐欺師が合わさったような魅力があったなあ、と、なつかしい気持ちになっている。

掲句は『川柳木馬』第184号(2025年10月)より。

2025年11月5日水曜日

●浅沼璞 西鶴ざんまい #85

西鶴ざんまい #85
 
浅沼璞
 
  蟬に成る虫うごき出し薄衣   打越
野夫振揚げて鍬を持ち替へ  前句
  其道を右が伏見と慟キける    付句(通算67句目)
『西鶴独吟百韻自註絵巻』(1692年頃)

【付句】三ノ折・裏3句目。 雑。 其道=そのみち。 伏見=此里は舟つきにして旅人絶ぬ所也(一目玉鉾・三)。 慟く=どやく(≒どなる)。「どやきけり聞いて里しる八重霞」西鶴(両吟一日千句など)。

【句意】その道を右へ行くと伏見(の近道)だと怒鳴った。

【付け・転じ】前句の虫をみつけた農夫が動作を止めたのを、旅人に道を尋ねられたためと逆付にした。

【自註】旅人はじめての都入(みやこいり)に、野道を行しに、*田夫をまねきて道筋をたづねしに、鍬持ちながら、「右のかたの**溝川越えて、笹原すこし有る所より伏見への近道」と***声をはかりにをしへける****気色に付けよせし句也。
*田夫(でんぶ)=農夫。  **溝川(みぞがは)=小川。  ***声をはかりに=声を張りあげて。  ****気色(けしき)=有様。

【意訳】旅人が初めて京都入りする際に、野中の道を行き、農夫を手招きして道順を尋ねたところ、(農夫は)鍬を持ちながら「右手の小川をこえて、小笹のすこしあるところを行くと、そこから伏見の近道」と声を張りあげて教えた、そんな有様に付け寄せた句である。

【三工程】
(前句)野夫振揚げて鍬を持ち替へ

旅人に都への道尋ねらる   〔見込〕
   ↓
  其道の右の方ぢやと慟キける 〔趣向〕
     ↓
   其道を右が伏見と慟キける  〔句作〕

前句の農夫のストップモーションを旅人に道を問われたためと見なし〔見込〕、〈どのように答えたのか〉と問うて、方角を大声で教えたとし〔趣向〕、「伏見」という具体的な地名を素材とした〔句作〕。

【テキスト考察】

句末の表記に関し、諸注の異同があるので簡単に考察しておきます。

ふるい『日本古典読本Ⅸ 西鶴』、『譯註 西鶴全集2』では「慟キけり」となっていますが、それより新しい『定本西鶴全集12』、『新編日本古典文学全集61』、『新編西鶴全集5』では「慟キける」となっています。

そこでカラー版影印集『新天理図書館善本叢書33 西鶴自筆本集』に当たり、既出の付句の句末「り」「る」を比較してみました。

大晦日其の暁に成にけり (裏9句目)
  小判拝める時も有けり   (二表8句目)

この二句の句末「り」はほぼ同形で、「慟キけ●」の方は、これらよりやや丸みをおび、
  花夜となる月昼となる  (二裏10句目)

の句末「る」とほぼ同形かと思われます。本稿で「慟キける」とした所以です。