2009年1月12日月曜日

●猫も歩けば類句に当る 第2回 猫髭

猫も歩けば類句に当る 第2回

猫髭



わたくしが仏壇に入る前に俳壇に立ち寄った時、侃々諤々百家争鳴の様相だったのが水中花VS兜虫の論争だった。この件に関しては、『きっこ俳話集』の中の「水中花VS兜虫」に、様々な過去の事例を交えて類想類句の顛末について書いてあるので、経緯を知らない読者はそちらを参照していただきたい。
【参照】http://ip.tosp.co.jp/BK/TosBK100.asp?I=kikkoAN&BookId=1&KBN=2&PageId=63782&PN1=33&TP=233&SPA=210&SSL=

わたくしは当時「歳時記」など手に取ったこともなかったし、当然、類想類句の事も知らなかったので、これはいわば俳壇外からの目で見た感想である。

「水中花」と言えば、わたくしは伊藤静雄の詩「水中花」をすぐ思い出す。この詩を載せないアンソロジーはありえないほど、教科書にも載るほど人口に膾炙していたからで、わたくしも大好きな詩だった。

       水中花  伊藤静雄

   今歳水無月のなどかくは美しき。

   軒端を見れば息吹のごとく

   萌えいでにける釣しのぶ。

   忍ぶべき昔はなくて

   何をか吾の嘆きてあらむ。

   六月の夜と昼のあはひに

   万象のこれは自ら光る明るさの時刻(とき)。

   遂ひ逢はざりし人の面影

   一茎の葵の花の前に立て。

   堪へがたければわれ空に投げうつ水中花。

   金魚の影もそこに閃きつ。

   すべてのものは吾にむかひて

   死ねといふ、

   わが水無月のなどかくはうつくしき。

これほど死と水中花の取合わせを美しく歌ったイメージが、同じ取合わせで「いきいきと死んでゐるなり水中花 櫂未知子」とは、初恋の少女がいきなり菅井きんに化けたようなものだ。

しかも、この「いきいきと死んでゐる」という言い回しが、俳句ではオリジナリティ溢れる表現という論争の眼目になっている事に、ウッソ~!と入歯カタカタ言わせながら女子中学生のように声が裏返っちゃった。それは、俳壇ではいざ知らず、よく使われる陳腐な言い回しだったからだ。

安部公房の小説『方舟さくら丸』のラストシーンがそうだった。

もうふた昔以上前になるが、安部公房は大江健三郎と並んで、当時世界的にも小説に、演劇に、映画に、文字通りのトップ・ランナーだった。大江も負けてはいない。『万延元年のフットボール』の後、書き下ろしで『洪水は我が魂に及び』という見事な上下二巻の大作を書き、次は安部公房の番だとファンは固唾を呑んで見守っていた。満を持して出した長編小説が『方舟さくら丸』だった。

前作の『燃えつきた地図』が良かったし(映画も)、物凄い期待を背負って読んだせいか、安部公房の抜け殻のような、力の落ちた小説だった。話題が先行してベストセラーにはなったが、公房ファンには淋しい作品だった。そのラストシーンがこれである。

   街ぜんたいが生き生きと死んでいた。

肩透かしを食らったような陳腐な終わり方だった。

せめて、唐十郎の『海ほおずき』のように、

流れ者が見た風景は、家並が傾いている。それは彼が斜視であるからではない。町を通り過ぎる彼の時間につり合わせ、その都市、その町をぐらつかせたい。まるで、ビルの下に絨毯があって、それを掴んで引いてみようとするように。

あるいは、堀江敏幸の『郊外へ』の「空のゆるやかな接近」のように、

たまたま住むことになったモンルージュの街に、説明しがたい愛着を感じるようになったのはなぜだろう。料理の匂いや珈琲の香りが鼻先をかすめるのとも、ゴミ収集車が通ったあと鈍い汚臭が流れるのともちがう、いわば街に澱んでいる大気ぜんたいが、いっぺんに数センチ、じぶんを置きざりにして前後左右どちらかに移動するような感覚と言おうか、いままで黙っていた並木が、不意の微風でざわざわと音をたてるときの、物事のはじまりと終わりがいちどきに生起する肌触りがたしかにあって、それはパリ市内のどんな通りや区にもない微妙なものだった。

といった、もっと読んでいると皮膚が泡立つようなスリリングな表現を残して欲しかった。

まさか、俳壇で、またもやこの陳腐さが話題になり、しかもオリジナリティとして騒がれるとは。わたくしも物を知らないにもほどがあると、うちのカミサンに怒られるほうだが、水中花VS兜虫論争に参加した連中は、表現のオリジナリティをおちょくってるとしか思えない。井の中で蛙がゲコゲコ。

エンガチョ!

昨年、偶然池田澄子さんとお話しする機会があって、彼女と吉増剛造の詩集『螺旋歌』の話が出来たのは嬉しかった。池田さんの俳句は出自が現代詩ではないかと思っていたので、師の三橋敏雄とともに、まるで俳壇のマイルス・デイビスのように変貌してゆく過程が実にスリリングである。

その池田澄子さんの第三句集『ゆく船』の中に、こういう句がある。

  新鮮に死んでいるなり桜鯛  池田澄子

shi音で頭韻を踏んでおり、櫂美知子の句よりも先行して発表されている。

どうして誰も「新鮮に死んでいるなり」のオリジナリティを問わなかったのだろう。生物か無生物かで句意が変わるから類句ではないと言うなら、奥坂まやの句も類句ではないことになるからだろうか。

そういうわけで、わたくしがここへ書いて置いてゆく。


P.S.『櫂未知子集』(邑書林)を読んで、「京極杞陽ノート」と飯島晴子論は見事な出来映えだったので、水中花論争は余計不毛に思えた。

3 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

>世が世なら「一子相伝」か「門外不出」かというようなテクニックが、惜しげもなく披露されている。

というので、どんなテクニックかと今日東京駅の八重洲ブックセンターへ岸本尚毅『俳句の力学』を買いに行ったら、無かった。代わりに、「俳句」で取り上げられていた小川軽舟『現代俳句の海図』があった。

前作の『魅了する詩型』は、山村暮鳥の素敵な詩まで目配りを効かせていて好感を持っていたので覗いたら「オリジナリティ」に、何と「いきいきと死ねなくなったかぶとむし」、じゃなかった「いきいきと死んでゐるなり」を、オリジナリティ溢れる表現だと太鼓判を押してる。

 Et tu,Brute.
 アッチョンプリケ!

口直しに、松浦寿輝の『吃水都市』を買う。全篇袋綴装本で、20年間に渡って書き綴られた散文詩だが、書き続ける詩人のイマジネーションの持続力も凄いが、それを読み続ける読者(わしもそのひとり)の根性も凄い。島国根性。

匿名 さんのコメント...

猫鬚様
 獅子鮟鱇です。こんにちは。
 玉稿、縦横無尽、博覧強記、大変楽しく痛快で、勉強になります。
 「いきいきと死んでゐるなり」のオリジナリティについてですが、小生も疑問をいだいています。ここで、「小生も」とは、中国人は、そのどこにオリジナリティがあるのかと、きっと疑問を抱くだろう、そして、小生も、と思うからです。
 小生、漢語で類句を作ってみました。

  雖死猶生見懶虫。(中華新韻十一庚の押韻、生・虫)

 懶虫は、「怠け者」の意味です。きちんと読み下すなら、
  死すと雖もなお生けるごとし懶虫見ゆ
 和文十七音にして意訳するなら、

  死すと雖も生きるごと怠け者

 でしょうか、七五五の破調ですが・・・
 「いきいきと死んでゐるなり○○○○○」の○○○○○に「懶虫」を充てたのは押韻の都合です。たった七字の文で、これは俳句である、詩である、と主張するには、せめて押韻をしないと、とても詩としては認めてもらえない、という事情があります。押韻をしたとして、それは古典詩の韻律の考え方ですので、現代詩人には通用しませんが・・・
 そして、問題は「雖死猶生」のオリジナリティ。雖死と猶生は、とてもバランスのとれた対句となっていて美しいのですが、四字成語としてすでに人口に膾炙していて、そのオリジナリティを主張できるものではありません。四字成語で、その作者がだれであるか問われることもありません。もちろん四字成語といえども、最初にそれを考案した人は、きっといるのでしょう。しかし、もしその考案者が、著作権だとかオリジナリティとかを主張したとしたら、みんなソッポをむいてそれが成語として定着することはなかったでしょう。四字成語は、それがどんなに美しくても、俳句ではないし、詩ではなく、みんなの言葉だからです-季語と同様に。
 そして、四字成語の世界は、オリジナリティに溢れつつも、だれが言い出し流行らしたのか素性の知れない「オリジナリティ」などという馬の骨の言葉に頼らずとも、言葉の豊かさを満喫できる世界であると思えます。
 ということで、最後に、みんなの言葉で俳句に使えそうな四字成語をいくつか、ご参考までに列挙しておきます。それを十七音にうまくおさまるように読み下すのは、俳人のみなさんのお仕事かと思いますが・・・

  死別生離
  起死回生
  半死半生
  七死七生
  九死一生
  十死一生
  百死一生
  万死一生
  出死入生
  入死出生
  抵死漫生
  抵死瞞生
  破死忘生
  怕死貪生
  舍死忘生
  醉死夢生
  視死若生
  視死如生
  生寄死帰
  生生死死
  生関死劫
  生離死別
  生榮死哀
  生榮死衰
  一生九死
  七生七死
  十生九死
  回生起死
  出生入死
  千生万死
  捉生替死
  朝生暮死
  朝生夕死
  同生共死
  忘生舍死
  舍生忘死
  醉生夢死
  養生送死
  養生喪死
  愛生悪死
  貪生畏死
  貪生怕死
  貪生悪死
  長生不死

匿名 さんのコメント...

鮟鱇さん、どうも。
漢語では「いきいきと死んでゐる」は「雖死猶生」ですか。なんか、死せる諸葛生ける仲達を走らす、みたい。
それにしても、まあたくさん生と死の四字成語があること、さすが中国漢字の本場。読んでいると「水中花おまへはもう死んでゐる」という気分になります。