2009年1月17日土曜日

●猫も歩けば類句に当たる 第3回〔下〕猫髭

猫も歩けば類句に当たる 第3回〔下〕

猫髭


子規の『松蘿玉液』は「暗合剽窃」「不明瞭なる記憶」「俳句における類似」「翻案」において、具体的に古俳諧の例句を並べ丁寧に説明を加えてあるので、とても面白いのだが、まとめると、
暗合なるか剽窃なるかは当人ならでは知るべからず。
句法言語甚だ類似したれども命意は同じからず。二句ともに存すべし。
が子規裁きということになるだろうか。

特に2は、蕉門から虚子以降まで、無意識か意識的かに関わらず、兄句、弟句として花のあるほうが残るだろうという見解になり、結局良いものが残るという淘汰説に落ち着く。其角の『句兄弟』などは、等類を逆手に取った類想類句集の至芸を見せるから、せめてこれぐらいの度量は現代俳人にも垣間見せて欲しいというのは無いものねだりか。

たまたま櫂未知子と恩賀とみ子の不毛な例を挙げたが、奥坂まやも車谷長吉も、そのまま残して後世の判断を仰げばいいだけの話と言えなくもない。

現にそういう事例は枚挙に暇が無い。

例えば、柴田白葉女に限っただけでも、いきなり『現代俳句辞典』の「類句」の解説に、岡田日郎が、

  月光の及ぶ限りの鰯雲   佐々木有風

  月光の及ぶ限りの蕎麦の花 柴田白葉女

を並べて、「類句であるかどうか読者の判断を仰ぎたい」と書いている。この句は、『冬泉』に載っているが、元句は、

  月光のおよぶかぎりの蕎麦の花 柴田白葉女

であり、岡田日郎の引用の不正確さは杜撰だとしても、類似句であるのは間違いない。

白葉女は佐々木有風とは親しい間柄だったが、彼の句を覚えていなかったので暗合ということになるとはいえ、問題は、岡田日郎が(というより当時の俳壇がそういう見解だったのかもしれないが)「無意識の句でも後からの作は取り消す必要があり、意識的な類句は作者にとって恥とすべきである」と書いたことで(ああ、should be は何語で書かれても鬱陶しい)、白葉女は「ただそのときそのときの感懐を、いのちのつぶやきをすなおにうつくしく句の形にしたいと思っている」だけだったから悩んだ。結局、「自分の創作品である」ことに恥ずるものはないという態度で臨んだ。

わたくしも、白葉女の市販された限りの全句集と随筆はすべて読んでいるから、子規が「傍人より見て此人は正直の人なれば剽窃すべきわけなし、必ず暗合ならんと断定するは大方に誤らざるべし」と言っていたような思いは白葉女に対してあるが、句を見る限り、「句法言語甚だ類似したれども命意は同じからず。二句ともに存すべし」でいいと思える。

三年後に出た『現代俳句大辞典』の「類句」の稿も岡田日郎が書いているが、さすがにここには柴田白葉女の例句は省かれている。当然だろう。

また、その後の白葉女の態度も見事だった逸話がある。

第七句集『月の笛』(蛇笏賞受賞作品)の中に、

  春の星ひとつ潤めばみなうるむ 白葉女

という彼女の句ではよく知られた句がある。この句に類句が現れたのである。

  春の星一つ潤みて皆うるむ 青山丈

同じ「雲母」で学び、岡本眸主宰の「朝」に寄っていた俳人青山丈が自分の母の死に際して詠んだ句であり、丈は白葉女の所に釈明に訪れたという。
白葉女は「青山氏は誠実な、そして潔癖な人柄で、他人の句をまねたりする人ではない」と言い、自分の句自体が特別変わった内容でもないから類似句があっても不思議ではないと続け、「俳句は創作である。自分のものであることをつねに忘れないようにすれば、類想・類句はおそるるに足らず」と結んでいる。

青山丈の句は、白葉女の句が「潤めば」という因果を呼んでいるのに対して「潤みて」と軽い切れを入れており、一呼吸置いて満天の星が一斉に潤むような見事な切れの効果が出た句であり、母の死に際して詠まれたという背景を知ると、なおさら星が泣き出すような感銘があり、類句として捨てるには忍びない。「句法言語甚だ類似し」「命意も同じ」なれど「二句ともに存すべし」と言っていいエピソードだと思う。

  妻の遺品ならざるはなし春星も 右城墓石

と並んで、「春の星」と言うと思い出す秀句であり、エピソードである。

もうひとつ、白葉女には忘れがたい句がある。

彼女の処女句集は『冬椿』だが、手に取るたびに擦り切れるような儚い句集であるせいか、第二句集『遠い橋』は堅牢な箱入り装本で、『冬椿』からも百句近く精選されているため、白葉女も処女句集のような気持だと後書に書いている。

  注射針憎し温室花眼に沁みる 柴田白葉女

温室花は「むろばな」と訓む。この句を見たときに、すぐ思い出したのは次の一句である。

  癩にくし花に飼はるる思ひして 須並一衛

須並一衛は岡山県のハンセン病の療養所長島愛生園に少年期より暮らしており、学歴は無く、飯田龍太の「雲母」に寄り、解散後は廣瀬直人の「白露」所属で、『海の石』『天籟』『雪明』という三冊の句集を出している。いわゆる療養俳句という病いにもたれかかった句とは一線を画す眼で詠まれている。

自分を檻に閉じ込めた癩への憎悪と、季節が巡り来れば美しく咲く花に慰めを見出す、その落差を「花に飼はるる思ひ」と表現し得た、死と生の戯れの衝撃は尋常ではない。こういう言い方は誤解されるかもしれないが、この一句は悪魔に魂を売ってでも表現者であれば手に入れたい表現の極北に位置する美を獲得している。

飯田蛇笏の序が付いた「雲母叢書第九篇」に入れられた白葉女の句集を、須並一衛は、偏見を持たずに来園してくれた蛇笏と龍太親子を師と仰いで「雲母」に拠っていたから眼にしていたのかもしれない。余りにも照応しているから。しかし、下敷きにしているとしても、どちらも見事な表現である。

類想類句について、三回ほどだべらせてもらったが、俳人もまた創作者であり、そうであるなら、柴田白葉女と須並一衛が「憎悪」を着火点として見事な火花を散らしたようなオリジナリティが欲しいものだと願う。

1 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

猫髭様

 獅子鮟鱇です。こんばんは。
 偏えに言葉を愛すると自負する者のひとりとして玉稿真摯に拝読いたしました。偏えに言葉を愛する読者の立場からすれば、作品に親しむにあたって、会ったこともない作者名などは記号に過ぎません。そこで、類句類想も一字違えば句意の異同を楽しめるのであり、両句共存が望ましい。
 一方、ある人の作が他作あるいは自作に似ているとしてこの世から抹殺せんとする人らの心には、著作権という金銭の問題あるいは、この佳作の作者は私だと世に誇らんとする俗な心が動機としてあると思えます。金銭の問題は、市民の利害を調整する民法が定めるところで文芸の本質とは関係なく、また、作者が詩誉を誇らんとする動機は、読者には迷惑な限りです。そんな動機の作品は、世に公表しないでほしい。作品を読んでそれが佳作に思えた場合に、それを作った作者を尊敬し、あるいは感謝しなければならないとすれば、これほど無粋なことはなく、風流廃れて山河ありです、山にも川にも、倣岸な人間が勝手に付けた名前がありますから。
 以上は、作者が言葉を使って作品を作るのか、言葉が作者を使って作品を生み出すのか、それを一度も考えたことのない人の理解を得ることはむずかしいか、と思います。
 小生、玉稿まことに読み応えがあり、貴兄に感謝していますこと申し述べたく、蛇足の感想を添えさせていただいた次第です。