2009年7月12日日曜日

〔ネット拾読〕フエキ糊とアラビア糊それぞれの語感

〔ネット拾読〕09
フエキ糊とアラビア糊それぞれの語感


さいばら天気


はい、こんにちは。また日曜日がやってまいりました。

思うところあって、朝ご飯は、トップスのチョコレートケーキでした。いい年して、こんなもの食べて、申し訳ないです。

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まず、野球ファン必読の記事から。

●“魔将”ガイエルの超能力? ヤクルトの大砲が見せる職人芸 from Number Web
http://number.bunshun.jp/npb/column/view/3966/
・打席に立てばほとんどバットを振らずに、四死球を選びまくる。
・平凡なフライを打っても敵チームの選手がなぜか落球してしまう。
・折れたバットが打球といっしょに相手野手を襲い、タイムリーヒット。
・ライトスタンド一直線のホームランを打っても、なぜかスタンドは静まり返って無反応(通称サイレント・ホームラン)。
・実況のアナウンサーも解説者も、気づかないうちに盗塁成功(通称サイレント・スチール)。
繰り返しますが、必読です。

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●句集よんだり from B.U.819
http://819blog.blog92.fc2.com/blog-entry-341.html
青春ッて、基本アタマワルイと思うんです。/アタマイイと、青春と同じラインに立てないんだよ。/そういう人ッて下から見上げたり、上から見下ろしたりして、青春に焦がれてる。
なるほどです。青春とは物語。たくさんの人(若い人)がそれぞれの立ち位置から眺めている「青春」がある(と信じられている)という意味で。

あ、もちろん、青春が「アッタマワルイ」(ッで強調してみました)ことは真実そのとおりで、その意味の青春を一生かかえて生きていたりします。年齢じゃないところがある。つまり、加齢が聡明をもたらすなんて、もし考えている人がいたら、それは若いうちだけの甘い読み、大きな誤解です。

ところで、俳句において、青春性などというものが(質を問われず)称揚されるとき、その青春性とは、老人の「回春剤」に過ぎないので、そうとうにどうでもいい。

ただ、人は、その年齢その年齢での「見晴らし」を獲得できるものです。
若い頃、人間の中心は若い人間だとしか思えなかった。老人は全てに通じていて完璧で、でもどこやら気の毒な人々に思えた。中年の私は、若者はまだ半端で、世の中心は中年以上にあると感じた。そして若くなくなってみて、若者から見た私は、若い日の私が見た気の毒な人種なのかもしれない。いや、そうなのだろうと思う。年長者は、もちろん大人で全てを知っていて何もかも上達していて完璧な、でも前途のない淋しい人々、そのどれでもないことも分かってきた。/金子光晴が自分自身に目を見張った晩年があったように、知らない自分が現れるかもしれない。(…)
池田澄子「葉桜盛り、人盛り」(『あさがや草紙』角川学芸出版・2008年)
「知っている自分」とばかり付き合い続けるなんて、地獄です。「知らない自分」という最後の一文、希望の光です。「老い」とは未来なんですから。

青春は、物語であれ、アタマワルイであれ、(若者と子どもを除けば)いちおうは過ぎたことです。もういいでしょう。人間、これからのことに興味があるものです。

で、現実問題として、老人俳人たちの「回春」趣味、あれ、どうにかならないもんですかね。

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それではまた次の日曜日にお会いしましょう。

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