眠っている顔の上を何かが駆け抜けていった
さいばら天気
はい、こんにちは。また日曜日がやってまいりました。
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ちょっと旧聞ではありますが、祇園祭。
●宵々山 from けふえふえふとふてふ
http://yaplog.jp/ef_ef/archive/177
●宵山 from ブレンハイムスポットあるいは道草俳句日記
http://blog.zaq.ne.jp/blenheim/article/518/
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●豈 weekly 第49号
http://haiku-space-ani.blogspot.com/2009/07/49.html
記念号。新デザイン、いいですね。
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●後記+プロフィール(山口優夢) from 週刊俳句・第118号
http://weekly-haiku.blogspot.com/2009/07/118.html
さいばら天気さんから、編集やってみませんか、というお話をいただいたのがおよそ1か月前。/(…)パスタをご馳走になり、あまりおいしいので長居し過ぎて終電を逃しました。はい。事実です。パスタで釣りました。
若い人に動いてもらいたいときは、「腹いっぱい喰わせる」。それは、私が若い頃、そうされていたから。
ネットを使えばいろんな人に会える、いろんな話が聞ける。それはこれまで週刊俳句をまつまでもなくいろんなサイトが証明してきたことだし、今更そんなことみんな分かっているようなことでもあるでしょう。俳句関連サイトの老舗のひとつに「ねずみのこまくら」があります。1997年1月1日開設ですから「週刊俳句」の10年先輩。このサイトのご主人、高澤良一さんの10句を「週刊俳句」にいただけたことをとても光栄に感じています。
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●時間 from Rocket Garden~露結の庭
http://yamadarockets.blog81.fc2.com/blog-entry-144.html
時間というのが人間の考え出した概念だとしたら人間にだけ時間が流れている、と言うことも出来るだろうか。いいえ、言えません。〔概念〕は人間の側にある(人が考える)ものですが、〔概念化される事象〕はいつも人間の外にある。流れているのは「時間」であって、「時間概念」が流れているわけではありません。当たり前のこととして、草木にも石にも時間は流れる。
「もの」は古くなる。/ここで「もの」というのは、いわゆる人間のつくったもの。人工物。/自然は古くならない。/草木は枯れて人間は老いるけれども、また新しい命が次々に生れる、という意味ではそれは永遠とも言える。/だとすると、人間のつくった「もの」だけが古くなる。/建物も車も洋服も、それから言葉も。いくつかの紛糾があるようです。こういう指摘は無粋ですが。
恣意的に、「古くなる」ことにのみ「時間」概念が割り振られています。しかし、「新しい命が次々に生れる」のもまた「時間」なわけで。
つまり、こういうことだと思うのです。雑駁に言って、時間にはふたつの時間がある。仮に、上記の文脈に合わせれば、自然の時間、人工の時間。言い換えれば、事実的時間と人間的時間、客観的時間と主観的時間(ほんと雑駁でつまんないですが)。
事実の時間は、不可逆的。石にも草にも人間にも例えば「一年」は同じく過ぎる。
人間の時間は、止まったり繰り返したり「矢の如く」過ぎ去ったりする。
人間は、「時間」を知覚したり、知覚しなかったり(=「無時間」を知覚したり)。ぐにゃっと曲げてみるなんて、しょっちゅう。そうとう、いいかげんです。それは「事実の時間」にまったくいいかげんなところがないから、かもしれない。
興味とお暇のある人はエドマンド・リーチの「クロヌスとクロノス」に関する論考なども(『人類学再考 Rethinking Anthropology』思索社・絶版/所収「時間とつけ鼻」)。
そして鴇田智哉「俳句とは何だろう」全12回(「雲」誌連載ののち週刊俳句に転載)は、絶えずこのテーマの周囲を経巡っていました。こちらは必読。
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それではまた、次の日曜日にお会いしましょう。
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