2010年1月12日火曜日

●コモエスタ三鬼02 狂騒のトゥエンティーズ

コモエスタ三鬼 Como estas? Sanki
第2回
狂騒のトゥエンティーズ

さいばら天気


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さて、1920年代。

いまここから1920年代を眺め、3つのポイントを挙げてみます。第一は、アメリカの好景気。第一次世界大戦(1914-18)後のアメリカ経済は、1929年10月24日「暗黒の木曜日」(=世界恐慌のはじまり)までは、たいそうな勢いで、世界最富国の地位を盤石とし、同時に、その後100年近くに及ぶ「大量生産・大量消費」の流れがこの時期に決定づけられた。

景気がいいので娯楽にもエネルギーが向かう。ジャズは、音楽ジャンルを超えて「享楽」の象徴となる。陰々滅々、内省に向かう遙か以前のジャズです。だいたいがダンスとセットの、高らかな調子(いわゆる「テンション、高い」)。人が集まれば(つまり都市)、大いに騒ぐ。まさに「ローリング・トゥエンティーズ」(狂騒の20年代 Roaring Twenties)というわけ。



第二は、パリやベルリンの芸術運動・芸術振興。例えばダダ(イズム)はすでに1910年代半ば、チューリッヒで始まっていて(トリスタン・ツァラですね、ダダの命名者)、続くニューヨーク・ダダ(ピカビア、デュシャン等)は1910年代後半。1920年代になると、パリが盛り上がる。フランスの芸術家(ブルトン、エリュアール、ルイ・アラゴン等)だけでなく、ピカソがいたり、アメリカからヘミングウェイやフィッツジェラルドが来たりで、いわゆる豪華な芸術サロンが出来上がる。

パリの1920年代は、20世紀の芸術革新(シュールレアリスムやらなんやら)の原典というか、揺籃というか、まあ、「ここから始まった」感が強い。その意味で、1920年代は特別な時代といえる。

ベルリンでも、ロシア革命(1917)後の芸術家の流入やらで、大いに盛り上がる。カフェ文化、キャバレー文化が花開いた。表現主義映画の名作が多く作られたのもこの時代(フリッツ・ラング「メトロポリス」は1927年)。また、ベンヤミンがスイス・ベルン大学からベルリンに戻ってくるのが1920年。しばしばパリに出かけ、フランス題材の仕事も多く残すこととなる。

このあたりの事情については、本がたくさん出ています。例えば『現代思想』増刊「総特集:1920年代の光と影」(青土社1979年6月)は、当時、オシャレ系の人(とくに美大出身系)の書棚にはかなりの高確率で立て掛けてあったように思う。この1冊でてっとり早く(アメリカや日本の1920年代も含め)、美味しいツマミ食いができます。

パリでサロンの中心人物のひとりだったガートルード・スタインの『アリス・B・トクラスの自伝 わたしがパリで会った天才たち』(筑摩書房1971)、『パリ フランス 個人的回想』(みすず書房1977)は絶版のようですが古書で容易に入手できます。そのほか参考文献は数限りない。一冊おすすめするなら、『優雅な生活が最高の復讐である』(カルヴィン・トムキンズ/新潮文庫)。題名どおり優雅な交遊のさまが描かれたノンフィクション。

アメリカやらパリやらのお祭り騒ぎは、旧来の出版メディアだけでなく、このころ本格的に盛んになったラジオやレコードでたくさんの人にその気分が伝わったことも付け加えておいていい。20世紀は「大衆の世紀」と言われますが、それはメディア(ラジオ)や複製技術(レコード)の広がりと密接です。



最後、第三は、日本。アメリカの好景気とは遠く、日本の1920年代は不景気でした。第一次世界大戦中は軍需景気にわいたものの、戦後はすぐに景気悪化。1923年の関東大震災、1927年3月の金融恐慌と、良い目は出ず。で、あげくが1929年の世界恐慌だから、なんとも苦しい10年間。

ただし、日本の1920年代で注目したいのは、景気ではなく、関東大震災です。

たしか小林信彦が言っていたのは(『私説東京繁盛記』)、東京は三度破壊された、と。最初は関東大震災によって、次は太平洋戦争によって、最後は東京オリンピックによって。

東京にとって、関東大震災が巨大な衝撃だったこと、それはそうなのですが、歴史的な大きな節目になったとも言えそうです。太平洋戦争(とりわけ敗戦)が分水嶺と考えられることが多く、それはそれで当たっていますが、文化的側面、とりわけサブカルチャー分野では、関東大震災の「前」と「後」で大きく違う。変化のひとつを約言すれば、ヨーロッパからアメリカへ。日本における「海外」性のシフト(註1)

日本文化史というと、和製の響き、三味線が鳴って猪脅しがカッポーンてな具合に思うかもしれませんが、明治以降は「海外」という要素は存外大きい。そこで、関東大震災ですが、その以前から以後へ、海外の主成分がヨーロッパからアメリカへ、急激にシフトするのですね。

これにはアメリカの伸長が影響大。日本が輸入する映画が、震災以前・以後で欧州映画から米国映画へ、本数からして明らかにシフトするのは、チャップリン映画が世界的に大当たりしたことがあります。でも、それだけでもない。文化的覇権の欧州からアメリカへの移管について、日本では、関東大震災という大事件が、変化を変化としてくっきりと浮き上がらせる働きをしたといえそうです。カタストロフは、いわゆるガラガラポンの役割を果たしますから、旧から新へ、大変化の契機としては申し分ない。関東大震災については、ほかにも興味深いことがたくさんありますが、別の機会(って来るのか?)に譲ります。

まとめると、三鬼が20歳代(青年期)を過ごした1920年代は…

 アメリカの伸長と拡大
 パリやベルリンでの芸術革新の始まり
 日本の関東大震災

…と、この3つの大変化が生起した、その後の100年を決定づけるような大激動の10年間だったといえます。

そこで、さて、三鬼が、この10年をどう過ごしたか。そこが肝腎なわけですが、次回、それを見ていくことにします。

(つづく)


(註1)くだけた言い方をすれば、日本人の「アメリカ好き」は、敗戦後の「ギブミーチョコレート」に始まったのではない。すでに1920年代、アメリカ文化の受容は始まっていた。以来、現在に至るまで、その傾きは変わらず継続。太平洋戦争の4年間だけを例外的な「絶縁期間」と捉えるのがよいと考える。

  ハルポマクルス神の糞より生れたり  三鬼 (1936年の作)


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