ホトトギス雑詠選抄〔4〕
冬の部(一月)氷柱
猫髭 (文・写真)
遠き家の氷柱落ちたる光かな 高浜としを 大正9年
小さき葉も小さきつららや皆つらら 高木晴子 昭和11年
今週は「氷柱」の句を二句置いた。としを句は望遠レンズでとらえたような景であり、晴子句は接写レンズでとらえたような景で、対照的だが、波多野爽波が「季題とは立体的多面的なもので、たくさんの稜(かど)を持ったミラーボールのようなものです。ミラーボールはその捉え方によって返ってくるものが違ってきます」(註1)といった言葉に添うような句だなと思ったからである。
波多野爽波は、自身が主宰の結社「青」の弟子たちに「ホトトギス雑詠選集抜粋」を月二十句づつ原稿用紙に書き抜いて、それを音読し、写経ならぬ写俳をさせていた。爽波は、「単に眼で活字を追うのではなく、耳から聴いたものがすぐさま文字となる。これに勝る勉強法は他に無いのではなかろうか」(註2)とまで言っている。上記二句も爽波抜粋の一月の句の中に入っている。
また、どちらも虚子編『新歳時記』に収録されている。ただし、晴子句の「ホトトギス」初出は「小さき葉もちさきつらゝや皆つらゝ」と「小さき」「ちさき」と表記が分かれ、繰り返しの「ゝ」を使っている。晴子と虚子とどちらが表記を推敲したかわからないが、初出をそのまま載せるか、推敲があればそれを載せるかは作者に任されていたと記憶するので、晴子による推敲と思われる。推敲した表記の方が外連が無く読みやすいと思われたので、掲出句は後出の表記を載せた。
としを・晴子とも虚子の実子である。虚子には八人の子供と十九人の孫がいた。高浜年尾は長男。当初「としお」を俳号とし、昭和13年から「俳諧」を主宰して後「年尾」に改めた。昭和26年に虚子より「ホトトギス」主宰を継いだ。高木晴子は虚子の五女で俳誌『晴居』主宰。
高浜年尾は「氷柱」では他に、
月の夜の氷柱の軒に戻りけり としを 大正11年
つまづきて滝の氷柱の躍り落つ としを 昭和11年
の二句が採られている。
昭和6年発行の『ホトトギス雑詠全集』第十巻「冬の部」には、七十七句「氷柱」の句が並ぶ。後に京大俳句事件の黒幕となった小野蕪子や、山口誓子、水原秋桜子、山口青邨の若書きも見られるが、昭和17年の『ホトトギス雑詠選集』第四巻「冬の部」では十句に絞られ、青邨以外、蕪子も誓子も秋桜子も落とされている。いずれも佳句だが、虚子は昭和の句を多く選び、新しい「雑詠」の秀句を多く世に問おうとしていた。青邨は昭和6年には二句選ばれ、昭和17年には一句落とされたが、残った一句がまたいいのである。
みちのくの町はいぶせき氷柱かな 山口青邨 昭和5年
「鬱悒(いぶせ)き」が効いている。
(註1)西野文代編『爽波ノート』所収「いのち」より(「文」創刊五周年記念)
(註2)『波多野爽波全集 第三巻』所収「俳句の書き取り」より(邑書林)
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